第36話
羽良野先生だと味方だし、今では心強い理解者だと思う。
でも、硬質な声の人たちだとしたら、大変だ。
「ほれほれ、ほれほれ」
「ほれほれ、ほれほれ」
小型のエレベーターが地下に到着した。
「やばい!」
ぼくは悲鳴を上げて、カルテ室へと走り出した。
体の感覚が何か変だ。走りづらい。
カルテ室まで埃だらけの通路を走ると、看護婦さんがカルテを携えて出て来た。
「どうしたの? ……なんなの? あの変な人達? まるで……」
「逃げよう!」
「今は使ってない小型のエレベーターがT字路の左にあるわ……」
ぼくは真っ白で不思議そうな顔の看護婦さんの手を掴むと、一目散にT字路の左へと向かった。硬質な声が徐々に迫って来た。
大人たちの素足で走る音が聞こえる。
「あっちよ!」
体がなかなかいうことを聞かなくなったぼくに優しい看護婦さんが叫ぶ。真っ暗になった通路には検査室や薬品室などがあり、突当りに小型のエレベーターの入り口があった。埃を被っていて、何年も使っていないのだろうと思える。いっぱい走ってぼくは強い吐き気を催した。
看護婦さんが先頭に立ち急いでボタンを押した。
その時、何かが飛んできた。
扉が開くと、エレベーター内の弱い赤いランプが灯った。
看護婦さんがぼくを引っ張って、すぐに中へ押し込んだ。ぼくはたまらなくなってエレベーターの床に吐き出した。今度は透明な液体だけだった。
「ぼく! 大丈夫! 上へあがるわね!」
狭いエレベーター内で看護婦さんがぼくの手を握りながら、一階へのボタンを押した。
ぼくは虚ろな目で辺りを見回していた。
何か体が……。
まるで、死んでしまったかのようだ。
ぼくの瞳は濁り出し、扉が閉まったのも相まって、硬質な声の相手を確認できなかった。
大勢の大人たちのぼやけた輪郭が脳裏に映った。
ゆっくりとエレベーターが上昇する。
点滅する赤いランプで看護婦さんのマスクが血塗れなので、ぼくはギョッとした。
「大丈夫?」
「うん……。でも、ちょっと具合が悪いの……」
優しい看護婦さんは力なくストンと地面に座った。
蒸し暑いエレベーター内に毒々しいキノコの臭いが充満し、看護婦さんは少しも動かなくなった。でも、目だけはキョロキョロとしていたので、ぼくは看護婦さんの耳元に囁いた。
「大丈夫さ。二階へ行ったら、すぐに助けてあげるからね。嘘を吐いてごめんね……。今度はぼくが助ける番だ」
動けなくなった看護婦さんからカルテを取り、読んでみてもサッパリ解らなかった。仮死状態以外は難しい漢字が多い。今になって看護婦さんに嘘を吐いたことに後悔している。
ぼくは羽良野先生を探すことにした。
エレベーターの二階のボタンを迷わず押した。ガクンと振動した後に一階で扉は開かずにエレベーターが上昇する。優しい看護婦さんはピクリとも動かなかったが、よく見ると目から溢れる涙が血塗れのマスクを濡らしていた。
苦しいのかな?
ぼくは早めに羽良野先生を探すことにした。
扉が開くと動きにくい体を引きずるようにして、廊下を進む。
真っ暗で蒸し暑い廊下は点滅しだした明かりだった。濁り出した目では見えにくいけど、廊下で複数の患者やクワが床に散らばっていた。
ぼくは静かに窓の外を見つめた。
か細い明かりで厚い雲が病院全体を覆っていた。
「羽良野先生? どこ? ここで何が起きたの?」
ぼくの声はいつの間にか小声になり、聞き取りにくくなっていた。硬くなりだして動かない足を両手で揉んでいると、奥の病室から羽良野先生が歩いてきた。
片手に持った鉈のような形状の刃物は血だらけだった。
その顔は真っ青だけど、学校での優しさがある顔だった。
「村の人たちは一人だけど説得しました。歩君? 動きが変よ。まだ飲んでないの?」
羽良野先生が渡した白いスープを思い出した。
慌ててズボンのポケットをまさぐり、瓶を取出し蓋を開けた。
匂いは、なんだか豆乳みたいにあまりしない。
ぼくは味は知りたくもないので一気に飲むことにした。
喉を固い液体が通る感触がした。
「うげっ!」
ぼくは吐き出しそうな喉をすぐに叱咤して飲み込んだ。
味はしない。
「我慢して飲んで。村の人たちはかなり怖い人たちだから、早めに一階へ行きましょう。歩君のご両親が危ないわ」
ぼくはハッとして後ろを振り向くと、優しい看護婦さんが扉の開いたエレベーター内で座ったままだった。
そうだ!
この白いスープはまだ残っているんだ。
だから、看護婦さんにも飲ましてみよう。
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