2.初雪と初恋、淡雪と私と貴男と貴方と如月中旬
「相沢さん、ちょっと……良い?」
合計150kg近くの原料が乗せ、原料室から出ようと台車を押していると、後ろから話しかけられた。このKY加減からして分かる。後ろを振り返ると、胴体しか見えない。顔を上に上げると、霧島さんと目があった。霧島さんとはタバコを拾ってから、かなりの頻度で話しかけられるようになった。バレない程度に小さく溜め息を吐き出す。
「どうかされましたか?」
彼が原料室に入ってくるのは初めてだ。ここで私はあることに気が付いた。
(あれ…この部屋って確か、温度や湿度、害虫、害獣から原料を守るために壁が厚い。フォークリフトが入れるようにシャッターはあるが、壁同様に作りは厚い。天然の防音室だって誰か言ってたっけ)
身の危険を感じ取り、ポケットにあるスマホの電源を2度押した。私のスマホは、電源ボタンを2度押すと、将生さんに繋がるように設定している。感覚で操作しながら、霧島さんから目を離さなかった。
「その…えっと」
そこで彼は無言になってしまった。彼は私の一回り以上、年上だ。どうしてこんなにも、しどろもどろしてしまうのだろう。
「用がないのであれば、失礼します」
と、適当に嘘を吐き、台車に手を掛けた。全体重を掛け、台車を押すと、キィキィと嫌な音を立てながら、ゆっくりと前に進む。自分の杞憂であったことに少し反省した。将生さんには間違って電話してしまったと説明し、これから単独行動は控えるようにしよう。次にやることなどを考えていると、右腕を思い切り掴まれた。
「…!?」
(骨が軋んでいる、かなりの力だ。とてもじゃないが、女の私では振り払えない。誰かを呼ぶために声を出したとしても、ここでは聞こえない。それに彼を刺激することになり、かえって危険な状態になることも考えなければ。原料室には監視カメラがない。少し手荒くなってしまうが…自己防衛だ)
「離してください。それ以上掴み続けるなら、蹴り飛ばすよ」
「…」
私の問いかけに答えることなく、霧島さんは腕を掴み続ける。力は緩むことなく、逆に強くなっていく。一応警告はした。過去にキックボクシングを習っていた私は、右足を軸に体を捻り、彼の方へ向き直る。そのまま膝の裏を思い切り蹴り飛ばし、転ばせた。転ぶ瞬間、霧島さんの表情を見た私は言葉を失った。
「どうして…」
(笑ってるの??)
転んだ霧島さんは、笑いながら作業着についた汚れを落とし、立ち上がった。私の腰にはカッターケースがある。ケースの中にはカッターは勿論、再検査用のペンライトを忍ばせていた。私は、自然を装いながら、腰に付けてあるケースへと手を伸ばす。あらためて男女の力の差を思い知った。
「やっとまともに目があったね」
ケース内にあるペンライトを素早く握り、袖の中へと隠す。最悪このペンライトを使って逃げるしかない。目元に強烈な光を当てれば、どんな人物でも怯むか驚くはず。数分だろうか、いやもっと短い時間だっかもしれない。私達は見つめ合い、最初に口火を切ったのは彼だった。
「……ま?」
「は?」
「こ、今週…暇だったりする?」
私はとにかく後悔した。あの時「タバコ落としましたよ」なんて言わなければ、私の生活に
「相沢さんって彼氏いないんでしょ?そしたら問題ないよね」
仰る通りだが、私の意思は無視するようだ。彼のねっとりとした笑顔に虫唾が走る。
「先約があるので無理です」
「それなら次の週は大丈夫ってことかな?」
(コイツの思考回路はどうなっているんだ。この状況、かなりまずいんじゃ)
恐ろしいポジティブ思考に絶句した。このままだと押し切られてしまう。思考を巡らせるが何も思いつかない。パニック状態になっている。
これは私が異性と触れてきた人数が問題ではない。このようなタイプは見たことがなかった。常識が通じず、自分主体でしか物事を考えられない、他者の気持ちを感じ取れない鈍い感覚。本能が危険だと判断し、後退りする。逃げ場はないというのに。
「おいっ!!」
原料室のドアが派手に開き、将生さんの怒声に近い声を聞いた。私と霧島さんは同時に彼を見る。彼は肩で息をしながら私の元へ駆け寄ってきた。彼の姿が目に入った私は、肩の力が抜け、味わったことのない緊迫感から開放されたのか、腰が抜けそうになる。
「お前…1人で原料持ってくなよ!!女に重いもん持たせたのが課長にバレたら、俺が怒られるだろ!!」
(は?)
