第3/9話 ジャイアントスイング

 リビングの中心を貫いている柱の側面には、上部に、長方形のボードが掛けられていた。表面には、十数か所に、金属製の小さなフックが取り付けられている。それらの上には、いくつかの、趣味で収集しているナイフ──物騒な、凶悪さを強調した物ではなく、綺麗な、芸術性を追求した物──が載せられ、飾られていた。

 ボードの下には、キャスター付きの小型ワゴンを置いていた。三段ある引き出しには、文房具だの充電ケーブルだの、あらゆる小物を、雑に収納していた。

 聞こえてきていたのは、そのワゴンが、遠心力のせいで、こちらに向かってきている音だった。それなりに重量があるため、今までは、かろうじて動かなかったのだろう。しかし、今や、それを転がしてしまうほどに、家の回転速度は上がっているらしい。

「のわ……!」

 本能的に躱そうとしたが、ただでさえ、遠心力に翻弄されている。避けられるはずもなかった。

 左脇腹に、どかっ、と、ワゴンのラムアタックを、もろに食らう。床についている両手が、ずる、と滑った。全身が、右方へと傾いていく。成す術もなく、そのまま、右半身をフローリングに、どしん、とぶつけた。

 それだけでは収まらなかった。体は、倒れた時の勢いによって、ごろんごろん、と、右方へ転がり出した。

「……!」

 もはや、声を出すことすらできなかった。その後、体がリビングの壁に、ごちん、とぶつかって停止した時に、やっと「ぐえっ」という呻き声が出せた。

「痛ててて……」

 そう呟きながら、左脇腹を摩った。両膝を床につき、再び、四つん這いになる。右半身を壁に凭れさせることで、ワゴンのラムアタックを食らう前と比べて、わりと楽に、姿勢を維持することができた。

 一寿の背中から数十センチ上に離れた所の天井には、大窓が取りつけられていた。長方形で、壁との境目が下辺となっている。奥のサッシが、右へスライドさせられた状態で開いていた。網戸を閉めてあったはずだが、遠心力に耐え切れなかったのか、今は、無くなっていた。カーテンが、外へはみ出している。ワゴンはというと、ぶつかった拍子に進路が変わったらしく、彼の足より少し後ろあたりの壁に衝突し、停止していた。

(このまま、右半身を凭れさせながら、階段へ向かおう)そう心の中で呟くと、四つん這いの状態で、進もうとした。

 次の瞬間、ぱきっ、という音が、左から聞こえてきた。そちらに視線を遣る。

 こちらめがけて、ナイフが飛んできていた。

「わっ?!」

 反射的に、顔を後ろに逸らした。しかし、間に合わなかった。ナイフは、一寿の顔面、眉間あたりを直撃した。

 ごっ、という鈍い音がした。それは、ぶつかった時、柄の部分を彼のほうに向けていたのだ。

「ぬぐ……!」

 目を閉じ、呻き声を漏らす。ナイフが床に落ちたらしく、からんからん、という音が聞こえた。瞼を開け、それに視線を遣る。

 よく見ると、ナイフは、リビングの中心を貫いている柱の、側面に掛けられているボードに飾られていた物だった。ばっ、と、ボードに顔を向ける。

 それの表面に展示されているナイフのうち、飛んできた物が位置していた場所は、ぽっかり、と空白になっていた。床に視線を遣ると、いくつか、フックが落ちていることに気づいた。ナイフが遠心力により外側へと強く引っ張られるのを、抑えきれず、壊れてしまったに違いなかった。

 悠長に考えを巡らせている場合ではなかった。また、ぺきっ、という音が鳴った。はっ、と、我に返ったのと、一寿めがけて突っ込んでくるナイフを、視界の中央に認識したのとは、ほぼ同時だった。こちらに向いているのは、刃のほうだ。

「ぬおっ!」

 一寿は瞬時に、ナイフの軌道を予測した。この調子でいけば、彼の体、左脇腹あたりに、突き刺さるはずだ。

「クソが……!」

 一寿は、両手で、フローリングを、どん、と突いた。その勢いを利用して、上半身の角度を、床に対して垂直にする。ちょうど、背筋を伸ばしてしゃがんでいるような姿勢だ。

 彼は、間髪入れずに、曲げている両脚を、ぐん、と伸ばした。そのまま、足の裏で、どっ、と床を蹴りつける。その場で、高くジャンプした。

 ナイフは、一寿の足の下を通り過ぎ、壁に突き刺さった。びいいん、とわずかに震えた。

「やった──ぬわっ?!」

 一寿は一瞬、喜んだ。しかし、まだ尚早だった。宙に浮いた体の右方には、壁はなく、開け放たれた大窓が位置していたのだ。

 体が、遠心力に引っ張られて、宙を、右方へと移動し始めた。さらには、そのまま、窓枠をくぐり抜け、家の外へ飛び出していこうとした。

「うお──!」

 一寿は、ばっ、と、文字どおり藁にも縋る思いで、両手を伸ばした。

 左右の掌は、窓枠に触れた。渾身の力を込め、がしり、と掴む。

 なんとか、家の外へ吹っ飛ばされることは回避できた。全身が宙に浮いており、地面と平行になっている。さながら、ジャイアントスイングをされている気分だ。

「ぐぐぐぐぐ……!」

 吹っ飛ばされてなるものか。そう思い、一寿は必死に、窓枠を掴み続けた。

 家の回転速度は、下がる気配がなかった。というよりはむしろ、どうやら、どんどん上がっていっているようだった。

 全身にかかる遠心力が、強くなっていっていることが、はっきりと感じられる。いくら、大学の水泳部の活動で、体を鍛えているとはいえ、このままでは、そう遠くないうちに、腕力の限界が訪れるだろう。

