第7話 青年になりすぎた

 奴は五分後に来ると言っていたが、結局来たのはおれが床に激突した直後だった。しかも鍵をかけていなかったので、がらがら引き戸を開けてそのままつかつか入ってきやがった。そうして、ケツを突き出しながら床に臥せっているおれを怪訝な目で見下ろしてきた。

「風邪をひくと人は妙な趣味に走るんだな」

「おれそんな変態じゃないやい」

 圭司に差し伸べられたてをつかみ、俺は立ち上がった。見ると、今日はワックスを着けていないらしく、ただでさえぼわぼわの髪に収まりがつかなくなり、本当に犬みたいに見えた。

「ゴールデンレトリーバー」

「なんだそれ」

「なんでもない。てか、今日どっか行く気なんか?」

「いや、別に遊ぶ相手が欲しかっただけだよ」

 軽口をたたきながら表に止めてある原付の荷台に乗る。圭司が前に載ると、結構でかく見えた。やはり一回りはおれより大きい。ヨシノよりもだ。

 しっかし、外に出ると暑いこと暑いこと。

 ヘルメットをしているとはいえ、頭がじりじりと焦げるようだ。セミたちも何が楽しいのか、夏の絶叫を絶え間なく反響させているし、野花や草はこれぞとばかりに太陽の光を反射させて俺を苦しめやがる。

 全部燃え上がって、オレンジになりそうだ。

「とりま喫茶店とかでいいんじゃね」

「そうだな」

 圭司がエンジンをふかす。

 走り出すと空気が後ろへ流れていった。春や秋ごろだと涼しくていいのだが、夏は熱風に体を当てるようでかなりつらい。どれだけ走っても、身体のほてりが収まらない。

 喫茶店にはすぐについた。

 いちおう街の中心部にある喫茶店ではあるが、外から見ても中から見てもやっているのかやっていないのかまるで分らない店構えである。珈琲をイメージした茶色の塗装や、ネオンの切れた看板、そしてとりあえずという風に置かれた枯れた観葉植物。

 客を呼び込もうという熱意が全くない。

「こんちゃーす」

 そう言いながらドアを開けると、なかから涼しい風が吹いてくる。火照ってしょうがなかった体に、冷をぶっかけたみたいだ。

 見ると壮年の客が二人来ていた。

 不思議なことに、この喫茶店、客入りが悪くないのである。近所にいくつか喫茶店はあるのだが、みな何故がここに集まるのだ。慣れ親しんでいるためだろうか。

「あら、いらっしゃーい」しゃがれた声が俺たちを出迎える。

 カウンターの中を見ると相変わらず紫色のこいアイシャドウを塗りたくった店主が、煙草の煙を飲んでいた。がりがりに痩せた手に、水色のネイルが光っている。

 年は60代ぐらいだろうか。

 年恰好含めて胡散臭い占い師のそれである。

「あら、あんたたち今日学校じゃないの」

「フケたんよ」

「あらあら、不良ね」

「これぐらいじゃぜんぜんよ」

「おばちゃんアイスコーヒー二つ」

「あいよ」

 一番奥にある窓際の席に二人対面するようにしてどかりとすわる。

 俺はため息を吐いた。

 暑い空気が体の中から流れ出て、舌がぬるくなった。

「疲れてるようだな」

「…いや、ただちょっとね。なんとなく気疲れ?してんのかな。いや、まあ夏バテだよ。きっと」

「気疲れね。そうだ。今夜ちょっとドライブしねぇか」

「…どうしたんだ急に」

「いやよ。お前このあいだ夜に冒険したおだとか言ってただろ?おれもちょっと気になってよ。ほら、偶にはそういうことをしても悪くはないだろ?」

「……はぁ」

「最近コンクールだからって根詰めてただろ?きっとそれが原因だ。そんなときはよ。ぱーと思い切り遊んじまえばよくなってもんだぜ」

「おい、圭司」

 テーブルのしたで、圭司の脛をガツンと蹴り上げる。

 鈍い音がすると、圭司は「あだだだだ」といいながら脛を抱えてさすった。うっすらと、目じりに涙を見せている。

「なにするんだ…松葉」

「いっちょ前に気を使ってんじゃねぇよ」

 窓の外を眺めながら吐き捨てる。

 目の端で圭司を見ていると、なんだか気まずそうに口をゆがませていた。

 圭司ほどさりげなくを、わざとらしくをはき違えている奴も少ないだろう。

 本当に、気の使い方がへたくそだ。

「だってよ」

「だってよ。じゃない。てか、別にそこまで心配してもらわんでも、特に何とも思っていねぇよ。あいつが賞とったのと、俺がまだ土ん中で芽もでずにうろうろしてるのとじゃ、全く別問題だ。そうだろ?」