「いっぺん死んでおくか、てめぇ」
私と将生さんが言い争いをし、蚊帳の外だった霧島さんは何も言わずに、原料室から出て行ってしまった。いつもはこんな事で突っかかる人ではない。彼は私の電話に気が付き、スマホを手に取ったらしい。会話がくぐもり聞こえにくい状況から、何かあったのかと考え、探しにここまで来てくれたようだった。
「助かった。ありがとう」
「半分は本当の事だし…霧島に何もされてない?大丈夫?」
「あー…大丈夫。ちょっとビックリしちゃっただけ」
無意識に私が腕を擦っていることに気が付いた彼は、私の右腕を霧島さんとは違って、優しく腕を掴む。袖をゆっくり捲られると、くっきりと紫紅色の手形がついていた。あれだけの力だ、確かにこうなっていても可笑しくはない。
「クソ、あの野郎」
「大丈夫だよ将生さん。あまり大事にしたくないから、みんなには言わないで」
「…何で」
班長になり、今まで出来なかった仕事が出来るようになり毎日楽しく勤務できていた。でも、いつからだろう。ロッカーの中に、ゴキブリの死骸や使用済みの生理用品が入れられていたり、私の作成したはずの資料がシュレッダーにかけられていたりなど幼稚なイタズラをされるようになった。
夜勤固定になったのは母親だけが原因ではない。
「何か弱みを握られてるの?」
「…」
「俺にも話せない?」
彼のことは信用している。だからこそ話せなかった。全てを話せば、彼は課長の元へ赴き、苦情を言いに行くだろう。そうなれば、私もただでは済まないが、将生さんは私と違って一般社員。
この会社は弱肉強食の世界。私の場合は降格で済む。じゃあ将生さんは?間違いなく課長は、自分に意見してくる人物を排除するはず。今の課長は、昔の優しい課長ではない。己の出世に夢中になり、視野が狭まっている。
実際、課長は私が本社から班長に任命された時、最初は喜んでいた。だが月日の経過と共に、「将来的に結婚でもして、寿退社されたら困るんだよね」「育休制度を使われたら、誰が代わりを務めるんだ?」「男共を食い物にしないか心配だ」「女なのに班長って…他になれる人間がいなかっただけなのにな」と、周りに愚痴を漏らしていることを私は知っている。
この会社に信用できる上司など存在しない。皆、自分を正当化し、自己防衛することで、頭がいっぱいいっぱいなのだ。
「美咲のタイミングでいつか話して?泣くな。負けるな」
「泣いてなんかないし、負けてもないさ」
袖口で痒い目元を掻き、一緒に原料室を出た。現場では出来る限り、監視カメラの映る箇所で作業をするように心掛ける。
『やっとまともに目があったね』
思えば私は、霧島さんと目を合わせて話したことがあまりない。正確に言えば、そこまで霧島さんと関わったことが無かった。どうしてこんなことになっているんだろうか?始まりはどこからだろう。
「相沢さん」
思わず声にならない悲鳴をあげた。声をした方向にはきっと彼がいる。振り向きたくはなかったが、ここで言うべきことを言わなければ、エスカレートすると判断し、思い切って振り返る。
「さっきの話しの続きなんだけど」
ニタァという効果音が出そうなくらい、笑う彼の姿。私にはもはや仕事の同僚ではなく、気味の悪い男にしか見れなかった。あまり下手に出過ぎると駄目だ。相手をなるべく刺激せず、断りの言葉を伝えなければならない。
「私は行きません。私は霧島さんのこと全く知らないですし仲良くありません」
「どうして。だって彼氏いないんでしょ…今から仲良くなれば良いんじゃ…」
「好きな人がいるんです。申し訳ないのですが貴方とは出かけられません」
「…」
「それに、私の意思を無視するような人とは仲良くなれません。他の人を誘ってください。ではまだ仕事が残っているので」
適当に会釈し、物陰に隠れた。あまりの緊張感に汗が垂れる。呼吸は荒れ、喉はカラカラだ。気分を落ち着かせるために外へ出ようとしたが、監視カメラがないことを思い出した。
今の発言、言葉の取り方によって霧島さんを刺激した可能性がある。これからは慎重に行動をしなければならない。霧島さんは主に夜勤を軸に働いている。会社にいる歴も、夜勤歴も全てが私より上。恐らく会社のシステムやカメラ等は彼のほうが熟知しているはず。
