第4話 幻想ポロネーズ(前編)

「あ、幻想ポロネーズ!」

 春先早く寒々とした駅構内で、白石美香は嬉々として擦り寄った。私は反射的に遠ざかる。

『彼氏にこんなとこ見られたらヤバイ』と言ったのは彼女の方ではないか。私とて、昔サッカーで鍛えたという白石の彼氏に殴られたくはない。だがそれ以上に、学長の娘でもある妻にこんな火遊びの現場を見られたくない。


 私は風間響(かざま・ひびき)、東方音楽大学でピアノを教えている。まだ三十代半ばであるが、色々あって教授の地位に収まっている。白石美香は私の生徒だが、それなりに容姿端麗で彼氏までいる彼女が私とのアヴァンチュールに興じるのは、もちろん見返りを期待してのことだ。

「学内コンクール、本選大丈夫かなあ……」

 白石はそれとなく圧力をかける。

「選考の際にはフォローしておくが、ちゃんと練習はしておきなさい。あんまりひどいようだと庇いきれない」

 私もダメだった時のために〝保険〟をかけておくのは忘れない。


 ところで、先ほどから聞こえてくるピアノの音は、駅に設置されているグランドピアノを誰かが弾いている音だ。ショパンの幻想ポロネーズ。その名の通り幻想的な曲想で、明るく華やかに終わるが、晩年に書かれたこの曲はどこか死の匂いがして目を逸らしたくなる。もっとも若い頃はそこに魅力を感じていたのだが……あの時までは。


 白石は幻想ポロネーズの弾き手を見ようと、足早にピアノに近づいていった。ところが、弾いている男を見て私は腰を抜かしそうになった。

(し、清水!?)

 私はまるで凍りついたように、ピアノに釘付けになった。間違いない、目の前にいるのはかつての同僚、清水高弘だった。私は思わず白石の手を引いてそこから引き離そうとした。

「痛い! 何するんですか!」

「あんな演奏、耳汚しだ。ここから離れるんだ!」

 我ながら無茶苦茶な理由だが、私は一刻も早くそこから逃れたかった。


|| ||| || |||


 私と清水がまだ駆け出しの講師だった頃、二人は音楽について語り出すとつい熱くなって喧嘩になることもあったが、互いに腹を割って話し合える仲だった。あの頃の私はわき目も振らずにただ音楽の理想を追い求めていた。

 そんなある日、清水が幻のピアニスト、ピョートル・スワロフスキーのチケットを二枚手に入れた。

「風間、一緒に行こう」

「なんで俺なんだよ、彼女と一緒に行けよ」

 ちなみに清水には当時付き合っている彼女がいた。

「いや、やっぱり価値の分かる奴と行きたいよ。それに彼女じゃチケット代負担しないといけないしな」

「相変わらずケチくさいな。そのうちフラれるぞ」

 そうして私たちはスワロフスキーのリサイタルへ出かけた。鳥肌が立つような名演だった。特に前半最後に聞いた幻想ポロネーズで、私は魂を揺さぶられた。

 前半が終わって休憩時間となり、清水が携帯のスイッチを入れると、学長からの数回に渡る着信記録があった。

「かけ直さないとまずいな」

「いいじゃないか、コンサート終わってからにしろよ」

 私はそう言ったが、清水は静かなところに行って教授にかけ直した。そして戻ってきた清水は青い顔をしていた。

「どうした?」

「緊急の用事で呼ばれた。悪いけど、後は風間一人で聴いててくれ。僕の分もな」

 そう言って清水はコンサート会場から出てタクシーを拾った。


 次の日から清水は学校に来なくなった。連絡を取ろうとしても繋がらない。そんな時、一人の生徒の訃報が職員たちに知らされ、またこんな噂も流れた。

「彼女の死因は性交死で、相手は清水先生……」

 そんなバカな! 私は思わず叫んだ。清水は生徒を食い物にする教師を心の底から軽蔑していた。彼に限ってそんなことをする筈はない。

 だが、騒ぎはどんどん大きくなった。亡くなった生徒の両親が乗り込んできて、清水と大学を訴えると言い出したのだ。なんでもその生徒は心臓に持病を抱えていて、それを知りつつ行為に及ぶのは死罪に値すると。

 だが同時に私は、彼の潔白を知ることが出来た。その生徒が亡くなったのはちょうど私と清水がコンサート会場にいた時間帯だったのだ。そして、そのあと学長から電話で清水は呼び出されて行った……そのことが何を意味するか、私は直ちに理解した。清水の周りの人間には彼が潔白であることを説いてまわった。そして学長を訪ねて問い質そうとしたのだが……。

「風間君、スワロフスキーのコンサートには君一人で行ったんだ」

「……このまま清水に濡れ衣を着せるおつもりで?」

「君、奨学金の返済、まだしばらく続くだろう。大変じゃないかね」

「どういう意味ですか?」

「奨学金全額肩代わりしよう。さらに次の教授選では君のことを推すよ」

 もちろん何の理由もなく教授になれば色々と波風が立つ。私には「学長のお婿殿」というもっともらしいラベルが貼られた。つまり学長は自分の娘を口止め料がわりに差し出したのだ。彼女は美人だったし、なにより親の財力は魅力的で、私にはなに一つ悪い話ではなかった。こうして私は清水を見捨てた。人間、ダークサイドに堕ちると早いもので、私はかつての自分や清水が軽蔑していたタイプの教師に成り下がっていった。


|| ||| || |||


 翌朝、起きてみると朝食が出ていなかった。しばらくするとボサボサ頭の妻が出てきた。

「あ、ごめんごめん、やっちゃんの動画アップされてたからつい……」

 やっちゃんというのは最近妻がお気に入りのユーチューバーだ。何がそんなに面白いのかわからないが、私はいちいちそんなことに文句をいわない。彼女も私に女性の影がさしても詮索しない。この微妙な距離感がわが家のバランスを保っている。

「いいよ、カフェでモーニングでもつつくよ」

 そうして私は出かけた。


 家を出ると、二人組の男がスッと立ちはだかった。

「風間響さんですね?」

「ええそうですけど、何か?」

 一人がスッと警察手帳を出した。

「ちょっと聞きたいことがありましてね、署までご同行願えますか?」

「警察に話すことはなにもありません。それにこれから仕事があるので」

「学校の方には既にこちらからお話ししています。……小野田茉莉さんはご存知ですね?」

「そりゃ、私の生徒だから……それがどうしたんです」

「昨晩彼女が部屋で亡くなっているのが発見されましてね」

 小野田茉莉が死んだ? 私には事態がよく飲み込めない。「あなたは昨晩どちらにおられましたか?」

 なに? 疑われているのか?

「川渡中央駅の辺りにいましたが」

「それを証明できる人は?」

 白石美香……しかしその名前を出したら一巻の終わりだ。私が黙っていると、刑事が切り替えした。

「ともかくここではなんですから、署でお話ししましょうか」

 ふと目を上げると、通行人たちがチラチラとこちらを見る。たしかに警察署で話した方がましだ。私は素直に刑事たちについて行った。

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