第9話 星の下で
にぎやいでしばらくたった。
五時ごろに言えに帰ると、何やら女子二人が家の前でたむろしていた。みると、ヨシノと小夜だった。見たくない顔のはずだったが会ってしまうと、それほどでもなかった。
ヨシノいつもの調子で「やあ」と手を上げてきたので、俺も手を上げて挨拶し返した。
「よお」
菓子やらジュースを買ってきてくれたので、俺の部屋でひとしきり騒いだ。
いつも通りの光景だった。
小夜がコーラをこぼしたり、圭司がまだ明けてないポテトチップの袋を踏みつけたり、俺が悪ふざけで圭司の頭に買いついたりしながら、時間が過ぎていった。ちょっと前まで普通に繰り広げられていた光景が、目の前に会って、当たり前に笑いあった。
ヨシノの姿も、いつも通りのものとして映っていたはずなのに。
胸の奥底では、なにか言い知れない深い水底の光が伸びるようにてらてらしていた。
「あ、そうだ。おもてに洗濯物干してるから、ちょっと出てくるわ」
そういって、その場から離れた。
引き戸を開けて外に出ると、夏の押し寄せるような空気が俺を包み込んだ。夜の香りはどことなく山のそれに似ている。
蛙の音もまた静かに迫るようだった。
星空もいつも通りだ。
子供のころ、ラメを誤って床にこぼしてしまったときのように、輝いている。いや、縁日の時に買ってもらったラメ入りの黒いボムボールだろうか。
この頃になって昔のことをやたらと思い出してしまう。
「感傷に浸る年頃じゃないだろ」
ヨシノはガラガラ開けながら俺に近寄って横にたった。やはり、俺より少しだけ背が高い。横顔も凛として澄ましている。黒がちな瞳と、艶のあるおかっぱが宵に滲んでいた。
「人生で一番悩みの多い年ごろだろうが」
「悩みというよりは、決めあぐねる年ごろだろうね。どれを選ぼうが、それともどれを捨てようか。取捨選択を否応にして決めなくてはいけないね。わたしも、君も」
どれを選び取るか、捨てるか。
そういう選択というものがついぞ頭に現れたことがない。
「じぶんに今あるものを捨てて、やりたい方に行くやつの方が少数だろうな」
「そりゃね。安定を捨てるのは怖いし、それにうまくいかないことの方が多い。実際9対1ぐらいの割合じゃないのかい、やりたいことで成功するのってのは」
「そりゃな」
「好きっていう感情だけで押し通せるほど、迫る波は小さくないのさ」
迫る波は小さくないか…。
ヨシノは息を吐きながら、ゆっくり目を閉じた。
かなりリラックスしているように見える。
「お前がそれを言うのかよ?」
それを言うと、ヨシノはしばらく黙って、そして薄く笑いだした。
別に彼女を笑わせるために言ったわけでもない、そして攻め立てるわけでも、怒るわけでもなく、あくまでなんとなく発した言葉だったのだ。
「そうだね。全く君の言う通りだ」
「だろ」
「結果に対するプロセス。私の道のりは、きっと誰の最短距離よりも短いものだったのだろうね」
「…」
「だが、えてしてそういうものじゃないかな。松葉。木登りが得意なサルが言うように、下手なサルだっている。だが、得意なサル全員が木登りが好きというわけでもないだろう?そういう具合なのさ」
さらりと言ってのけてしまう。
きっと、俺にもこいつほどの才能があったらそんな風に言えるのだと思う。人の努力を簡単に、才能があるかに会い科だけでたかれるほど、俺は成熟していない。いや、あるいはヨシノも、そういう高飛車なところは未熟が故のものなのかもしれない。
「この話はやめにしよう、君の眼が怖くなる」
「は?」
ヨシノはまなじりを少し上げ、にやにやとしながらおれの額をこつんと突いた。として、ぐるぐると、指を回してなぞってくる。
「いきなり何すんのよ、あんた」
「自分で気が付いていないのかい。さっきからわたしをやたら熱い目で見ているのだよ。ああいやだいやだ、モテてしまって私はどうしようもないよ」
熱い目。そう言われて目に力は言っていたのに気がついた。自分でも気が付かないうちに、感情が露わになっていたようだ。どれだけ、自分を取り作っても、どれだけ顔で笑っても、腹の中で寄生虫が笑ってしまう。
真黒とは言わないまでも、赤みがかった感情の渦が、高ぶってしまう。
きっと、言われなければ気が付かなかった。
俺が自分で思っている以上に、ヨシノが妬ましいらしい。
「お前をそう言う目で見たことは一度もないよ」
「だろうね」
「あと、俺の方がモテル」
「あっはっはっは。なんだ?最近ユーモアのセンスが上がったんじゃないのか?」
とことん、煽ってきやがる。ひょっとするとこれがヨシノなりの気の使い方なのかもしれない。
腹手にをやって大げさに笑うこいつと、もう長いことやってきた。
こいつの髪が長かった頃も知っていて、その自慢の髪を切ってしまった理由も知っている。ほとんど兄妹みたいな関係だ。この劣等感もいずれは薄れて消えてしまうのだろう。
一過性のものだきっと。
薄い唇が良く動く、細い足はよく走る、そういうことを知っている仲だ。
「そういえば君、あの絵はどうしたんだい?コンクールに出すんだろう?」
「ああ~。あれか、あれはなちょっと見送ることにした」
「ほう、それまたどうして」
「書いてる最中からなんとなく、あの絵に納得がいかないような気がしてたんだ。多分、俺、あの絵が出来上がっても満足しない。ちょっち、スランプ?て、やつ?」
「ほう」
「とりま夏休みまでお絵描きは筆休めだ。夏にはいったらやべぇの描いてやんよ」
「ふふふ、それは楽しみだな」
「みてろや、大先生。きっと泡吹かせてやんよ」
その言葉を聞いて、ヨシノはわらった。
その笑い方はテレビで見たあの感じとよく似ていた。だが、違っていた。今までにこんな笑い方をする吉野は見たことがなかった。瞳孔がギュッと閉じて、口を大げさなぐらい開けて、でも決して派は見せずに笑うのだ。
「期待大だね」
月の隠れた晩だったせいか。それとも、夏の夜がそうさせるのか。
目の前のヨシノが、化け狐のように見えた。
「先に戻ってるよ」
そういって、家の中に戻っていった。中から「ぎゃああああ!ゴキブリダああああ!」と小夜の悲鳴が聞こえてくる。早く戻ってやった方がいいのだろうが、俺もゴキブリが苦手なので、退治されるまで待つことにする。たぶんだが、圭司かヨシノが倒してくれるだろう。
今一度見上げた空は先ほどよりも輝いて見えた。谷底から見上げる空が美しいように、沈んだ心で見上げる空は美しかった。
ヨシノ、俺は波にさらわれちまいそうだよ。
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