「取り返しのつかないことを…してしまったかもしれない」
言いようのない不安が襲ってくる。ジワジワと日常が何かに侵食されている気分だ。自分の考えすぎだと何度も言い聞かせては、鼓舞させるしか方法はなかった。動け動け、と心で叫び、やっとの思いで物陰から出る。現場に戻ってしまえば、いつもの調子で仕事をこなさなければならない。毅然と、何事もなかったように振る舞い、事務所に篭った。
(こんな精神状態で現場にいても邪魔になるだけ。事務作業だけでも終わらせよう)
今日は母親の部署は休み。今の進捗状況を考えれば、私は残業しなければならない。そうなれば日勤連中と会うことになる。久々に仲の良い人たちに会えて少し嬉しいが、霧島さんのことが気になってしまう。
邪念を振り払うように、パソコンと向き合い、書類作成を進めようとするが、全く文章が思いつかない。机に頭を打ち付け、原料室での出来事を忘れようとする。不思議なことに人間は忘れようと思えば思うほど、脳内で映像がループするようだ。仕事どころではなくなってしまった。
「よっ!!」
項に冷たいものを当てられ、驚いて飛び跳ねる。悟が自販機で冷たいコーンスープを買ってきてくれたようだった。どうしてこんなに寒いのに冷たいコーンスープを買ってきたのか分からないが、とりあえずありがたく受け取る。いつもなら将生さんが来るはず。珍しいこともあるなと思いつつ、2人で作業を進める。
2時間くらいだろうか、作業を分担し、話すことなく書類を作成し終えた私達は、冷えきったコーンスープを飲んだ。やはりトウモロコシは私の天敵だ。味がどうしても受け付けない。
「ていうか聞きましたよぉ〜。雨谷さんと出かけるみたいですね」
思わず口に含んでいたコーンスープを吐き出しそうになる。誰にも言ってなかったはずなのに。
「雨谷さん、よっ……ぽど美咲さんと出かけるの楽しみにしてますよ。いっぱい甘やかしてあげて下さいね。男は何歳になっても女性に対しては甘えたいんですから。あ、これあげますよ!何事も準備は大切ですからね!!」
悟が私に手渡してきたものはスターバックスの紙袋。こんな時間に営業しているわけがなく、重さからして軽すぎる。私を驚かせるためになにか仕掛けているかもしれない。疑心感を抱きながら、紙袋の封を開けた。
「…」
「じゃーん!!超有名なゴムですよ!!これめちゃくちゃ薄いし、女性にも優しい作りになってて、痛みとかも緩和されるみたい!!特に摩擦がダイレクトに伝わって…」
真新しい避妊具。どうしてこんなものを持っているかということはさておき、悟が何を考えているか、私でも理解出来ない。彼の情熱的な夜の営みを、冷静に聞いていられるほど私には余裕がなく、申し訳ないが全て聞き流してしまった。
とりあえず、頭を整理するために、一旦避妊具を机に置き、コーンスープを一気飲みする。再び避妊具を見つめ、首をひねった。
(どうして悟はこんなものを渡してきたのだろう。しかもこれレギュラーサイズじゃないよ、ビ、ビックって。え、え??男の人ってお互いの大きさ語るの?それとも悟の…止めだ止め。考えるだけ無駄だ私。まずは落ち着け、バカ)
「なんかごめん。そこまで動揺するとは思ってなかった。でもセックスするかもしれないし」
「はぁ!?そんなのありえない!!」
「いやマジマジあるかもよ。理性抑えきれなくなって流れに乗ってそのままセックス」
「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきからセックスセックスって。そういうのってお付き合いしてからじゃないの?」
「美咲さんだってそろそろ卒業したいんでしょ?その歳で処女なのもレアだし、やっぱり初めてが自分だって分かった瞬間、男って燃えるんですよ。ましてや雨谷さんの場合、美咲さんが処女だってことも、彼氏作ったことないことも知ってるから、自分色に染めたいはず。あの人意外と独占欲凄いし。だから雨谷さん側からしてみれば、絶対手放したくないはず」
悟の考えについていけずただただ混乱するのみ。処女だってことは言った記憶はない。彼氏を作ったことはないという言葉から、処女だとバレてしまったのだろう。自分の軽率な発言から、このような事態を生んでしまった。
