第5話 濡れタオルの約束
手すりを伝って上る彼女はそっと床に足を揃える。
タイルに湿った足跡を付けて、無言で彼女は歩く。
色々聞きたいことがあったが、なぜか声を出そうとすぐにはできなかった。
唐突に彼女は、自分の後ろ首を何かいじるそぶりを見せる。
プールキャップから彼女の髪の毛が少し見えたと思うとゆっくりとキャップを外した。彼女の流れる黒髪が一本一本艶やかに映る。
絶対にとまでは言わないが、間違いなく湧いた疑念はCM映像のような情景を見せられても消せなかった。
俺は俺に近づいてくる彼女にようやく声を出していた。
「……どうして君は会おうと言ったのに会ってくれなかったんだ? てっきり、最初の登校の時に会いに来てくれると思ってたんだが」
ペタペタと静かに室内に響く足音。
今はタップダンスの靴音よりも、緊張感があった。
「それに関しては間違いなく私が悪いわ、本当にごめんなさい」
彼女は、俺の前まで来ると頭を下げる。
優等生だからできる姿勢の良さとでも言うのだろうか、綺麗な謝罪だった。
けれど、俺は別に頭を下げてほしいから言ったわけじゃない。
「謝罪は別にいいんだ。事情はいくらでもあるだろうから……」
「けれど、私の気が済まないわ」
「いや、頭を下げさせるつもりで言ったんじゃない。他の人に場所を聞いても会えなかったから偶然でも、全然会えなかったのはおかしい気がしたんだ、だからその理由を教えてもらえたらそれでいいから」
自分が抱いた疑念を、俺ははっきりと口にする。
すると彼女は、そっと頭を上げた。
「…………普段の私は、他人にはなるべく敬語でいるの。普段の口調じゃ貴方が周囲に怪しまれてしまうでしょう?」
さらに彼女は俺の疑問を増やす言葉を投げる。
「それは、そうかもしれないが……別に問題はなかったんじゃないか?」
「貴方は敬語口調じゃない私を知っているだけじゃなく、私の秘密も知っているのに?」
つまり、つい口を滑らせてしまったらを
……俺的にはおしゃべりすぎるわけでもないと思うが、俺と彼女は出会ったばかりだ、信用したくてもしようがないか。
彼女の判断は確かに正しいのかもしれない。
「だからやっぱり、登校時に校門前で待っていてくれなかったってことなのか」
「ええ。もし待っていたら、校内で会話を一回もしてない私たちが他の人には奇異の目で向けられるでしょう? それは、貴方にとっても都合が悪いこともあるはずだと、勝手に判断をさせてもらったわ……自然に会話をするなら、貴方が自分からここに来てもらうしかないと思ったの……それとこれだけは、どうしても聞きたいの」
「なんだ?」
「貴方の名前、
「そうだが、なんで知ってるんだ?」
「小さい時から水泳部に所属していたから貴方の噂は聞き及んでいたわ。貴方の外見を見た時、絶対そうかという確信が持てなかったのもあったから、とりあえず今日の夜にでも会うようにさりげなく話そうとは、思っていたのだけど」
「……俺のこと、どこまで知ってるんだ」
「中学の大会で優勝したこと、その後に足を骨折して水泳部を辞めたことも」
「……だから、か」
つまり、夏の時期の今、中学時代に水泳部をしていたから気まぐれで水泳部のプールに来るのは違和感がない、もしくは入ろうと思って部活をしている生徒に声をかけるのもおかしくはない……と言う意味か。
確かに、見ただけだったら噂の人物かどうかは、すぐ合点がいくというわけでもないだろう。
いじめられるとかまでは頭に入れてなかったとしても、確かに俺が動かなくては彼女に対して他の生徒が疑念を抱かれることは一瞬でもあることにはなる。
それを回避するための策だった、だから彼女は放課後に会うことにしようと考えた……ということか。
俺よりも頭が回るんだなと感嘆すると、そんなことないわ、と彼女は自分の髪の毛をいじる。
