第12話 圭司の…

 昨日の夕方降り出した雨は、今日の朝方になったようやくやんだ。目が覚めた時には少し降っていたような気もしたが、時計の針が7時を回るころになると、スッカリ晴れあがっていた。

 もっとも、降っていたのも小雨程度だったらしく、近くの川の流れもそれほど激しいものではなかった。だが、雨の匂いがどこからともなくやってくるのだった。

 雨上がりの空は、霞を取り除いた氷の様で美しかった。

 まだ地面は濡れていたが、ツーリングのためアパートを出た。勤めに行く人もちらほらいる。

 圭司は今日一日バイトの予定が無いため、ツーリングでもしながらのんびりと汚す予定であった。

 ルートとしてはいったん街の北端付近にあるダムまで行き、そこから適当に折り返してくる予定である。

 早速原チャリを走らせる。夏の湿気を含んだ風はかなり熱いが、それでも風を切り裂きながら進む感覚はかなり楽しい。

 道中に安須具川町があり、そこの銭湯通りを走った。井伊吹屋、単打屋、張巣屋と、三つの銭湯が連なるとおりである。その辺り一帯に、湯の香りが漂っている。そして、その先頭を囲むようにして、古道具屋が軒を構えており、古びたショーケースの中から銭湯でよく使われる黄色い桶が覗いていた。

 空ぶき屋根とトタンの町で、さびれかぶれる。そんなふうに歌われたいわれがあるようなことを聞いたことがある。

 銭湯通りを抜けると、ほどなくして蜂須橋という20年ほど前に作られた橋が見えてくる。やたら長々としている割には、道幅が狭く、5年に一度は個々で転落事故が起きるという話だった。

 この橋の下には蜂須川という清流が流れており、辿っていくと圭司らが通っている孤高の裏手にある山を二つ超えたところにつながっているそうだ。

 昔聞いたところによると、ヨシノは幼いころそこに一人で行ったらしい。帰るころにはすっかり日も暮れており、心配したヨシノの親が警察に生き失踪騒動にまで発展してしまったそうだ。

 本人は笑いながら話していた。

「それで、源流はどうだった?」

「ふふふ、なんてことはなかったよ。蛇口を軽くひねった程度の水が、その始まりだったのさ」

 ヨシノはてっきり、琵琶湖のように大きな湖が山の上にあり、そこから川が始まっているのだと思っていたらしいのだが、実物ははるかに小さなものだった。

「知らない方が楽しいことも多いね」

 蜂須川は山間を流れる川のため、その川に沿うようにして山肌に道が作られている。カーブの激しい道を通っていく。ダムは山の中に作られているため、行って帰ってくるだけでかなりの時間を要する。

 時々ではあるが気分転換に通っていた。

 暇つぶしにももってこいな場所だ。

 銭湯通りを走っているときは何故が蝉の声がしなかったが、橋を抜けたあたりから一気に蝉の声が押し寄せてくる。両脇が山であるために、エンジンの音がかすんでしまうほどである。加えて、下をながれるかわのせせらぎがよりいっそう音を消す。

 額や頬、首にじわじわと汗を感じながらも、どこか涼しさを感じていた。生い茂った木々堕としてくれる影のおかげで、直射日光を浴びずに済むのだった。

 やがてダムの駐車場が見えてきた。駐車場に原チャリを置いて、展望台まで歩いていく。 

 展望台からはその巨大なダムが一望できた。

 まるで風がせり上げってくるような感覚だ。コンクリートで固められたその場所に、紺碧の水が蓄えられている。山のように多いきいそれを眺め、ふぇえんすにもたれ掛かった。

「汗も引いてくな」

 巨大なダム以外に見るものなどない。

 だが、それのシンプルさがとてもよかった。

 風が随分強い。

 しばらく、その光景を見ながらじっとしていた。ふと横に視線と逸らすと、遠くの方に自分と同じくダムを見下ろしている人物の姿があった。

 そのほっそりとしたシルエットから女性だと分かった。

 薄緑のスポーツウェアを着ている。ぴったりとしたフード付き長袖グリーンのアウターに、ホットパンツをはいている。ホットパンツから真っ白な肌がすらりと長く伸びていて、まるでシルクの様だった。 

