第35話

 ぼくはエレベーターが一階につくと、涙を思いっ切り拭いて捜査を再開することにした。

 でも、当然父さんと母さんが心配だ。それに羽良野先生が今説得をしているだろうけれど、あの硬質な声との会話の内容が気になるし、なんだか戦っているような音がしていた。

 捕まったら何をされるか解らないけれど、とにかく急いで探さないと。

 そうだ、カルテ室に向かおう。

 昔、どこかの病院内で聞いた場所だ。

 そこには、カルテといわれる検査結果などが書かれたものがあるそうだ。お医者さんがそれを読むのを母さんと見たことがある。

 薄汚れたエレベーターの扉がゆっくりと開くと、目の前に一人の看護婦が立っていた。


「どうしたの。ぼく。消灯時間はとうにすぎているのよ」

 茶色がかったポニーテールで、マスクをした看護婦さんが怪訝に聞いてきた。

「あの、カルテ室はどこですか? ぼくの検査結果を医療関係者の父に見せてもいいと、お医者さんに今日の夜に言われたんです。でも、明日の朝まで待つのは耐えられません。ぼく自身待てないんです。きっと、命に係わる重い病気だから……。夜も眠れなくて、気になって……。父は今一階のロビーで疲れて寝ています」

 ぼくは大袈裟に溜息をついて、俯いた。

 咄嗟についた嘘だけど、この人を上の階へ行かせるわけにはいかないし、カルテ室まで案内してくれるかも知れない。

 多分、新人の看護婦さんだと思うから、ぼくはそれに賭けてみることにした。

「ぼく。かわいそうだけど……。そういうのは大人やお医者さんに頼っていいと思うわよ」

 マスクをした看護婦さんは俯き加減に同情してくれている。

 額の面積が広い人だった。目を細めているからどうしていいか解らないのだろう。

「あ、看護婦さん。お願い。看護婦さんも大人だし」

 看護婦さんは少し上を向いて、逡巡する。

「これは例外だし……。いいのかも……しれないし……。それに、患者第一よね……」

 上を向いているから、看護婦さんの表情は見えない。

「お願い。明日、ぼくの気分が更に悪くなっていると、ぼくのお父さんはカルテの内容は見るのは辛いし、決して見たがらないよ」


 ぼくは無理に明るく言った。

 あれ? 体の感覚がなんだか変だ。

「そうね……。じゃあ、ぼく。地下一階のカルテ室まで行こう。お父さんはロビーにいるのね。今の時間はお医者さんたちは救急外来にしかいないの。一階のナースステーションは当直の私と二人の看護婦さんだけよ。先輩に気付かれるまでには戻ろう」

 マスクをした看護婦さんはそう言って、ぼくを向かいの薄暗い小型のエレベーターに連れだした。手を握っているからか、看護婦さんの手には温かみがあった。

 エレベーター内は狭く。人がやっと一人くらいは入れるようだ。

 ぼくは子供だから看護婦さんと一緒に入っても、少しスペースに余裕がある。

「本当は地下に一人いて、カルテが欲しい時はその人にいえば一階へ機械を使って運んでくれるの。今の時間はいないけどね」

 看護婦さんは本当に優しい人だった。

 ぼくの手を握る手はいつまでも、温かみがある。

「あのね、なんて病気か知らないけど、お医者さんを信じてね」

 小型のエレベーターが地下で止まった。


 一階よりも更に薄暗い通路だった。熱気で汗を掻いていると、看護婦さんは壁に備え付けられた懐中電灯を点して、ぼくと歩いた。乾いた足音が通路一杯に鳴り響いている。

「ほら、あそこの部屋。カルテ室って書いてあるでしょ。あれ? 大丈夫? ぼく。体の動きが変よ。先に行って取ってくるわね。ここで待っててね。それと、君の名を教えてね」

「平気さ。ぼくの名前は石井 歩だよ」

 優しい看護婦さんは頷いてカルテ室まで走って行った。

 カルテ室はT字路の右端にあった。

 透明なガラス窓で密閉されていて、この通路よりも更に暗く蒸し暑いみたいだ。

 裸電球がぶら下がるくぐもったガラス窓からは、優しい看護婦さんがテキパキとカルテを探している。


 蛍光灯が点滅していた。

 あれ? 微かに、どこかから機械音がする。

 後ろを振り向くと、小型のエレベーターが上へ向かっていた。

 ぼくは小首を傾げて少し考えた。

 羽良野先生?

 エレベーターは四階で止ったようだ。しばらくするとゆっくりとこの階へと降りだしてきた。


 どうしようか?

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