第6/9話 爆発

 家は今、どうやら、儒浸山の麓にある、舟中湖という湖の上に浮かんでいるらしい。スキージャンプ台によって、ここまで飛んできたというわけだ。水面がクッションとなってくれたおかげで、家は、着水した後、崩落せずに済んだのだろう。

 家の現在地点の西方には、湖岸がある。それは、大部分が直線的だったが、一部だけ、三角形に出っ張っている箇所があった。上から見ると、おおむねまっすぐである湖岸線の途中に、ぽこっ、と、トゲが生えているような印象を受ける。家は、それの頂点から、東に十数メートル離れた所に、位置していた。

 湖岸に沿うようにして、車道が造られている。それは、例の、三角形に出っ張っている所では、ヘアピンカーブになっていた。近くには、一寿の父親が勤めている、由良那須商事の事業所が建っているのも見える。

 しかし、家の周囲を悠長に確認していられたのは、そこまでだった。リビングに溜まっている水の嵩が、明らかに増えてきているのだ。

(まずい──このままじゃ、家は、沈没するぞ……! その前に、外へ脱出しないと!)

 一寿は、大窓のサッシのうち、手前にあるほうの枠を掴むと、左へスライドさせた。

 動かせたのは、わずか十センチほどだった。突如、がたん、という音がして、それ以上は進まなくなった。

「な……?!」

 一寿は、思わずそんな声を上げた。サッシを左へスライドさせようと、何度も試みる。しかし、いくらやっても、十センチほどしか開かなかった。

(クソ……家が転がっていた時の衝撃で、窓枠が歪んでしまったに違いねえ……!)

 一寿は次に、サッシに乗り、ガラスを踏みつけたり蹴りつけたりした。しばらくしてから、近くに、横転しているワゴンがあるのを見つけると、それを持ち上げ、力の限り勢いをつけて、落としたりした。

 しかし、破壊することはできなかった。付いている傷は、相変わらず、電車に衝突された時の物だけだ。

(駄目だ……もう、ガラスを割ることにこだわるのはやめよう、時間の無駄だ。しかし、この大窓以外に、外への出口なんて──)

「玄関だ!」思わず、一寿は叫んだ。「一階にある玄関──そこからなら、脱出できる!」

 彼は、周囲の状況を把握しようとして、ぐるり、と辺りを見渡した。すでに、水はかなり溜まっていて、水位は、リビングの約半分の高さにまで上がっていた。

 天井がドーム型であるおかげで、流れ込んできた水は、天頂を中心とした、円形の池を形成している。それの縁は、天井と壁の境目から一メートル強離れた所に位置していた。

 天井と壁の境目と、池の縁との間、水に浸かっていない部分は、上から見るとドーナツ状になっている、一寿はそこを、たたた、と、時計回りの方向へ、小走りで移動し始めた。階段を目指す。

 池を突っ切るのが最短距離であることは、重々承知している。しかし、それの底に散乱している小物類の中には、趣味で収集しているナイフや、何かしらのガラス片といった、踏むと怪我を負うに違いない物が、たくさん存在するのだ。泳いで渡る、という方法も考えたが、それだと、体力を多く消費してしまう。けっきょく、遠回りではあるが、陸地を歩いたほうがいい、という結論に至った。文字どおり、急がば回れ、というやつだ。

 身を屈めながら、床に固定されているベッドの下を進んでいく。途中で、右足の爪先に何かがぶつかり、かん、という音を立てた。

 反射的に、右足を引っ込める。意図せずして蹴ってしまった物は、宙を、前方へと飛んでいった。

 それは、使い捨てライターだった。

 一寿は、ライターの飛んでいく先に目を遣った。天井の、水に浸かっていない部分に、約一メートルにわたって、ガラス瓶の破片が散乱している。中身の液体も、周囲にぶちまけられていた。今まで、いろいろと必死だったため、気づかなかったが、落ち着いて鼻をひくつかせると、酒の香りが感じられた。

 それは、放物線を描いて落下し、そのあたりにぶつかった。かち、という音が聞こえた。

「あっ!」

 思わず、甲高い声を上げた。しゅぼ、という音とともに点いたライターの火は、周囲に撒き散らされている酒に移り、ぼおおおお、と広がっていった。

 一寿は、危機的状況の中にいるにもかかわらず、半ば呆然としながら、その様子を眺めていた。はっ、と我に返った頃にはもう、天井の、さきほどのあたりが、一メートルほどにわたって、燃え盛っていた。

「く……!」

(燃えている範囲は広いし、天井にはガラス片も散乱している……怪我を覚悟で突っ切ろうか、と、一瞬思ったけれど──やめておこう。覚悟していた以上の怪我を負う羽目になるに決まっている。

 溜まっている水をかけて、消火しようか? ……いや、そんな悠長なことをしているうちに、リビングが完全に水没してしまうかもしれないな。ここは、別ルートで階段を目指したほうがよさそうだ)