 やたらとスタイルのいい人だな。

 尻から足先に掛けてが引き締まっていた。

 手で額から流れる汗をぬぐっている。

 線は細いが、かなり健康的な身体に見えた。薄緑色の服を着ているせいか、どこか涼しげである。

 おかっぱ頭がゆらゆら風になびいている。

 すると、その人がこちらを向いた。

「あ」

 圭司は声を上げた。

 女性は短い髪を揺らしながら颯爽としている。

 手をひらひらとさせながら、呼びかけてくる。

「やあ、圭司」

「ヨシノ。どうしてここに」

 その女性はヨシノだった。近くで見ると、頬が桃色に紅葉しているのが分かる。髪の先が濡れ、真っ白な首筋を汗が流れている。

「なに、ちょっと趣味ランニングをね」

「…ああ、そういえばもと陸上部だったか」

「くわしいね。私のファンかな」

「いいや、松葉が前に沿うっていたのを思い出したんだ」

「ふうん、そうか」

 彼女はつまらなそうに、フェンスにもたれてダムを見やった。

 圭司も同じようにフェンスへもたれ掛かった。風は熱いが吹いている間だけは、汗が止んでくれる。

 圭司は横目でヨシノを見て、思わず、いややはりといった具合に目を細めた。

「ヨシノはよくここに来るのか?」

「いいや、いつも来てるわけじゃないよ。たまに来る程度かな」

「ランニングでこんな遠くまでか…」

「いいじゃないか、それくらい。けっこういい気分転換になるんだよ?それにここら辺は人が来なくて静かだからね。考えたいことがあるときは最適だよ」

 風が来るたびにヨシノの髪がはためき、上着の袖が振れる。

「君はどうなんだい?」

「うん?」

「よくここまで来るのか?」

「…偶にだけどな」

 自販機まで歩いて行って、二人分のコーラを買った。彼女の方へ放り投げると、ひょいとキャッチし、静かに飲んだ。のんでいるすがたも、どこか慄然としていた。

 圭司はヨシノのことを前々からどんなことをしても、絵になるやつだなと思っていた。決して、写真写りがいいとかそういう意味ではなく、なぜだか絵になると考えていたのだった。

「それで…なにかあったのか」

「なにが?」

 こともなさげに聞いてくる。

 圭司の眉がピクリと動いた。

「考えたいことがあるときに来るんだろ?最近何かあったのか?」

「……―ふふふ、けっこう踏み入ったこと聞いてくるね」

 聞くまでもないことはわかっていたはずなのに、そう聞いてしまった。ヨシノの口から直接それを聞きたかったのだ。

 あえて彼女の口から、悔恨が流れ出すのを確かめたい。

「話したくないなら、別に話さなくてもいいんだぞ」

「そんなこと言って、本当は確かめたくて仕方がないんだろ」

 自分の心の中を覗かれたようでちょっとびっくりした。彼女の眼を見ると、怪しく微笑んでいた。

「予想もついてるくせに」

「…松葉のことか」

 ヨシノはぐいい、と背伸びをした。まるで、猫が背筋を伸ばすかのような動きだ。魚聞く胸を沿って、背のをバス。上着の間から、少し腹が見えた。手足よりもずっと真っ白で真珠の様だった。

「それもあるね。其れ以外にもいろいろあるよ。絵のことだったりね」

「絵のことは相談に乗れんなぁ」

「別に相談に乗ってほしいなんて言っていないよ」

 普段よりも言葉が抜き身である。鋭さを持った言葉を使うヨシノは久しぶりに見た。

「それにね、将来のこともだよ」

「将来?」

「うん、いままでは与えられた選択肢の中でどれを選ぶかだったろ?でもここ数週間で代ってしまった。今じゃ与えられるもの以外に、自分でつかみ取れる選択肢が増えてしまった。社会的な位置と金銭的な余裕だろうね。自分から金を生み出せる方法を知ってしまうと、人生が変わってしまうよ」

 ヨシノはコーラを一気に飲み干した。

「人生設計か」

「そうだよ」

「俺に、そんなものはないな」

「ほお、行き当たりばったりでいくつもりかい?」

「そうじゃない、俺はきっとどこでどんなことをやろうが基本的に変わらないってことさ。ここで暮らそうが、どこでどんな仕事に付こうが、きっと同じようなことをやってるよ」

「悲劇だね」

「お前からしたらな。ヨシノは選択肢が多すぎで困ると言っているが、そういう悩みがあるだけ羨ましいよ。選択肢そのものがない奴のほうが世の中ずっと多い」

「…悲観的なことを言うなぁ君は」

「でも、それが現実だ」

 ヨシノはおれの言葉を聞いて、ふうん、と言った。そしておもむろに近づいてくると、ガバッと両手を広げて、圭司の首をがっしりと捕まえた。そうやって、強引に肩を組むとぶんぶんと揺さぶった。

「暗いこと言うなよ!圭司ー」

「おい、やめろバカ」

 なぜだかヨシノは楽しげだ。圭司は落ち着き払い、微かに笑いながらヨシノに合わせていた。圭司は一瞬、その身体に腕を回しかけてやめた。別に他意はなかったが、そうやってヨシノの体に触ることは避けていた。

 たとえ、遊びであってもそんなことはしない。

 それは、つまり。

「でも、目下のところ一番の悩みは」

 圭司の耳に唇を近づける。

「自分が劣悪な人間であると知ってしまったことだよ」

 圭司は無表情でヨシノを見た。彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていたが、やはりいつもの凛とした笑顔だった。

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