第8/9話 沈没
奥には、家の中心を貫いている柱がある。廊下は、その手前で、右に百四十度強折れていた。その後は、壁までまっすぐ伸びている。その突き当たりの右方には、一階に通じる階段があった。
廊下の右方、三階に至る階段と一階に至る階段の手前には、トイレがある。出入り口は、洗面所のそれと向かい合うようにして設けられていた。
柱から一階に通じる階段までの廊下の左側は、キッチンとなっていた。そこは、上から見ると扇形をしており、フロアの五分の一を占めている。位置は、バスルームの左隣だ。壁に沿うようにして、流し台やガスコンロなどの調理台が設けられている。
手を、壁から柱へ移らせつつ、よろりよろり、と歩き続ける。普段は、柱に背面をくっつけるようにして置いてある冷蔵庫が、今や、台所の奥のほうで横倒しになっているのが、視界の端で捉えられた。
一瞬、さきほど洗面所で感電した時のことを思い出し、さっ、と、血の気が引いた。しかし、すぐさま、ほっ、として、血の気が戻ってきた。プラグが、コンセントから抜けているのが見えたためだ。
しかし、今度は、別の問題に直面した。
天井にくっつけるようにして設けられている棚や、調理台の下部にある空間など、すべての収納スペースの扉が、開きっ放しになっている。そこに入れられていた物のうち、ほとんどが外に飛び出し、辺りに転がっていた。
ガラス製であるコップの破片だの、陶製である茶碗の破片だの、金属製であるフォークだのが、散乱している。文字どおり、足の踏み場もない。それらは、キッチン内に留まらず、廊下にまで及んでいた。
一寿は、ちら、と、両足に視線を遣った。仮に、このまま歩いたら、怪我を負ってしまうことは、火を見るより明らかだった。
(箒か何かを使って、掃くか? ……いや、それは手間がかかる……だいいち、その類いの物は、今、持っていないし、近くにありそうもない……)
一寿は、腕を組むと、考え込み始めた。しかし、そうやって思いを巡らせている時間すら、もう、大して残されていなかった。水位はすでに、膝の高さを少し超えるくらいにまで、上がってきているのだ。
(何か、何かないのか、打開策は……)彼は、きょろきょろ、と辺りを見回した。
その時、トイレの扉が目に入った。
(──あれだ!)
一寿は、ばしゃばしゃばしゃ、と、扉に駆け寄った。ノブを掴むと、思いきり、手前に引っ張る。水が溜まっているせいで、強い力を入れなければならなかったが、なんとか、開けることに成功した。
便器が、逆さまの状態で、床に貼り付いていた。辺りには、トイレットペーパーや掃除用のブラシ、ラバーカップなどが、水に浮かんでいたり、天井に沈んでいたりしていた。
そして、それらの中には、スリッパもあった。
百円均一ショップで購入した物だ。プラスチック製で、靴底の強度は、それなりに確保されている。
「よし……!」
一寿は、スリッパを拾い上げた。履くと、キッチンに向かう。
天井に散乱している、小物類や破片類の上を、がちゃがちゃがちゃ、という音を立てながら、歩いていった。慎重に、踏む場所を選んで進んだおかげか、尖った物が靴底を貫通して足に刺さった、というようなトラブルもなく、台所の前を通り過ぎることができた。
「やった……!」
一寿は、ぐっ、とガッツポーズをした。数秒後、一階に通じる階段の前に到着する。
すでに水位は、股間のすぐ下にまで迫ってきていた。彼は、今やスロープと化している、階段の裏面を、上り始めた。
「後は、玄関へ行くだけだ……!」
思わず、独り言ちる。ゴールが近い、ということで、少しばかり、気分が高揚していた。
しかし、不安がまったくない、というわけではなかった。家は、あちこちを、ごろんごろん、と転がった。もしかしたら、その衝撃により、玄関扉が変形し、開けられなくなっている、という事態が発生しているかもしれない。
「どうか、そんなことは起きていませんように……」一寿は祈りながら、階段の裏を上がりきった。
一階は、フロアの四割を占める扇形の空間が、普段の生活で使用されている。玄関は、階段を出てすぐの所に位置していた。土間の向こう側の壁には、両開きの扉が設けられている。そこは物置となっており、中には、野球のバットやビーチボールなど、さまざまな物が乱雑に押し込まれていた。
結論から言うと、一寿の祈りは通じた。出入り口には、ドア自体、付いていなかったのだ。どうやら、家が転がった時の衝撃で、外れ、どこかへ吹っ飛んでしまったらしい。
しかし、玄関に視線を遣った彼は、絶望した。
網戸が、閉まったままとなっていたのだ。
「な……!」一寿は、あんぐり、と口を開けた。
いわゆる、玄関網戸というやつだ。金属製の太い横棒が、真ん中に一本、細い縦棒が、等間隔で十数本、設けられている。それらの棒で囲まれた四角い空間に、網が張られていた。
(普段は、ほとんど使わないため、開きっ放しにしているというのに……家が転がっていた時の、遠心力だの衝撃だののせいで、勝手に閉まってしまったのか……?)