会社全体に自分が処女だと、自らバラしていたと気が付き、頭を抱えるしかなかった。今更ではあるが、課長の言葉にも納得できる。
「ほ、ほら、雨谷さんだって、こんな美味しい展開逃がすわけないと思うけど。俺が雨谷さんだったら、ベットインまではいかなくても、次のデートの約束ぐらいはするかな。ていうか、普通気になる女の子じゃなかったら、デートの約束なんてしないから。どうでもいい女の子に時間割きたくないし」
「…」
「ヤバ、美咲ちゃんには早すぎる話しだったかも。オーバーヒートしちゃってる」
彼の言う通り、私の頭はオーバーヒートというよりかは、真っ白に近い状態になっている。真新しい避妊具に悟の「どうでもいい女の子に時間割きたくない」という言葉に淡い期待を持ってしまった。彼がいそいそと避妊具を紙袋にしまったと同時に、事務所のドアが開いた。
「キャアァァ!!」
と、悲鳴を上げたのは私ではなく悟。ここはいつ誰が入ってくるかわからない事務所。皆が入ってくることを頭に置いて話さなければ、彼のように女々しい悲鳴を上げることになる。
事務所に入ってきた人物である、将生さんも驚いた表情をしている。お互いにビックリしあっているようだ。なんだかその光景が滑稽で笑ってしまった。
「どうしたらそんなに驚くんだ」
「いやー…アハハ」
さり気なく紙袋を足元に隠し、スマホを弄る。時刻は午前7時23分。あと30分もすれば課長と日勤の班長が出勤する。忙しくなる前の息抜きのために、インスタグラムを開き、ある俳優のアップロードされた動画を眺める。
「誰それ」
「え、知らないンすか雨谷さん!?三浦春馬ですよ!!良いですよね細マッチョ。俺もサーフィン始めようかな」
「…」
チラッと将生さんを見ると、恨めしそうな目で、画面にいる春馬君を見ている。将生さんは、どちらかというと体格は良いほうだ。背もそれなりに高く、目付きは鋭い。彼に睨まれたり、強い言葉を吐かれでもしたら、大抵の人間は黙るか泣く。ただ残念なことに、ぽっこりと少しお腹が出ているのだ。
本人はかなり気にしており、昔キックボクシングを習っていた私に、筋肉の育て方をよく聞いてくる。酒類は一切摂取しておらず、ぽっこりお腹の原因は間食と炭酸飲料。どちらも人間の空腹や幸福感を満たす魅力的なもの。止めなければと自覚しているが、なかなか止められないのが人間の性。
「フッ」
「え、何で鼻で笑ったの雨谷さん」
「俺と喧嘩しても負けるだろ」
(春馬君と同じ土俵に立とうとしてるよ、この人)
「え、三浦春馬って結構アクションでも有名ですよ。雨谷さんなんて秒でボコられますね。ヘヘッ」
「…」
少し傷付いた顔をしながら、画面を覗き込む彼。イジメたいわけでインスタグラムを開いたわけではない。そろそろフォローしなければ、彼のプライドを遠慮なしに悟が壊していくだろう。
「まぁ…細マッチョは見てるだけで良いかな」
「え、何で!?」
「細すぎると隣で歩くのが恥ずかしい。それなりの体格の人が私は好き」
「だってよ田中。お前みたいなモヤシよりも、俺みたいなムキムキの方が良いんだよ。一生メンヘラ女と付き合ってろ」
「ひ、酷いです!!」
とりあえず彼の尊厳は取り戻した(?)。課長が来る前に事務所を離れることにした私は、紙袋を忘れずに持ち、立ち上がった。2人も壁に取り付けられている時計を見て、深い溜め息を吐く。
「もうそろそろ来ますね。あーあ今日も周さんに八つ当たりされんのかな」
私より7つ年上の
「お前がいつも朝倉さんのこと「チビ」って言うからだろ。アホだなお前」
「夏海さんはそんなこと言っても怒らないのに?てかここの野郎共って、俺と雨谷さん、霧島さん以外って、美咲さんと同じくらいの身長だよね。身長低いくせに、俺よりガタイが良いってどゆこと??」
「そんな低レベルなことで海は怒らないよ」
「へ!?」
いつも定時で帰り、みんなに迷惑をかけてしまう。せめて会議を有意義に進められるように、準備をすることにした。現場の一角にある会議スペースで、もくもくと準備を進める。その間、ずっと将生さんは椅子に座りながら、連絡ノートを見ていた。彼のサボり癖はどうにかならないものだろうか。
