第2/9話 スピードアップ
一寿は、思わずそんな声を上げた。とあるニュースサイトに掲載されている記事のうち一つが、目に留まったからだった。ディスプレイをスワイプして、見出しや概要を見つけると、ざっと読んでから、タップする。本格的に、ページを閲覧し始めた。
記事自体は、三ヵ月ほど前に作成された物だった。業界人でもない彼ですら名前を知っているような、世界的に有名であるITベンダー「ドセー」が、自らが開発・販売しているソフトウェア「プルート・ローテーター」について、重大な欠陥が存在していることを見つけた、という内容だった。技術的な説明は、あまりよくわからなかったが、なんでも、その影響により、プルート・ローテーターを利用しているシステムが、予期せぬ動作をすることがあるらしい。
ただし、さいわいというべきか、ニュースが報じられた時点において、すぐさま異常事態が起こる、というわけではないようだ。バグが生じることにより、とある変数の値が、どんどん加算されていく。そしてそれが、ある一定の値を超えたところで初めて、プログラム全体に悪い作用を齎すようになる。その日時は、今のところ、八月一日の午前零時、と予測されている。よって、現在、問題があるバージョンのプルート・ローテーターを用いているアプリケーションについては、すみやかに、バグを修正するパッチを適用してほしい。そのように、ドセーは説明していた。
一寿自身は、根っからの文系人間だ。スマートホンやパソコンの類いは、人並みにしか扱えない。とうぜん、この記事に書かれている、欠陥についての詳細な解説に、目を通したところで、さっぱり理解できなかった。
それでも、このニュースに興味を惹かれたのは、見出しに、「プルート・ローテーター」という単語が含まれていたからだ。
(こんな名前、どこかで見かけたような気がするな……ええと、どこだったか……あっ)一寿は、右手の拳で左手の掌を、ぽん、と軽く叩いた。(思い出した。叔父さんが遺してくれた、この家に搭載されているコンピューターシステムの仕様書に、そんな名前のソフトウェアが、書かれてあったっけな)
一寿が今いる家は、見た目こそ、真ん丸で奇怪だが、住み心地は、とてもいい。照明やトイレなど、あちこちの設備に、センサーだのチップだのが組み込まれており、それらによって、暮らしのさまざまな場面を快適に過ごせるよう、自動でいろいろと調整してくれる仕組みになっている。
しかし、構築者である預磨が亡くなった今となっては、誰にも、いや、少なくとも阿家には、メンテナンスができない状態になっていた。全員が文系人間で、コンピューターの知識なんて、からっきしだ。IT企業に依頼すれば、その類いのことを行ってくれるのかもしれないが、そこまでしようとも思わない。
もし、預磨が、生前に、素人にも理解できるくらい噛み砕いた表現で、システムについて説明するようなアイテムを作成しておいてくれていれば、とても助かった。しかし、その類いの物は、ほとんど遺されていなかった。
「ほとんど」と表現のは、一冊だけ、一寿でも理解できるような内容の文書が存在するためだ。システムの概要について、簡潔に纏められた、わずか数ページの仕様書だ。しかし、一寿でも理解できるような内容であるがゆえに、大したことは書かれていない。
(そうか……じゃあ、このソフトウェアの欠陥、おれの家に関係するかもしれないのか……)
一寿は、スマートホンのカレンダーアプリを起動した。それによると、現在日時は、八月一日、午前零時三十一分、とのことだった。ドセーの予測した、「プルート・ローテーターの欠陥が、それを利用しているシステムに対し、悪影響を及ぼし始める時刻」を、すでに過ぎている。
(うーん……どうしたものか……)
一寿は、腕を組み、軽く唸りながら、考え込み始めた。プルート・ローテータ―の欠陥について、対処したほうがいいのか。すなわち、システムのメンテナンスを行うよう、どこかのIT企業に依頼するべきなのだろうか。できれば、放置したいのだが。それが、一番楽だし。
「ううーん……」
一寿は、その後もしばらくの間、考えを巡らせ続けた。やがて、「よし、決めたぞ」と呟いて、顔を上げた。
(とりあえず、今のところは、放っておくことにしよう。まさか、ある日突然、家のシステムが、動作を完全に停止してしまう、ってわけじゃないだろう……何か、予兆があるはずだ。それを認識してから対処しても、遅くはないんじゃないか。
