回転住宅
吟野慶隆
第1/9話 逃走
後ろを振り返ると、直径十三メートル強の巨大な球体が、自分に向かって、ずんごろがらごろ、と転がってきているところだったので、百合井(ゆりい)秋真(あきま)は、仰天した。
彼は、由良那須(ゆらなす)商事という企業に勤めるサラリーマンだ。黒いスーツを着ており、ビジネスバッグを、襷掛けの要領で、肩から提げていた。
事の次第は、こうだ。秋真は、午前九時の始業時刻に間に合うよう、八時に自宅を出て、徒歩で最寄駅へ向かっていた。ところが、家を発ってから数分後、背後から、何やら鈍い音が聞こえてきた。最初は、自動車か何かの騒音だろう、と考えていたのだが、それのボリュームは、どんどん大きくなっていき、ついには地響きまで感じられるようになった。その頃になってようやく、いったい何なんだ、と思い、後ろを振り返ってみたところ、冒頭の光景を目にした、というわけだ。
「うおっ?!」
叫び声を上げ、唖然とした。しかしそれは、〇・一秒にも満たなかった。すぐさま我を取り戻すと、前に向き直り、だだだっ、と、球体から逃げるべく、駆け出した。
秋真が今いる所は、緩やかな下り坂となっていた。片側二車線である車道の両側に、歩道が設けられている。彼は、それのうち、左側を通る道を走っていた。
ばばっ、と、左右を見回す。横へ移動することで、球体の進路上から逃れられないか、と考えたのだ。
しかし、それは無理そうだった。まず、左方だが、歩道に沿って、高さ三メートル弱の段差がある。ざらざらとしたコンクリートで出来ており、側面はほぼ垂直だ。これでは、登ろうとしたところで、その最中で轢かれてしまうのがオチだろう。
次に、右方だが、球体の進路上から完全に脱出するとなると、反対側、右側を通る歩道にまで行かなければならないだろう。移動距離が大きいため、車道を直角に横切ろうとすると、目的地に辿り着く前に追いつかれてしまう。
となると、球体から逃れつつ車道を渡る、つまり、右斜め前方へと動くことになる。しかし、球体のスピードから考えるに、駆ける方向は、右斜めと言っても、歩道とほとんど平行にする必要があるに違いない。それならば、いっそのこと、歩道をまっすぐ進むほうがマシだ。
「クソがっ!」秋真は、そう叫んで、だだだ、と、まっすぐに走り続けた。
十数秒後、厄介な場所に出くわした。十数メートル前方の地点から先の歩道が、何らかの工事の現場となっているのだ。
(突っ切るしかねえか……!)秋真は、ぐっ、と、軽く歯を食い縛った。
数秒後、歩道の通常部分と工事現場部分とを仕切っている、A型バリケードに出くわした。だっ、と、右足で地面を強く蹴りつけ、左足を高く上げる。ハードル走の要領で、跳び越えた。
そこからさらに数メートル先には、ポリ塩化ビニル製のパイプが、いくつか置かれていた。向きは歩道と平行で、直径は約一メートル、長さは約三メートル。下段に四本、上段に三本の、合計七本、積んである。
秋真は、だっ、と、両足で地面を強く蹴りつけ、ジャンプした。上段中央に位置するパイプの内部に、飛び込む。
間髪入れずに、どどどど、と、四つん這いで進み始めた。あっという間に、出口に至る。外へ、ばっ、と飛び出した。
地面に両手をついて、ぐるん、と前転する。両足の裏で砂地を踏みつけると、ぐん、と膝を伸ばし、立ち上がった。再び、だだだ、と走り始める。
後ろからは、A型バリケードを破壊し、ポリ塩化ビニルパイプを潰した球体が、相変わらず転がってきていた。秋真の呼吸は、「ふう、ふう」から「はあ、はあ」へと変化し、今や「ぜえ、ぜえ」となっていた。明らかに、体力の限界が近づいてきていた。
その時、唐突に、歩道の左手にある段差が途切れた。代わりに、その地点からは、高さ約一メートルの、金属製の柵が伸びていた。
躊躇している暇などなかった。秋真はそれに、だだだ、と駆け寄った。ばっ、と、着地する時のことも考えずに、上半身を投げ出すようにして、柵を跳び越える。
直後、彼の体の後ろを、球体が通過していった。