 さらには、リビングの中心を貫いている柱に掛かっているボードに飾られているナイフが、遠心力のせいでフックが壊れるのに伴い、次々と、こちらに向かって飛んできていた。それらは、一寿の頬を、ひゅっ、と掠めたり、一寿の髪を、すぱっ、と切ったり、一寿の耳を、ざくっ、と裂いたりした。

「ぬおお……!」

 さきほどから、気づかないよう、意識しないように、己を誤魔化してはいたものの、それでもなお、うすうすと感じられてきていた、腕力の限界が、はっきりと自覚できるようになってきた。

(クソ、ここまでか──!)一寿は、ぎり、と歯を食い縛った。

 次の瞬間、ぼきいん、という、何かが折れたかのような、大きな金属音が、辺りに轟いた。

「?!」驚いたが、目を瞠ったり口を半開きにしたりするほどの余裕はない。

 その後、家の回転速度が、はっきりと認識できるほど、下がっていき始めた。そして、例の音が鳴ってから十秒と経たないうちに、完全に停止した。一寿は、曲面である屋根の上に、俯せに寝そべりながら、窓枠の下辺を両手で掴んでぶら下がるような格好となった。

(何が起きたのか、ということはわからないが──今がチャンスだ、ということはわかる!)

 一寿は両腕に、よりいっそうの力を込めた。懸垂の要領で、肩から下を引き上げる。窓枠を抱きかかえるようにして、上半身を室内に入れた。

 まだ、落下のリスクが完全になくなったわけではない。しかし、さきほどまでの、手のみで全身を支えている状態と比べると、だいぶ楽になった。

 ふうううう、と長い息を吐く。思わず、心の中で呟いた。(……いったい、さっきの音は……何が、起きたんだ?)

 何が起きたか、を知るよりも前に、新たな現象が起きた。家が、一寿のぶら下がっている方向に対して、ぐぐぐぐぐ、と、傾き始めたのだ。

「わ、わ、わ……?!」

 一寿は、両腕に渾身の力を込めると、落ちないよう、必死に窓枠をかき抱いた。家はその後も、どんどん傾いていった。

 一瞬、ふわっ、というような、自由落下のごとき感覚を味わった。しかし、文字どおり、瞬きを一回するだけの間だった。すぐさま、どしいん、という音が鳴り響き、家全体が大きく振動したとともに、それはやんだ。

「んわ?!」

 振動により、体が、ずる、と滑りそうになった。慌てて、両腕にさらなる力を込め、落下を防ぐ。家は再び、さきほどまでと同じほうへ傾き始めた。

 大窓は、曲面である屋根に取りつけられているため、最初は、地面に対してやや右斜めになっていた。それの勾配は、家が傾いていくにつれ、どんどん上がっていった。やがては、地面に対して垂直となり、それから大して時間をかけずに、地面に対して左斜めとなった。

「や、やばい……!」声を出すのには苦しい姿勢であるにもかかわらず、一寿は唸るようにして言った。「このままじゃ、下敷きになっちまう……!」

 彼は、腰から下を引き上げ、全身をリビングに入れるべく、両腕に、いっそうの力を込めようとした。しかし、これまでさんざ酷使していた手へ入れることができる力は、ぶら下がり続ける分だけで精いっぱいで、もう、さらに加えることなど、できやしなかった。

「ううう……!」

 歯を、ぐぐぐ、と食い縛り、唸る。しかし、いくら頑張ろうが、下半身は決して上がらなかった。

 それから間もなくして、恐れていたことが起こった。一寿の両足の裏が、地面に、とっ、と着いたのだ。

(クソ、本当に潰されてしまう──!)

 一寿は、そんな恐怖に駆られた。心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

 しかし、そこまでだった。家が傾いていく速度は、それから一気に低くなっていくと、あっという間に、ぴたっ、と停止したのだ。彼は、大窓の位置が下がっていくのに合わせて、膝を多少、曲げていくだけで済んだ。

「……ふうー……」

 一寿は安堵の溜め息を吐いた。ある程度、腕力が回復するのを待ってから、両足で地面を蹴りつける。

 跳び込むようにして、リビングに戻った。着地した地点で仰向けになると、室内を見回した。

 当たり前だが、非日常的な光景だった。家は、元の状態から、ちょうど九十度傾いたようで、居間は、地面に対して垂直になっていた。壁が床および天井の位置に、床および天井が壁の位置に来ている。

 リビングにあるベッドやダイニングテーブル、ボード、研究室にある収納棚や実験台は、家がスピンしていても、勝手に動いたりしないよう、元から床や壁に固定されている。そのおかげで、それらは今も、本来の場所に存在していた。

 しかし、ベッドの上にあった枕やマットレス、ダイニングテーブルの上にあった酒瓶や灰皿、ボードの表面に飾られていたナイフ、ワゴンやそれの抽斗などといった物は、当然ながら固定されておらず、一寿が寝転んでいる壁の、あちこちに散乱していた。いくつか、大窓をくぐり抜け、外の地面に落ちている物もある。研究室にある、収納棚の扉や実験台の抽斗は、ある程度頑丈に作られているようで、独りでに動いたり開いたりはしておらず、中に収納されている物も、外に零れてはいなかった。

 彼は、上半身を起こすと、その場に胡坐をかいた。「ったく、何が起きたんだよ……」と呟く。

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