第9/9話 脱出

(ダクトだ……機械室に設置されている、ダクト。あれを通れば、外へ抜けることができる)

 他にも、脱出口があるのではないか。そう迷っている時間はなかった。ビーチボールが、だんだん萎びてきていたからだ。それを咥えたまま、手足で水を掻いて、移動し始める。

 一階の四割、上から見ると扇形をしている空間が、普段の生活で使われている。残り六割の空間が、機械室である。

 そこへの入り口は、階段の左隣、壁に付いている。普段から、特に、施錠はされていない。ノブを掴むと、扉を引っ張って、開けた。機械室も水で満たされているおかげか、多少の抵抗は感じたものの、大して苦労することなく、ドアを動かすことができた。

 そこは、住居というよりも、何かしらの工場のような空間だった。床は、フローリングではなく、縞鋼板である。端には、折り曲げた鉄パイプを、縦に数段重ねたような手摺りが設けられていた。

 床は、入り口から約一メートルで、行き止まりになっている。幅も、約一メートルしかない。廊下、と表現するより、足場、と表現したほうが、適切かもしれない。

 そこより先には、地面や壁、天井に、いろいろな機械や装置の類いが、ぎっしりと設けられている。さいわいにも、空間の中央には、人が一人、ある程度の余裕を持って通れるくらいの大きさのスペースが開いていた。さながら、トンネルのようになっている。

 そもそも、これらのマシンは、屋内から整備されることを想定されていない。家の一階部分の外壁には、大きな蓋がついている。メンテナンスは、それを開け、屋外から行うのだ。入り口にある短い足場も、各種の絡繰りが正常に稼働していることを、屋内から簡単に確認するためだけの物だ。

(ん、待てよ……その、保守のために設けられている蓋から、脱出することはできないだろうか?)

 一瞬、そんな考えが頭を過ぎった。しかしすぐさま、ふるふる、と首を横に軽く振って、打ち消した。

 その蓋は、メンテナンス中でない、普段の日常生活において、誤って開くことのないよう、しっかりとロックされているのだ。とうてい、この状況下でどうにかできるような代物ではない。

(たしか、ダクトは、ちょうど、物置の裏側──つまり、機械室の最奥にあったはずだ。とりあえず、そこまで行ってみよう)

 一寿は、頭上にある足場に取りつけられている手摺りの下を、通り過ぎた。珊瑚礁じみた機械のトンネルを、泳ぎ始める。

 当たり前だが、この部屋も、家が回転したことの影響を受けていた。あちこちに設けられているマシンは、固定具が外れて落下したり、あるいは、落下してきた物に衝突され、壊れたりしていた。穴が開いていたり、パイプが曲がっていたり、プラスチックが割れていたりと、損傷は数えきれないほどだ。

 それからも、周囲を少しばかり見回しながら、泳いでいった。しばらくした後、口に咥えているビーチボールが、何かにぶつかり、ぶす、という触感を味わった。

(何だ、何だ?!)一寿は、反射的に顔を仰け反らせた。

 ぶくぶくぶくぶく、という音がした。同時に、ビーチボールの後ろから、気泡が、大量に噴出し始めた。

(えっ? えっ?)

 突然の事態に、半ば混乱、半ば放心する。そうしている間に、入っていた空気はすべて抜け、ビーチボールはぺしゃんこになってしまった。

(な……何が起きたっていうんだ……)

 一寿は、そんなことをしている場合ではないというのに、思わず、そう心の中で呟いた。顎の力が抜け、萎びたビーチボールが、ぽろり、と口から外れた。それは、ゆるりゆるり、と回転しながら、天井めがけて下降していき始めた。

 ボールの、栓が付いている箇所とは反対側に位置する箇所が、目に入った。そこには、直径二センチほどの、歪な円形をした穴が開いていた。

 一寿は、ばっ、と顔を上げ、前方を凝視した。左方の壁に設けられている機械の隙間から、細長いパイプが突き出ていることに気づく。

 それは、隙間から約十センチ伸びた後、直角に、こちらに向かって曲がっていた。さらに、そこから約五センチの地点で、ぽっきり、と折れていた。その先端は尖っていて、さながら竹槍のようになっている。ビーチボールが、それに突き刺さったことで、穴が開いてしまったに違いなかった。

(く……! これで、もう、呼吸ができない……!)

 一寿は、パニックに陥りそうになった。しかし、今は、頭全体が冷たい水の中に没しているためか、ある程度、冷静さを保つことができた。

 思考を切り替える。何事もなかったかのように、泳ぐのを再開した。緊張するのも、恐怖するのも、酸素を消費してしまう。今は、何の感情も抱くことなく、機械室の中を進んでいくしかない。

(それに、おれは、大学では、水泳部に所属している……なあに、息を止めることなら、慣れているさ)

 数秒後、唐突に、直径が五十センチほど、側面幅が十センチほどの、巨大な円盤が、頭上から、一寿めがけて、ゆっくりと下降してきた。

(な……!)

