第7/9話 電気ショック

(まだ、水位は、このフロアには達していない……だが、それも、長くはないだろう。さほど時間をかけずして、ここも水浸しになるはずだ……今のうちに、早く一階へ向かわないと)そんなことを考えながら、一寿は小走りに進み始めた。

 三階からの階段を下りきった所には、右方へ伸びている通路がある。その左の壁──彼から見て正面に位置する壁──の向こう側は、洗面所となっていた。通路の、階段を下りきった所から柱までのちょうど中間に、スライド式の扉が付いている。

 現在、それは開きっぱなしになっていた。原因は、明白だ。洗濯機が、ドアのレールを跨ぐようにして、横倒しになっているのだ。

 辺りの天井には、水が溜まっている。どうやら、湖の物ではなく、水道の物のようだ。今も、びちゃびちゃびちゃ、という音が聞こえてきている。

 一寿は、首を伸ばすと、室内を、さっ、と軽く見回した。洗面所は、上から見ると扇形になっており、フロアの五分の一を占めている。向かって右側には、壁に沿うようにして、洗面台が、左側には、柱の根元に、洗濯パンが設けられていた。

 洗面台の下部は、収納スペースになっている。今、それの扉は開きっ放しになっていた。内部にしまっていた、洗剤ボトルやゴム手袋といった掃除用具が、天井に散乱していた。

 真ん中は通路になっており、突き当たりの壁には扉がある。それの向こうは、バスルームになっている。その部屋も、洗面所と同じで、上から見ると扇形であり、フロアの五分の一を占めていた。

 洗面台の、ボウルの上には、水栓金具が付いている。それが、何か物でもぶつかったのか、ぽっきりと折れていた。そこから、弱々しい打たせ湯のごとく、水が流れ落ちているのだ。

 一寿は、首を引っ込めると、洗濯機に視線を遣った。(たしか、これ、叔父さんの発明品だったよな……新開発の電撃殺菌機能が搭載されている、とか何とか……)はあ、と溜め息を吐いた。(どうせなら、もっとコンパクトな物を作ってくれればよかったのに……)

 彼は、そう心の中でぼやいた後、それを乗り越えようとした。水溜まりに、ぴしゃ、と右足を浸す。

 ばちばちっ、というショックが、全身に走った。一時的な物ではない。ばちばちばちばちばちばちばちばち、と、絶えることなく流れ続けた。

 手足が、びいん、と伸びきり、ががががが、と小刻みに痙攣し出した。顎が、がくがくがく、と震え、目玉が、ぐるぐるぐる、と回る。

 全身に走る激痛のあまり、思考がままならない。それどころか、体を動かすことすら、いっさいできなかった。

 ぐらり、と家が揺れた。一寿は、バランスを崩すと、ばったり、と仰向けに倒れ、ずず、と天井を少し滑った。右足が、水溜まりの外へ出た。

「……はあーっ! はあーっ、はあーっ、はあーっ……」

 荒い呼吸を繰り返す。さきほどまでの、強烈なショックや激しい痛みは、まるで嘘であったかのように治まり、手足の硬直や顎の痙攣は、まるで夢であったかのように失せていた。

 一寿は、むく、と上半身を起こした。「な……何だったんだ、今の……」と、ぼそり、と呟く。

 そのまま、しばらくの間、放心していた。しかし、家が再び、ぐら、と軽く揺れたのを感じて、我に返った。

 四つん這いになり、水溜まりに触れないように気をつけながら、洗面所の入り口に近づく。ぐい、と首を伸ばして、内部を覗き込んだ。自分の身に、いったい何が起きたのか、探る。

 それの正体は、すぐにわかった。洗濯機の底から伸びているコードの先端に付いているプラグが、未だ、柱の側面に設けられているコンセントに、挿し込まれたままになっている。コードの、プラグに近い部分が、約十センチにわたって、皮膜が破れており、中の線が剥き出しとなっていた。

 洗濯機やコードは、全体的に濡れている。洗面台の、折れた水栓金具から流れ落ち、天井に溜まっている水が原因だ。最初に、洗面所の様子を確認した時は、さっ、と軽く見回しただけだったので、気づかなかった。

「感電、したってのか……」

 さきほど全身に走ったショックや激痛は、電流が通ったことによるものだったのだ。

 一寿は、首を引っ込めた。(洗濯機は、廊下を塞ぐようにして倒れている……乗り越えたいが、全体的に水に濡れている以上、触ったら感電してしまうだろう。いったい、どうすれば……)

「……そうだ!」

 プラグがコンセントに挿さったままであるせいで、通電状態が維持され、感電してしまうのだ。抜いてしまえば、電気は供給されず、したがって、感電することもない。洗濯機を乗り越えることが、できるようになる。