一寿は、網戸に近づくと、なんとか取っ払おうとして、いろいろなことを試みた。ノブを掴んで、ぐいぐい、と引っ張ってみたり、物置から野球のバットを取り出して、がんがん、と殴りつけてみたりした。
しかし、いずれも徒労に終わった。多少、掠り傷や凹みなどを付けられたものの、完全に破壊したり、人が通れるくらいの隙間を開けたりすることはできなかった。
「クソ……なんて頑丈なんだ……」
しかし、諦めるわけにはいかない。なにしろ、ここしか出口がないのだ。
その後も一寿は、がんがんがん、と、バットで網戸を殴り続けた。水位はすでに、一階の天井に達しており、踝くらいの高さに上がってきていた。
(フロア全体が水で満たされるまで、まだ、時間はある……とにかく、一刻も早く、出口を確保しないと……!)
自分では冷静さを維持していたつもりだったが、実際には、かなり焦っていたのかもしれない。すっかり、忘れていた。沈没する船だって、内部の空間すべてが水で満たされた後に、ようやく沈没するわけではないというのに。
ごごごごご、という重低音とともに、エレベーターが下降する時のような気持ち悪さを感じ始めた。同時に、網戸の隙間から、水が、ざばざばざば、と室内に流れ込んできた。
「うわ、うわ、うわ……!」
一寿は思わず、網戸の隙間を手で押さえた。やはり、冷静ではなかったのだ。水は、彼が押さえきれていない隙間から、彼の指と指の間から、ざばざばざば、と、室内に流れ込み続けた。
悲鳴を上げる間もなかった。わずか数秒のうちに、フロアは水で満たされた。
数秒後、ぼふ、という音とともに、家の下降が止まった。湖の底に到達したに違いなかった。
一寿は、床に頭頂部をぶつけそうになるくらいの高さにまで、浮かび上がっていた。ちら、と、上に視線を向けたが、空気は残されていなかった。
(クソ、クソ、クソ……! 何か、ないか、何か、酸素、補給、できる、物は──)
一寿は、「ある!」と叫ぼうとした。当たり前のことだが、水中にいるためろくに発声できず、「がぼ!」というような音を出すだけに終わった。
彼は、物置の前に移動した。扉は、開かれたままになっていた。玄関網戸を破壊しようとして、バットを出した時、いちいち閉めていられなかったのだ。
一寿は、そこの中から、ビーチボールを取った。先週、友人たちと海で遊んだ時、使用した物だ。萎ませるのを面倒に感じたため、膨らんだままの状態で、ここに押し込んでいた。
彼は、水が入り込んでしまわないよう気をつけながら、蓋を開け、栓を口に含んだ。空気を、すうう、と吸うと、ごぽぽ、と鼻から吹く。
それを、しばらく繰り返していると、気分が落ち着いてきた。物事を冷静に考えられるようになる。
(これから、どうすればいい? こうなった以上、もう、玄関網戸を破壊することは不可能だろう……しかし、他に出入り口はないしなあ……そう、屋外へ行くことができる、通り道のような物は──)
いや。ある。
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