「班長会議っていつも何話してるの?」
「くだらないことだよ。納期の期限とか、不良品が流失した工程をまとめたりとか。周と海の奥さんの愚痴とか、子供の話しとか…あとはアパート借りたいから、いろんな知識を貰ってるんだぁー」
「後半仕事と関係なくない?」
「おぉ?珍しい奴がいるな」
欠伸をしながら現場にやって来たのは、周と海だった。周に至っては、ほぼ目が開いていない。朝が苦手な彼にとって、日勤は辛いはず。申し訳ない気持ちになり、2人にコーヒーを淹れる。
「雨谷さん、ちょっと霧島さんに喝いれといて。またサボってるから」
海の指示に将生さんは嫌そうな表情をする。が、黙って現場に戻った。
「…フフッ」
「マジでお前いると便利。雨谷のやつ仕事するよな」
「その言葉は良いことなのか、悪いことなのか…やるときはやるから、雨谷さんの勤務態度には問題はないはず」
2人が椅子に腰掛け、私も椅子に座る。ズズズッと音を立てながらコーヒーを飲む周は、ニヤニヤしながら私を見ている。
「雨谷さんが…やるときはやるからとはねぇ…」
「お前の後ろにずっとくっついてる雛鳥は、いつになったら飛び立てるんだ?ていうか、早く付き合っちまえお前ら」
「付き合えてれば私もこんなに、拗れてないよ」
「馬鹿だねぇ相沢。そんな余裕かましてると、他の女に取られるぞ」
「まぁまぁ。コイツは周と違って、奥手なんだから。だけど周の言っていることは本当だぞ美咲ちゃん。男ってのは誘惑とか、優しくされたら、すぐにそっちに行く。恩もそいつの本当の優しさも全部忘れてな。気が付いた時には、もう遅い。雨谷さんだから大丈夫とか思ってるなら、詰めが甘いよ。手に入れたいと思ったら、何がなんでも手に入れろ。絶対に手を離すな」
海の言葉に少し心が動いた。秘めているだけでは駄目だ。いつも助けてもらってばっかで、私は何もしていない。
「ね、ねぇ…」
「ん、何だ?」
「もし、雨谷さんと出掛けるってなったらさ、私どうすればいい?」
2人は顔を見合わせて、ニヤニヤと笑う。さっきまで開いていなかった周の目は、パッチリと開いている。
「男によって違うけど、俺なら甘えてもらいたいねぇ。特に相沢と雨谷、お前ら仲は良いけどプライベートではあったことないんだろ?なら、俺が雨谷の立場だったら、お前を知りたい」
「同意見かな。食い物の好き嫌いとか、どんな服が好みなのかとか、どんなブランドが好きなのかとかな。あー…ただ謙虚すぎるのとかは止めてほしい」
「それなぁ!!なんかこっちが悪いことしてる気分にならねぇ?俺そんなに威圧的?って」
「そうそう。何でもいいよって言われるのが1番困る。まぁ向こうは向こうで俺に気を遣ってるんだろうけど。適度に意見言ってくれると、こっちとしては助かるよな。意外な言葉で行くところが決まったり…って、大丈夫か?参考になってる?」
嫌われることを恐れている私にとっては、難しい。バレない程度に気を遣いながら、自分の意見を言う。確かに私も、将生さんがどんな服装なのかなど気になる。と、なれば自分も服装などは気を遣わなければならない。ファッションセンスだけではなく、自分の持っているブランドなどの、細かいところまで見られる。
世の女性はこんなにも難しいことを顔色変えずに行っているのかと感動した。同時に間近に迫るデートが少し嫌になる。私が難しく考えすぎていることなどは理解はしているが、頭はパンク状態。
「すげぇ深刻な顔してんぞ。色々言ったが…とりあえず、いつものお前でデート行けば良いんだよ。何も考えるな」
「あっ。でもゴムは忘れんなよ。嫌なときは嫌って言えよ。拒否することも大切だから」
あることを聞こうとした瞬間、名前を呼ばれた。振り向くと、帰る準備を終えた将生さんが、待っている。時計を見ると、いつの間にか将生さんの定時時間である9時を過ぎている。残業は3時間までと決まっているため、私も帰らなければならない。
「お疲れ」
「運転、事故るなよ」
「うん。気を付けて帰るね。お疲れ様」
二人に別れを告げ、将生さんの隣に立つ。
「帰るか」
「うん」