 反射的に、身を仰け反らせる。しかし、間に合わなかった。

 近くにあった、直方体である、何かしらの装置の上面に置いていた左手が、円盤の下敷きになった。ぐちゃん、という鈍い音が、はっきりと耳に届いた。

「ごぼぼぼぼ……!」

 一寿は、息を止めていなければならないことも忘れて、口を開け、呻き声を上げた。円盤は、その後、ばたん、と、装置の上に倒れた。

「ぐぶぶぶぶ……!」

 一寿は左手に視線を遣った。手の甲が真っ平に潰れている。皮膚が裂け、あちこちの隙間から、赤い肉だの白い骨だのがはみ出ていた。

 気が狂ってしまうのではないか、そんな恐怖を覚えるほどの激痛が、彼を襲っていた。しかし、問題はそれだけではなかった。小指の第二関節から先が、未だ、倒れている円盤の下敷きになっているのだ。

「がばばばば……!」

 一寿は、激痛に耐えながら、ぐい、ぐい、と、小指をに力を入れてみた。しかし、円盤の下からは、引っ張り出せそうになかった。

(ぐう……!)

 一寿は、今度は、右手で円盤を掴んだ。持ち上げようとしたり、押し退けようとしたりする。

 しかし、いずれも成功しなかった。円盤は、とても重く、いくら力を加えようと、文字どおり微動だにしなかったのだ。

(クソ……このままじゃ、溺れちまう……!)

 今や、小指からやってくる激痛は、絶え間ないせいで、いくぶんか慣れてしまっていた。両足で装置の側面を踏みつけ、右手で左手首を握ると、ぐいいーっ、と、渾身の力を込めて、引っ張る。しかし、円盤の下から抜くことはできなかった。

 数秒後、一寿は、視界の右端、機械と機械の隙間から突き出ている、複数のパイプの上に、何か、引っ掛かっている物があることに気づいた。

 それは、何かしらの装置の一部であろう、金属製の円柱だった。底面直径は約十センチ、高さは約三十センチ。先端が、高さ十センチ弱にわたって、斜めに欠けている。さながら、鑿のようになっていた。

(これだ……!)

 一寿は、右手を伸ばすと、円柱を掴んだ。先端を、左手の小指、第二関節と第三関節の間に、当てる。

 もはや、他に手段はなかった。すっ、と、それをわずかに持ち上げた後、間髪入れずに、あらん限りの力を込めて、振り下ろした。

 水中にいるにもかかわらず、だんっ、という鈍い音が、はっきりと聞こえた。円柱の先端が、装置の上面に衝突したのだ。

 同時に、左手が自由になった。小指の、第三関節の真ん中から先は、消失していた。

「ぐぼぼ……!」

 一寿は呻き声を上げた。激痛は、もはや慣れてしまっていたはずなのに、まるで初めて味わうかのようだった。思わず、左手の小指を押さえる。

 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。彼は、息止めが限界に近づいてきていることを、感じ取っていた。

(クソが……!)

 心の中で悪態を吐きながらも、泳ぐのを再開した。その後、数十秒が経過したところで、ようやく、機械室の最奥に着くことができた。右の壁、天井付近に、ダクトの排気口がある。

(よし……!)一寿は、それめがけて移動していった。

 排気口には、蓋が嵌め込まれていた。細い横棒が、たくさん取りつけられていて、縞模様のようになっている。

 しかし、それらの棒は、ほとんどが曲がったり折れたりしていて、蓋の中央部には、人一人が通れるほどの穴が開いていた。家が回転していた時に、機械室にあるいろいろな物が、激しくぶつかったせいだろう。

(とにかく、早く外に出ないと……!)

 一寿は、蓋に開いている穴をくぐると、ダクトの内部を、泳いで進んでいった。今や、心臓は激しく鼓動しており、目は大きく見開かれ、歯は強く食い縛られていた。明らかな息苦しさが、胸を襲っていた。

(クソ、まだか、まだなのか、出口は……! ま、まさか、このダクト、永遠に続いているんじゃ──)

 酸素が制限されており、ろくな思考ができないせいか、非現実的な恐怖に駆られた。しかし、それも、数秒で消え失せた。左への曲がり角を折れたところで、数メートル先に、出口である排気口があるのを目にしたためだ。しかも、蓋は、取りつけられていなかった。家が転がり回った時に、激しく損傷し、どこかへ吹っ飛んでしまったに違いなかった。