それに、もし、極度の異常事態が発生して、今後、生活することができなくなってしまったとしても、まあ……大して問題はない。実家に帰ればいいだけだ。それから、どこかのIT企業に依頼して、システムを直してもらうか、あるいは、もう、この家に住むのは諦めて、実家で暮らし続けるか、検討すればいい。気楽に行こう)
そして、これが最も大きな要因なのだが、面倒臭い──この感情については、浮かんでからすぐに、頭の片隅へと追いやった。
「ふああ……」
唐突に、欠伸が出た。右目からは、わずかながら涙も零れた。口を閉じた後、こしこし、と、軽く擦る。
(スマホ、やりすぎちゃったかな……なんだか、目が重たいような感じがするぞ……)眉間を摘まんで、強めに揉んだ。(改めて意識してみれば、眠気もひどいな……ビューティフル・エッグプラントのスタミナが、次のステージに挑戦できるくらいに回復するまで、あと──)端末に視線を遣り、現在時刻を確認する。(十分弱、ってところか……けっこう、時間かかるな……)
別に、睡魔に抗ってまでプレイするほど、そのゲームに嵌まっているわけでもない。続きは、明日でいいだろう。今は、遊びたい、という欲求よりも、寝たい、という欲求のほうが強い。
「よし……」
一寿は、枕の横にスマートホンを、上に頭を置いた。即座に、瞼を閉じる。照明を消したほうが寝やすいんじゃないか、とか、目覚ましをかける必要はないのか、とか、明日は特に何の予定もないから大丈夫なはずだ、とか、さまざまな思いが頭の中で湧き起こった。しかし、それらが具体的に検討されるよりも前に、眠りに落ちた。
「……」
意識が覚醒した。ドーム状になっている天井の天頂に取り付けられている照明からの光が眼球を直撃したため、思わず目を細める。
眠気が収まったわけではない。トイレに行きたくなってしまったのだ。
(仕方……ねえなあ……)
心の中でぼやきながら、一寿は起きようとした。体を、ゆっくりと右へ回転させた後、四つん這いになる。ベッドの端に座り直してから、床に下りた。
「ふうー……」
一寿は、なんとはなしに息を吐くと、トイレのある二階に続いている階段に向かい、リビングを歩き出した。
「……ん?」
すぐさま、違和感を覚えた。体が左右にふらついて、上手くまっすぐに進めないのだ。
「まさか……」
一瞬、風邪でも引いたのか、と思い、ぎょっとした。しかし、落ち着いて自分の体調を確認したところ、高熱や吐き気などといった、不良のサインは、特に感じられなかった。
「……?」
一寿は、その後、相変わらず左右にふらつきながらも、なんとか、階段に到達した。手すりに掴まりながら、二階へ下りていく頃には、もう、この現象の正体に見当がついていた。
(家の回転が、速くなっているのか……)
この家は、基礎から伸びて球の中心を貫いている支柱を軸として、反時計回りにスピンしている。そのスピードは非常にゆっくりで、ちょうど二十四時間で三百六十度に達するくらいだ。
預磨が遺した仕様書に、ほとんど殴り書きのような形で記されていたが、一階の機械室にある端末を操作すれば、速度を調節することもできるらしい。ただし、完全に停止させることはできない、とのことだった。何を思ってこのようなギミックを仕込んだのか、までは、残念ながら述べられていなかった。
(まあ、回転するスピードがかなり低いおかげで、日常生活には大して支障を来さないんだけどさあ……やっぱり、普通の、動かないような家にしてほしかったよなあ。マスコミの取材依頼はしつこいし、近所じゃ珍名所みたいに扱われていて、やってきた観光客に、外観を無断で撮影されまくるし。
そうだよ、なんであいつら、いくら好奇心があるとはいえ、わざわざ、こんな辺鄙な所にまで来るんだよ……ここは、儒浸(じゅしん)山の中でも、わりと奥まった場所にあるんだぞ? 立地は、お世辞にも、いいとはいえない……見に来るだけで、一苦労だろう。近くを通っている線路を走る電車から眺めるくらいで、満足しときゃいいのに……)
一寿は、本筋を脱線し始めた愚痴を心の中で零しながら、階段を下りきった。廊下を歩いて、トイレに入る。ペーパーホルダーの上に置いてある、小型のデジタル時計で現在時刻を確認したところ、午前四時四十四分、とのことだった。
用を済ませると、手を洗い、便所を後にする。その後は、手すりに掴まることなく階段を上がっていけるほど、現在の回転速度に慣れていた。
(やっぱ、寝る前にスマホで見かけた記事に書かれてた、プルート・ローテーターっていうソフトウェアの欠陥、とやらが原因なのかな……まったく、『異常事態が発生してから対処しよう』と結論づけたそばから、こんなことが起きるとは……)