悟は残念ながらまだ帰れない。2時間も遅刻してしまったせいで、定時は11時になってしまっている。私達は悟にも挨拶を済ませ、タイムカードを打刻した。勿論、紙袋は忘れていない。2人で談笑しながら、外に出ると霧島さんが、喫煙所のベンチに座りながら、タバコを吸っていた。
霧島さんは私達を見ている。いつもなら定時ぴったりにタイムカードを打刻し、さっさと帰ってしまうのに、どうしてまだ残っているのか。理由はなんとなく分かる。あれだけのしつこさだ。約束を取り付けるまで帰るつもりはないのだろう。
「こっちで話そ?」
珍しく帰ることを阻止され、私は彼の駐車してある車の近くで話すことにした。先程、海に言われた通り、霧島さんを注意したのであれば、あまり顔を合わせたくないはず。
「霧島が帰るまで話そうか。アイツ、何考えてるか分からないし。そうだ、来週忘れるなよ」
「忘れてないよ。お母さんにも講義に行くって説明したし」
「いい子だ。そうだ、朝飯は抜いておけよ。お前の行きたがってたカフェ、あそこモーニングがあるんだ。一緒に食べよう、たまには息抜きが大切だからね」
彼との会話は時間を忘れてしまう。だから隣に貴方が立ってたことに気が付くのが遅くなってしまった。
「楽しそうだね」
「…」
「雨谷君と美咲って付き合ってるの?」
「今なんて言った」
将生さんの顔が歪んだ。眉がピクツキ、眼差しが鋭くなっていく。「付き合っているの?」という言葉に対してなのか、自分が君付けで呼ばれたことに対してなのか、彼は態度に表していく。握りしめられた拳が微かに震えている。これは怒り心頭の証拠だ。こうなってしまえば、私は誰かを呼びに行かなければならない。
1年前だが、悟が目に余るほど、将生さんを茶化し、本気で怒らせたことがあった。あの時、将生さんは悟に対して「半殺しにする」と忠告したはず。しかし悟は忠告を無視し、将生さんにチョッカイを出した。殺されるのではないかと思うくらい悟は殴られ、文字通り半殺しにされた。ガタイのいい海がいたからどうにかなったが、今は私しかいない。
仮に、私が急いで社内に戻り、誰かを連れてくるとすれば。誰かを呼ぶことは最善だが、すぐに連れてこれる保証などない。それに私がいなくなることで、霧島さんが挑発的な態度を取り、怒りのボルテージを上げてしまう可能性がある。
「お前なんなんだよ。コイツにベッタリくっつきやがって。ストーカーみたいで気持ちが悪い。アンタのその目、気持ち悪いんだよ」
「その言葉そのまま返すよ。美咲の彼氏じゃないんでしょ?よっぽど雨谷君の方がストーカーだ。もしかしてあの噂本当なの?」
(ダメだ、その先は絶対に言っては。あの噂の件で悟はボコボコにされたのに)
「美咲のことはセフレとしか見てないんだっけ?美咲の気持ちを踏み躙って、振り回して、人生めちゃくちゃにしてること、いい加減気がついたら?男として終わって…」
「ダメ将生!!」
自分でも驚くほどの声量で、彼を止めた。止めたかった。将生さんが霧島さんの胸倉を掴もうと左手を動かす。咄嗟に左腕ごと掴んだが、力に敵わず、ゴツンと彼の肘が鼻先にヒットした。あまりの痛さに鼻を押さえながら、その場に蹲った。何やら生暖かい液体が出てきている。手を伝って、真っ赤な液体は止めどなく積もった雪を染めてゆく。
(あぁホント…ツイてないな。将生さん悪くないのに…)
「みさ…」
将生さんは膝を着いて、一緒に鼻を押さえてくれた。私からすれば、こんなに優しくしてくれるのであれば、あれくらいの肘攻撃いくらでも受けてよかった。誰かが駐車場で私達が揉めていることを伝えてくれたのか、周がやって来た。自由人の霧島さんでも頭が上がらないくらいの権力を持つ周ならばこの場を治められるだろう。
「中入ろう、一旦鼻血を止めよう」
「うん。うん分かったから、そんな心配しなくて大丈夫だから。ベンチで休めばすぐ治るよ」
車からティッシュを持ってきて、ひたすら鼻を掴み止血する。車の走り去る音がしたと思えば、周が腕を組んで将生さんの前に立った。周からすれば、朝から面倒を起こした彼に対してご立腹なのだろう。キャンキャンと周が彼に怒っている間、私はボーッと説教が終わるのを待った。
(…霧島さんどうしちゃったんだろう)
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