(コードも、全体的に水に濡れているから、素手で触ると、電気ショックを浴びる羽目になる。そう──素手、ならな……)

 一寿は再度、首を伸ばして、洗面所の様子を窺った。天井に散乱している物の中に、ゴム手袋があることを確認する。

(先に、あれを取ろう。あれを手に嵌めてから、コードを掴んで引っ張り、プラグをコンセントから抜けばいい)

 一寿は、立ち上がると、中腰の姿勢をとった。おっかなびっくり、といった様子で、ゴム手袋めがけて、左手を伸ばす。

 まだ、あの、感電した時の、ショックや痛みの記憶が、トラウマのごとく残っていた。心臓が、どくんっ、どくんっ、と、激しく鼓動していることが、感じられた。

 突然、ぐらり、と家が揺れた。

「?!」

 一寿は、体のバランスを崩した。洗濯機の上に覆い被さるような格好で、倒れそうになる。

「うっ……!」

(洗濯機に触れるわけにはいかない……クソ、こうなったら、一か八か──跳び越えてやる!)

 一寿は、両脚を、ぐっ、と、軽く曲げた。間髪入れずに、ばっ、と、伸ばそうとする。

 その時、再び、家が、ぐらり、と揺れた。

「わわっ?!」

 足が、ずる、と滑った。踏ん張ろうとするが、なにしろ、ジャンプするまさに直前だ、そう上手くは行かない。跳躍する方向が、前方から、やや右斜め前方へ、変わった。

「く……!」

 ジャンプを中断する、というような、器用なこともできない。一寿は、そのまま両脚を伸ばしきった。足が天井を蹴りつけ、体が宙に浮いた。

 彼は、洗面所に跳び込んだ。

「……!」

 思わず、背泳ぎするかのように、手足を後ろに回転させた。しかし、当然のことながら、胴は前進するばかりだった。

 宙に浮いていたのは、一寿自身としては、数十秒のように感じられたが、実際には、一、二秒だけだったに違いない。彼の体は、すぐに、水浸しになっている天井に、どしん、と、俯せに激突し、ぱしゃん、と小さな飛沫を上げた。

 ばちばちばちばちばちばち。

「あがががががががががが」

 水浸しの天井に接している、顔から、腹から、腕から、脚から、絶え間のない、強烈なショックと激しい痛みがやってきた。

「あがががが。あがががあがががあがあが。あがが」

 なんとか、手を天井につき、立とうとした。しかし、感電しているせいで、筋肉が強張り、ろくに動かせない。それでも何度か、掌を床に触れさせることはできたが、べちゃ、べちゃ、と、擦りつけるだけに終わった。腕を伸ばして体を持ち上げる、なんてことは、できそうにない。

(まっ、まずっ、こっ、このっ、ままっ、じゃっ、死っ、死ぬっ、死ぬっ)

 一寿は手足をばたつかせた。それ以外に、やれることがなかった。

 それから十数秒が経過した頃、唐突に、ショックと痛みが、完全に消失した。

「はあーっ、はあーっ、はあーっ、はあーっ、はあーっ、はあーっ、はあーっ、はあーっ……」

 ショックと痛みは、すでに消え失せているにもかかわらず、しばらくの間、それらが継続しているかのように、荒い呼吸を続けた。息を整えることができたのは、もはや体に電気が流れていないことを、具体的に認識できてからだった。

「……何が、どうなってんだ……?」

 一寿は、むくり、と上半身を起こすと、ぐるり、と辺りを見回した。洗濯パンに、視線を遣る。

 プラグが、コンセントから抜けていた。

 そこでようやく、左足の薬指と小指の間に、何かが絡まっていることに気づいた。それは、洗濯機から伸びているコードだった。

(そうか……四肢をばたつかせている間に、コードが足に絡まって、引っ張られ、それで、プラグがコンセントから抜けたのか……)

 何はともあれ、助かった。一寿は、ふうー、と胸を撫で下ろした。

 もう、ショックや痛みは、すっかり消え失せてはいるものの、完全にトラウマと化していた。肉体も精神も、ぼろぼろに消耗している。

 休憩をとりたかったが、そうも言っていられない。すでに水位は、このフロアに達しており、天井から十センチほど離れた所にあった。

 未だにやや強張っている手足を操作し、なんとか、四つん這いになる。その後、壁に手をつきながら、よろり、と立ち上がった。

 掌を壁に擦りつけるようにして、体を支えながら、移動する。洗濯機を乗り越えて洗面所を出ると、廊下を歩き始めた。

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