「…タフだな松葉は」

 丁度その時、珈琲が運ばれてきた。

 琥珀に黒い絵の具を堕としたかのようなそれは、氷とグラスの硝子をすかしてテーブルの木目を滑った。色を変えた氷が、踊っているようだった。

「大方、ヨシノに俺を気遣ってくれだとか、今私のせいで奴が落ち込んでいる。だとか言われたんだろ?」

「…まあ、そうだな」

「やっぱりな」

「でも、心配しているのは本当だ。昨日だって早退したしよ」

「そりゃありがとさん」

 珈琲を勢いよくすすった。

「それで、本当に大丈夫なのか」

「しつこいな、なんでそんな食い下がる?」

「普通、誰だって落ち込むさ。友達に成績だとか、スポーツで追い抜かされたら、絶対落ち込む。そういうもんだろ?」

「…確かにな」

 圭司のいかつい顔が、いつもよりさらに険を増してくる。心配してくれているのは、どうやら彼自身の本心らしかった。そういうのは、普通にうれしい。俺の心を気遣ってくれているというのは、結構ジンとくるものだが。

 それといっしょに、別の感情も沸き上がってきてしまう。

 俺はなるべく表情を変えず、遠くを見やった。

「でも、大丈夫だ圭司。そりゃちょっとは悔しいさ。いままで絵が好きそうなそぶりを燃せなかったあいつが、いきなり絵を描いて、しかもそれが賞に引っかかるとか、普通あり得ねぇことだし、結構驚いてる。でも、なんかあいつと目指しているところが同じって考えたら、ちょっと嬉しくね」

 俺は圭司に笑った。

 まるで、そうしなければいけないとでも言うように、笑いかけた。

「松葉…」

「悔しくないって嘘つくこともできるけどよ。それ以上にうれしいんだわ俺」

「心配しただけ無駄だったってことか」

「そりゃそうよ」

 俺ら二人は笑いあった。

 自分の口を、いますぐぬぐいたくて仕方なくなる。

 ちょっとは悔しいか…いいや、ちょっとどころなんてものじゃない。ヨシノの受賞を聞いた瞬間から、吐き気がおさまらないくらいなんだ。悔しいという感情をすでに通り越してしまっている。

 もはや、自分の感情が憎らしいというところまで、迫りつつあるのを鮮烈に感じる。テレビの中に映るあいつが、毅然としていて、まるですがってしまいたいほどの華があったからなおさらだ。

 圭司は笑いながら、お返しだと俺の脛を蹴ってきた。激痛がむこうずねを通ってやった来たので、俺は膝を抱えながら、いだだだ、と叫んだ。それを見て、けらけらと圭司は笑った。

 圭司、そのまま心配し続けてくれよ。

 心配が無駄だったなんて言わないでくれよ。

 ずっと心のどっかで、俺が不安定なんじゃないかとか。ヨシノに劣等感を感じているんじゃないかとか、心配してくれよ。

 全部お前の言う通りだ。

 友達に追い抜かされたら落ち込む。

 まるで谷底に突き落とされてしまったかのような気持ちだ。深い処におともなく引きづり込まれていくのを感じる。

 それに、ヨシノが心配して圭司に連絡をよこしたというのも気になる。あいつのそういう大げさな気遣う姿勢がことさら俺を締め付けてくる。ヨシノが、俺を案じれば案じるほど、あいつに突き刺される。

 見ないナイフが、心に刺さる。

 それに、本当に見えないものがある。

 感情にはいくつも名前がある。その漢字もなんとなくわかっている。憎い感覚も、懐かしい感覚も、悲しみの感覚も分かるが、そのほかにも変な感覚がある。

 まるで幼いころ、ホラー映画を見た時に感じるアレに似ている。

 恐怖と簡単にいうには、俺は青年になりすぎた。

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