ほっ、とはできなかった。柵の向こう側は、垂直な崖になっていたのだ。地面は、歩道より十メートルほど低い所にあった。
「……!」
秋真は、自由落下に身を任せるしかなかった。数秒後、ばっしゃあん、という音を立てて、彼は、地面の一部に広がっている池の中に突っ込んだ。
慌てて、手足をばたつかせ、体を浮上させる。首より上を、水面から、ざぱっ、と突き出すと、「はあ、はあ、はあ……」と、呼吸を意識的に繰り返した。
ある程度、息が落ち着いたところで、陸に上がった。辺りは、いわゆる擂鉢状になっていた。斜面は急だが、四つん這いになれば、なんとか、登って、さきほどの車道に戻ることができそうだった。
半ば放心した状態で、崖の上に見えている柵に、視線を向ける。「なんだったんだ、あれは……」ぼそり、と呟いた。
「……って、こんなことをしている場合じゃない!」
秋真は大声を上げた。自分は、通勤している途中だったのだ。
左手首に嵌めている腕時計に、視線を遣る。午前八時十九分を差していた。
今日は、九時の始業直後に、大事な会議がある。絶対に遅れるわけにはいかない。
しかし、まさか、こんなびしょ濡れの状態で出社することはできない。いったん帰宅して、別のスーツに着替える必要がある。そして、更衣した後、再び徒歩で通勤していたのでは、確実に間に合わない。
(タクシーを呼ぼうか? ……いや……今までに何度か、利用したことがあるが、毎回、電話で依頼してから、実際に家の前に来るまで、けっこうな時間がかかっていた……タクシーは、駄目だ)
まだ、万策尽きたわけではない。マイカー通勤、という手段が残っている。かなり急ぐ必要はあるが、所有している車──「カドケウス」という名前のセダン──を使えば、始業時刻までに、舟中(ふななか)湖の畔にある事業所に到着することができるはずだ。
(そうと決まれば、一刻も早く、家に帰らないと……!)
秋真は、そう心の中で呟くと、擂鉢状になっている辺りの斜面に近づいて、よじ登り始めた。
高速で横スクロールする画面の中央で、左から転がってくる巨大スイカに追いかけられながら、ひたすら右に向かって駆けていた「なすびガール」は、スタートから一分弱で、ようやくゴールに到達した。
「よし……!」
阿(おもね)一寿(かずとし)は、右手で小さくガッツポーズをした。十数分前から何度か、このステージに挑んでいたのだが、地面に生えているキャベツを跳び越えられず、ぶつかったり、上から落ちてくるリンゴをガードし損ね、潰されたりして、ゴールまで辿り着けていなかったのだ。
「はあー……やっと、クリアできた……」
一寿は、首を左右に傾けると、こきこき、と関節を鳴らした。彼は、リビングの壁に沿うようにして設けられているベッドの上に、大の字になって寝転んでいた。頭は、南に向けており、体の左方に、壁がある。
ベージュの半袖Tシャツを着て、グレーの長ズボンを穿いている。ウエストのゴム紐は、びよびよに伸びきっており、それの先端が、右足の裾から、わずかにはみ出ていた。
一寿は、スマートホンを弄っていた。数年前に購入した、防水性の高さが売りのデバイスだ。
彼の右足の右斜め前方には、少し離れた所に、一平方メートルにも満たない、小型のダイニングテーブルが、壁に沿うようにして置かれていた。その上には、さまざまな物が載せられていた。液体が三分の一ほど残っている、ワインボトル。液体が四分の三ほど残っている、日本酒の瓶。細長い六角柱のような形をした、透明なグラス。蓋が開けられ、数本が、わずかながら外へ飛び出している、煙草の箱。吸い殻が山のように盛られている、金属製の灰皿。見るからに安物とわかるような、使い捨てライター。
「ええとー……」一寿は、スマートホンのディスプレイの上辺中央付近に表示されている、現在時刻を確認した。「げっ!」という声が出た。「もう、日付が変わっているのかよ……熱中し過ぎたな……」
彼は、県内にある大学の三回生だ。水泳部に所属しており、大活躍とまではいかないものの、それなりの成績を残している。