三階のフローリングを踏んだところで、一寿は、ふああああ、と大きな欠伸をした。「やっぱ、まだ眠たいなあ……」とぼやく。「睡魔が収まっていたら、もう起きてしまおうか、とも思ったが……もう一回、寝ることにしよう……」
それ以来、彼は、一言も発さなかった。ベッドに直行すると、ぼふん、と俯せに倒れ込んで、顔を枕の上に載せる。
そのまま、両方の瞼を閉じた。眠りに落ちる直前、あ、今、トイレに行った時に、部屋の照明を消しておけばよかったな、と、ぼんやり思った。
がっしゃあん、という音に鼓膜を劈かれて、目が覚めた。
「?!」
瞼を全開にする。両手を、枕の左右につくと、ばっ、と頭を上げた。顔を、さっ、と、音の聞こえてきたほう──右に向ける。
ダイニングテーブルに置いていたはずの、酒を飲む時に使っていたグラスが、今や、床に落ち、粉々に砕けていた。
「な……?!」
一寿は口を半開きにした。ばっ、と、両脚を動かして、四つん這いになる。
即座に、体のバランスを崩した。全身が、左へと、謎の強い力で引っ張られたのだ。
「うわ……?!」
何しろ、まだ、目覚めた直後だ。ろくに抗うこともできない。されるがまま、体を倒れさせる。左半身を、ぼふん、と、シーツにぶつけた。
「な……何だ……?」
一寿は俯せになると、再度、四つん這いの姿勢をとろうとした。しかし、両手を枕の横につき、腹部より上を軽く持ち上げただけで、例の、謎の力が、全身にかかっていることが感じられた。
とりあえず彼は、全身をやや右方に傾けることで、その力に抗いながら、手足を動かしていった。しばらくして、なんとか、胴体を浮かせることに成功した。
「クソ……!」思わず、呟いた。「家の回転速度が、上がっていやがるのか……!」
一寿は、枕元に置いてあったスマートホンを手に取った。それによると、現在時刻は、午前七時四十分、とのことだった。
午前四時にトイレへ行った時は、歩こうとしたら、わずかながらふらついた。しかし、前進すること自体はちゃんとできていたし、慣れてしまえば大した問題ではなかった。
だが、今や、四つん這いの姿勢をとっている間、しっかりと手足に力を入れなければ、すぐさま、遠心力のせいで体のバランスを崩し、寝転がってしまいそうになるほど、速度が上がっている。
「ぐう……」呻き声を上げた。「とにかく、早いとこ、一階の機械室へ行って、家の回転速度を下げないと……!」
一寿は、スマートホンをズボンのポケットにしまうと、四つん這いで移動した。ベッドの端に到達すると、床に下りる。そこでも、同じ姿勢をとったまま、階段があるほうに、体を向けた。
リビングは、上から見ると円形をしている。方角を用いて表現すると、北にダイニングテーブルが、西にベッドが位置していた。二つとも、壁および天井にくっつけるようにして置かれている。それぞれの、壁および天井に接している辺は、カーブに沿っているため、曲がっているが、それ以外の辺は、直線である。
南東の壁際には、南から東にかけて、長方形をカーブに合わせて曲げたような穴がある。そこには、下り階段が通っていた。穴の周囲には、入り口である南辺を覗いて、転落防止のための、低い壁が設けられている。
居間の中心を貫いている、回転軸にもなっている柱には、南を向いている面にくっつけるようにして、趣味で収集している物を飾っているボードが掛けられていたり、小物を収納しているワゴンが置かれていたりする。それらの正面の天井には、大窓が取りつけられていた。
円形をしている三階の、五分の四は、リビングである。しかし、残り五分の一、扇形をしている空間は、預磨の研究室となっていた。部屋の北東に、ダイニングテーブルと階段に挟まれるようにして、位置している。
といっても、本格的な研究室は、他にあった。ここにあるのは、簡易な物だ。壁には、よくわからない金属塊だの実験器具だのが入ったままになっている棚が置かれており、その手前には、シンク付きの台があった。床は、ここだけ、フローリングではなく、リノリウムで出来ている。
「よし……このまま……!」
一寿は、四つん這いのまま、階段に向かって移動し始めた。遠心力があまりに強いせいで、ろくに立つこともできないのだ。
数秒後、ふと、左のほうから、ごろごろごろ、という音が聞こえてきていることに気づいた。そちらに、視線を遣る。
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