(やった……!)息苦しいにもかかわらず、笑みが浮かんだ。

 一寿は、すい、と、排気口を通り抜けた。曲がりくねったダクトを進んできたせいで、空間識がすっかり損なわれていたので、頭を、上下左右に、ぐるり、と回した。

 湖の底が、腹の前方に位置していることを把握した。体の向きを変えると、水面めがけて、泳ぐ。

 数秒後、ざばあっ、という音を立てて、一寿の頭、顔、首、なんなら鎖骨のあたりまでが、空気中に飛び出した。

「ぷはあーっ! はあーっはあーっはあーっ、はあーっ、はあーっ……はあーっ……」

 意識的に肺を膨らませたり縮ませたりして、ひたすら、酸素を取り入れる。数十秒、その行為を続けていると、さすがに呼吸が落ち着いてきた。ぐるり、と辺りを見回し、周囲の状況を確認する。

 一寿は、今、水没し、湖底に転がっている家から、東に数メートル離れた所に、浮かんでいた。

 岸に、視線を遣る。野次馬だのマスコミだのが集まっている気配はない。一連の騒動が、彼らの関心を惹かなかった、とは考えにくい。もしかしたら、スキージャンプ台から跳んだ後、どこへ吹っ飛んでいったのか、まだ、突き止められていないのかもしれない。

(何にせよ、早く陸に上がらないと……さいわい、ズボンのポケットには、防水のスマートホンが入っている。それで、救急車を呼ぼう。実際、左手に負った怪我は、一一九番通報をするに値する)

 一寿は、岸を見渡した。そして、現在位置から南西に数十メートル離れた所に、小さな磯があるのを発見した。

(よし……あそこから、陸に上がろう)彼は、そう決心すると、泳ぎ出そうとした。

 その直後、ずるり、と、ズボンのポケットから何かが零れ落ちるような感覚を味わった。ちら、と、足下に視線を遣る。

 スマートホンが、湖の底めがけて、ゆっくりと下降していっているところだった。

(おおっと……危ない危ない)

 一寿は息を、すうう、と吸い込むと、ざぶん、と潜水した。泳いで、スマートホンを追いかける。

 湖の底は、西から東にかけて、緩やかな下り斜面になっていた。基本的に砂地だが、彼の真下には、背は低くて面積は広い、表面が凸凹している岩があった。

 スマートホンは、それの上に着地した。一寿は、そこまで行くと、端末を拾い上げ、ズボンのポケットに入れた。

 次の瞬間、どごおん、という鈍い音が、水中であるにもかかわらず、聞こえてきた。同時に、周囲の水が、ごごご、と振動したのが感じられた。

(今度は何だ?!)

 一寿は、そう心の中で叫びながら、音と振動がやってきた方向──真西に、視線を遣った。

 家が、こちらめがけて、ごろんごろん、と転がってきていた。

「がばっ……?!」一寿は、あんぐり、と口を全開にした。

 視界の端に、真っ赤な何かが映り込んだのに気づいて、はっ、と我に返った。そちらに目を遣る。

 それは、湖底へと落下している最中である、「カドケウス」という名前のセダンだった。ボンネットは、ぐちゃぐちゃにひしゃげており、フロントウインドウは、粉々に割れている。運転席には、サラリーマン然とした若い男性が座っていた。気絶しているのか死亡しているのか、顔を上に向けたまま、体が水に揺らめくのに任せている。

 そこで、ようやく合点がいった。岸の上には、車道が通っており、家のちょうど西方には、東へ突き出るような形のヘアピンカーブがある。おそらく、あの自動車は、カーブを曲がりきれず、外へ飛び出してしまったのだろう。その後、家にぶつかった。その衝撃を受けて、家は、転がり始めたというわけだ。

 そこまで考えたところで、カドケウスが、底に着地したのが見えた。(クソ……とにかく、この場を離れないと……!)

 一寿は、ぐるり、と、体を回転させた。頭を湖面に、足を湖底に向ける。

 すかさず、四肢で水を掻き、浮上しようとした。水面にまで到達してしまえば、家は、下を通り過ぎていくはずだ。

 しかし、進めなかった。右足が、ぐい、と、何かに引っ張られたのだ。

(何……?!)一寿は足下に視線を遣った。

 ズボンの右脚の裾から、ウエスト用の、伸びきったゴム紐がはみ出ていた。それの先端が、岩の表面にある凸凹に挟まっている。

(ふ……ふざけんな! ふざけんなよ!)

 一寿は思わず、心の中で喚いた。紐を掴むと、ぐい、ぐい、と引っ張り、抜こうとする。

 しかし、抜けなかった。力が足りない、というよりも、どうやら、岩の凸凹が入り組んでいて、紐の先端が、その間で複雑に絡みついてしまっているようだった。

 一寿はその後も、紐を引っ張り続けた。数秒後、背中に、どしん、という強い衝撃を受けた。それと同時に、体が岩の表面に押しつけられた。

 そうだ、ズボンを脱げばいいんだ。そう心の中で呟いた次の瞬間、刹那的な激痛を味わった。呻き声を上げる間もなく、その直後に、意識が途絶えた。


   〈了〉

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回転住宅 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

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