現在は、夏休み期間であるため、勉強などほったらかして、アルバイトだのレジャーだのに、精を出している。今も、趣味の一つである、スマートホンゲーム「ビューティフル・エッグプラント」をプレイしていたところだった。
(さて、そろそろ次のステージに……あれ?)彼は、一瞬だけ眉を顰めた。すぐに緩めると、(ああ)と、心の中で言う。(もう、スタミナがないから、挑戦できないのか……うーん……最近、懐が厳しいから、すぐに回復させるために課金するのは、控えたいなあ。仕方ない、しばらくネットサーフィンでもして、時間経過で自然に回復するのを待つか)
一寿は、ホームボタンを押すと、ゲームアプリを閉じた。かわりに、ブラウザーアプリを起動する。電子掲示板のスレッドをまとめたブログや、投稿されている小説が無料で読めるサイトなどを、手当たり次第に眺め始めた。
ベッドの上に寝転がったまま、ひたすら、スマートホンを弄る。窓は開けられており、網戸を通して涼しい風が吹き込んできていた。部屋にはエアコンが設置されているのだが、故障しており、動かない。親からは、修理費用は自分で用意するように、と言われているため、直さずに放置している。
(それにしても、速いよなあ、この家のネット回線……)思わず、感動するように、心の中で呟いた。(本当、助かるよ。この家を建ててくれた預磨(よま)叔父さんに、感謝しないとな)
阿預磨は、一寿の父親の弟だ。いわゆる発明家として、特許を取得したり、研究プロジェクトに携わったりして、活動していた。
過去形なのは、すでにこの世にいないためだ。三年前、この家の二階で、死亡しているのが発見された。警察の捜査の結果、「酔っぱらっていたせいで、三階のリビングから、二階にあるトイレへ行く途中に、階段を踏み外し、転落した」ということが死因である、と結論づけられた。
そして、ちょうど、大学に通うにあたり、独り暮らしをしたかった一寿が、父親に頼み込んで、叔父の家に住まわせてもらっている、というわけだ。
(後は、この家の見た目が、ごくごく普通の物だったならなあ……)
一寿は思わず、はあ、と溜め息を吐いた。むくり、と、上半身を起こすと、ゆるり、と、なんとはなしに、辺りを見渡す。
部屋は、上から見ると、円形をしていた。中心には、太い柱が立っている。壁は垂直だが、高さが一メートルしかない。天井は半球状で、緩やかな丸みを帯びており、さながらドームのようになっていた。
空間の形状が尋常でないのは、三階だけではない。一・二階は、天井も床も水平だが、壁が奇妙だ。
まず、二階の壁は、外側に向かって、丸く膨らんでいる。それの天頂部分は、フロアの半分くらいの高さに位置している。まるで、横倒しにした巨大なパイプを、三分の一ほど切り取ったかのようだ。
次に、一階の壁は、天井の端から、垂直に一メートル下りた後、内側へと緩やかにカーブしており、ドームを逆さにしたような印象を受ける。しかし、三階の天井とは違って、一階の壁は、曲がってからしばらくすると、水平面、つまり床へと接続している。床を半球状にしてしまうと、いちじるしく生活しづらいためだろう。
そう。この家は、球形をしているのだ。
それも、「球に近い形」なんていうレベルではない。外から見ると、本当に真ん丸である。まるで、何かしらのスポーツに使用されるボールのようだ。
正確には、地面に、角錐台の形をした基礎が設置されている。それの中央から、極太の柱が、数十センチ伸びており、それの上に、球がくっついているような見た目だ。表面は、グレーに塗装されている。
(まったく、叔父さんはなんで、こんな家を建てたんだか……)一寿は再び、はあ、と溜め息を吐いた。(ま、なにしろ、発明家として活躍した人だからなあ……頭の中が、普通の人には理解できないような感じになっているのかもしれない)
彼はその後も、預磨について、思いを巡らせた。しかし、それもわずか数秒のことだった。すぐに飽き、再度、ぼふ、と、その場で仰向けに寝転がると、ネットサーフィンを再開する。
「……ん?」
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