第6話 まだ 話してたい
そのあと気分がわるいからと言って早退した。
持ち帰る予定であった絵は、あのまま放置した。とても描く気にもならない、だから持ち帰る気になんてさらさらなれない。
家に帰って真っ先にシャワーを浴びると、べたべたした汗が流れて幾分すっきりした。
シャワーから上がって、そのままベットに入った。
なんだか、本当に体調が悪いような気さえしてきた。
気が付くと本当に寝てしまっていた。カーテンの開けられた窓から、鈴虫の音と共に宵が垂れていた。
目が覚めたのは携帯の着信音のせいだ。たらりらたらりらと、神経を逆立てる。
手に取って耳に押し当てると、聞きなれた声がした。なんだかすこし安心した。
「やあ松葉、早退したらしいね。夏バテかい?」
「そんなところだよ」
「そういえば、朝から青い顔をしていたな…気分が悪いならそう言ってくれればいいのに」
いえば、どうにかなんのかよ。
「それいっても仕方ねぇだろ。あーつか、まだちょっとだりぃわ」
「話すのが辛いならもうきるけど」
「いや、いい。暇してんだ、切らないで」
「わかったよ」
無性に誰かと話していたい気分だった。それがたとえ、ヨシノであったとしてもだ。いやひょっとすると、ヨシノだからこそ、その声を聴いていたいのかもしれない。
「それで、なんだよいきなり」
「ああ。東京土産を皆に買ってきていてね。近いうちに渡したいんだが、明日学校に来るかい?」
「さあ、なんとも」
「そうか。まあ、無理はするなよ」
「うん」
「夏風邪は長引くといしね」
「うん」
「松葉…」
「うん?」
「ほんとうに体調が悪そうだね」
「水に揺れてみたいな感じだ」
「もう切るよ」
「いや、まだ話していよう」
「体調がすぐれないんだろう?」
「うん」
「なら」
「いやいいよ」
「でも」
「大丈夫だよ」
大丈夫だっつてんだろ。
携帯を握りしめる手が熱くなる。それに比べて、頭の仲と身体の仲は冷たいまんまだ。熱に浮かされた時、身体がふわふわするが、あの時の感覚とはまるで違う。例えるとするなら、回転いすに座りながら、全力で回して立ち上がったときみたいな感じだ。三半規管に融通が利かなくなっているあの時だ。
寝ていても、世界が回っているような気がする。
「俺が帰ったあとなんかあった?」
「いや、とくには、ああでも、そういえば圭司が―」
ヨシノの声を聴くたびに、深い沼に沈む感じがする。手足をばたつかせてっも、決して浮き上がれない。次第に光が遠くなって、水底で魚の死体のように横たわる。
そこまで考えてあの絵が惜しくなってきた。
でもあれきっと、かきあげたところでなんの賞もとれねぇよな。
ヨシノの声が聞こえる。
俺は何とも思っていない。俺はちゃんとまっすぐ歩ける。だからヨシノの声を聴いたって何とも思わない。そういうふうに、意地を張っているような感じもするけど。
何かそれとも違うなぁ。
ぼんやり考えているうちに、寝てしまったようで。
次に目を開けると夜中の三時だった。
手には、光の消えた携帯が握られていた。
「なんか大丈夫になったな」
朝6時に目が覚めると、なんだかんだ昨日の吐き気やらぐらぐらやらが改善されていたのは驚くべきことである。もしかすると、あれはヨシノが賞を取ってしまったということに対する心理的なストレスではなく、ただ単に普通に体調不良だったのではないか。そんな風に思えてしまうほど、清々しい気持ちで朝を迎えることが出来たのである。
「うん、ふつうだ」
だが、起きようにもなんだかめんどくさい。
「果たして、学校に行こうか、それともさぼろうか」
実に悩ましいところではあった。
昨日休んだ学生が、体調不良のため翌日も休むというのはとても自然な流れである。
だがしかし、今週末が七月の20日、つまり夏休み目前なのである。どうせあと少しすれば夏休みが来るのに、今ここで休んでしまったいいのだろうか、とあれこれ逡巡しながらひたすらもぞもぞもぞもぞしていたが、結論は。
「松葉ー体調どう?」
「まだ、悪い」
「そっか、電話入れておくわねー」
仮病である。
タオルケットにくるまりながらほくそ笑んだ。
やがて時計の針が登校時間を過ぎ、授業開始の時刻になるのを見届けてベットから這い出た。皆があくせくとノートに板書している瞬間に、さぼりを決めているこの感覚がたまらなく良い。
背徳感の麻薬である。
しかも、これ幸いなことで今日は両親どちらも出かけていて次の日まで帰ってこないの である。
なんなら、明日も休んでしまってそのまま一足早い夏休みと決め込んでしまうのもやぶさかではない。なんならそうしてしまいたい。
「てか、なにしよっかね~」
冷蔵庫の中にあったカニカマと冷えたご飯を食べながら、あれこれと頭の中で計画を立てていく。
さすがにこの貴重な休みをゲームに費やす気はない。やるならもっと有意義なことをしたい。漫画や小説でも読むか、それか映画を見て過ごすのもいいな。いや、もっと人の少ない平日の昼間だからこそやれることをやりたい。
なんだろうな、それは。
「…なんだろうね」
ふと、頭の中に筆が浮かんだ。
考えるな考えるな、と念じれば念じるほど考えてしまう。
筆掴み、キャンパスに向かって一心不乱に絵を描き続ける自分の姿。汗をぬぐい、頬や額を絵の具だらけにしながらも、必死に向かっている姿が。
今はちょっと休もうって。
俺しかいない台所に、冷蔵庫の音が鳴っている。其れ以外何も聞こえない。何もない。目をつむればそれ以外何もない。
ちょっとだけ、休もうよ。
そんな時だった。
「携帯か?」
部屋の方から着信音が聞こえてくる。慌てて取りに行くと、意外な人物からの着信であった。
すぐに開いて耳にあてる。
「どしたん?今学校だろ?」
「いいや、昨日徹夜したから今日はさぼった。それより、やっぱりさぼってくれていたか。松葉」
携帯の向こう側で、笑う圭司の顔がなんとなく予想できた。
「いやいや、人聞きの悪い。俺は本当に体調悪いんだぜぇ」
「嘘つけ。昨日だって、女子が話しかけたら元気そうだったって言ってたぞ」
ああ、きっとあの二人組だろうな。
「女の言うことは当てにならないだろ」
「お前のいうことよりは、全然だ。それより、どうせ暇してんだろ」
「うん」
「今、家か」
「なんだ、迎え来てくれんの?」
「おう、あと5分したらつくから、準備しとけよ」
そう言って一方的に電話を切ってしまった。
あと、5分ってあいつ。
はなっから俺を迎えに来る予定だったってわけじぇねぇか。
そういう、無遠慮さがうれしい。彼の言う通り、暇に暇を重ねていたんだ。そうやることが無くて…。
やることはないよな?
ともかく、俺は急いで準備した。途中、ズボンに引っかかって頭から床に激突した。
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