 一寿は、そう結論づけると、くる、と踵を返した。池の周りを、今度は、反時計回りに移動して、階段へ向かう。

 そうしている間にも、どんどん、水位は上がってきていた。すでに、天井の、水に浸かっていない部分の幅は、五十センチ弱になっていた。

 身を屈めて、床に固定されているダイニングテーブルの下を通り抜け、研究室エリアへと入った。壁いっぱいに広がるようにして、棚が設置されている。

 それの上部には、透明なガラス製の扉が、下部には、茶色い木製の扉が付いている。いずれも、ノブを摘まんで引っ張って開けるタイプの物だ。

 当たり前だか、今や、さんざ家の回転に翻弄されたせいで、ぼろぼろになっている。ガラス製の扉のほうは、あちこちに罅や穴が、木製の扉のほうは、あちこちに切り傷や擦り傷があった。

 棚の上部、ガラス製である扉の向こう側には、横板が二つ渡されていて、縦に三段に分かれている。そこには、三つの物が入っていた。

 まず、最上段の左端では、円柱状の小瓶が横倒しになっていた。内部は、薄黄色の液体で満たされており、底には、銀色をした金属塊が沈んでいる。蓋にラベルが貼られており、そこには元素記号が書かれていた。

 次に、中央段の右端では、直方体状の小瓶がひっくり返っていた。中には、濃い紫色の粘液が、半分ほど入れられており、こぽ、こぽ、と、断続的に、気泡を生み出している。側面にラベルが貼られており、そこには髑髏マークが描かれていた。

 最後に、最下段の左端では、円錐状の小瓶が立っていた。どうも、家が回転している間に、蓋が取れてしまったらしい。内部には、薄ピンク色の液体がわずかに入っているだけだ。側面も、液体にうっすら塗れている。側面にラベルが貼られていたが、マジックで書かれている文字が滲んでしまっているせいで、読み取れなかった。

 普段は、もっとたくさんの物が収納されていた。家が回転するせいで、ほとんどが、棚の前の床に落ちてしまったのだ。

 一寿は、それら小物だの破片だのを踏みつけないように気をつけながら、棚の前を通り過ぎた。階段の真下に、到達する。

 唐突に、ぐらり、と部屋全体が揺れた。この家は今、がっしりとした地盤の上に建っているわけではない、水面に浮かんでいるだけだ。強風に煽られでもしたのだろう。

「おっとっと……」

 一寿は、バランスを崩しそうになった。右足を、とっ、と右斜め前に差し出して、踏ん張る。揺れは、一秒の半分も経たないうちに収まった。

「ふう……」

 息を吐いた直後、背後から、がちゃん、という音が聞こえてきた。そちらに視線を遣る。

 少し前まで、棚の最上段にあったはずの小瓶が、落下して天井にぶつかり、粉々に砕けていた。辺りには、中に入っていた液体が撒き散らされている。さきほど、家が揺れた時に、動いてしまったに違いなかった。

 液体の内部に沈んでいた金属塊が、外に出ていた。それは、ゴルフボールほどの大きさで、ところどころが凹んだり出っ張ったりした、歪な球の形をしていた。

 金属塊は、ドーム型である天井の斜面に沿って、ころり、ころり、と、池めがけて転がっていっていた。途中で、こつん、こつん、と、小物類や破片類にぶつかって、左右の進行方向を変えたり、一時的に減速したりしていた。

 一寿は、記憶を探った。あれの入っていた小瓶のラベルには、アルカリ金属の元素記号が書かれていたはずだ。それも、確か、水に浸かると激しく反応し、文字どおり爆発を起こすような物の。

「まずい……!」

 塊自体は、ゴルフボールほどの大きさしかない。しかし、もし、それの金属が、ラベルに書かれていた元素記号どおりであるならば、たとえ、その程度の質量しかなくても、手榴弾に匹敵するほどの、爆発的な反応を起こすはずだ。このまま、三階にいては、巻き込まれてしまう。

 駆け寄って、金属塊を拾い上げようか。いや。間に合いそうにない。おそらくは、近づいている間に、それのほうが、先んじて池に到達してしまうだろう。それよりも、早く二階に上がって、避難するほうがよさそうだ。

「ぐ……!」

 一寿は、真上に顔を向けた。いったん、膝を曲げてから、ばっ、と一気に伸ばして、垂直にジャンプする。

 両手で、がしっ、と、階段の手摺りを握って、ぶら下がった。それを交互に掴んだり離したりしながら、上っていく。

 移動し始めてから数秒後、どおん、という轟音が、鼓膜を劈いた。同時に、家が、ごごごご、と大きく揺れた。金属塊が水に浸かり、爆発的な反応を起こしたに違いなかった。

「ぬおお……!」

 一寿は、振り落とされないよう、必死に手摺りを握り締めた。さいわいにも、揺れは大して時間をかけずに収まった。

 ちら、と、下方に視線を遣る。足のすぐ下では、爆発によって吹っ飛んできたらしい、趣味で収集しているナイフが、壁へ垂直に突き刺さっていた。もし、三階にいたままだったなら、今頃、それの直撃を受けていただろう。

「く……」

 いちいち、身震いしている余裕もなかった。ばっ、と、顔を上に向けると、移動を再開する。数十秒後、二階の天井に、すたっ、と下りた。

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