「それにしても、暑いな」
屋内プールで制服でいるからか、それとも炎天下の太陽の紫外線がわずかに窓から差し込んでくるせいなのか。
俺は襟元を掴んで風を入れると、彼女は急に顔を両手で隠してから慌てるように後ろに向いた。
急な彼女の行動に、俺は一旦体に風を送るのをやめた。
「……どうした?」
「な、なんでもないわ」
「そうか……それで、君は
「……プールバックの名前を見たの?」
彼女はこちらを振り向て、俺が言おうと思っていたことを先に言われてしまった。優等生だからか、勘も鋭いんだな。
「ああ、悪い。わざとじゃないんだ。女の子の物をじろじろ見るのはいけないのは爺ちゃんから教えられたんだが……ごめん」
「い、いいえ、気にしないで」
「ああ、それから水野さんって呼んでもいいか?」
「水野、でいいわ。私もその……青崎くんと呼んでもいいかしら」
「ああ、構わない。これからよろしく頼む。水野」
「……ええ」
水野は濡れた髪の水滴を頬に伝わせながら、そっと微笑む。
……水に滴るいい女、とはよく言ったものだ。
「……それより、暑いんでしょう? タオルとかで体を少し拭いたらいいんじゃないかしら。濡れタオルで体を拭くと涼しくなりやすいのだけど」
「さすがに部員でもないのにプールのシャワー室とか使う気にはなれないんだ、親友も待たせているし……今日は妹とプールに行く予定はなかったから、タオルは持ってきてないしな」
「じゃあ私の予備のタオルがあるから、私がシャワー室で濡らしてくるわ。さっと体を拭くくらいは問題ないと思う」
「悪い、頼んでもいいか」
「え、ええ。少し待っていて」
彼女はそういうと、着替え室に足早に行ってしまった。
……女の子の前で、制服のシャツのボタンを取ったり、風を体に送る行為は、何か女子にとってはあまりしてはいけないことだったのだろうか。
でも夏だからと言ってしまえば自然な行動だとは思うんだが……うん、見苦しい物を見せてしまったのかもしれない。
確かに、女子はそういうのが機敏だと千種が言っていたはずだ。
それが、今のかまではわからないが、次からは気を付けよう。
「お待たせ」
彼女は、女子側の入り口から片手に濡れたタオルを持ってきてくれた。
俺は急ぎ足で向かってくる水野に注意する。
「あんまり走ると滑るぞ」
「大丈夫よ、心配するほどのことじゃないわ――――はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう……なんか悪いな」
水野は俺に濡れタオルを手渡してくれた。
俺はすぐに首周りを拭うと、すぐに拭った部分が冷えていくの感じた。
これなら、千種に会いに行く前にサイダーを買う必要もないな。
「気にしないで、明日にでも返してもらえればいいから」
「ありがとう。助かるよ。水野は将来、気遣い上手ないい奥さんになると思うぞ」
「……からかわないで。それと、私の秘密に関してのことだけど」
「なんだ?」
水野は苦笑いすると、ようやく一番話したかった本題に触れる。
ある意味この話をするために来た、という感覚にいた自分としては急がすつもりはないけれど妹が危ない目に合わないで済むのかくらいは知りたい。
「今日の夜、海上海岸で話をしましょう。学校は人の目があるし、噂好きな子がいたらすぐに広められてしまうわ。ここで話すのは危険よ」
「……わかった、それじゃあ俺はもう帰るな」
「ええ」
俺は必要以上に水野を咎めず、すっと引く。
慎重そうな彼女に、少しの違和感を抱くが表に出さないことにした。
俺は水野に背を向け、中央の入り口である扉を少し開けてから、横目で彼女を見る。
「……とりあえず水野、今後はお前に会ったから水野って他の奴の前で呼ぶことは問題ないか?」
「? 別にないと思うけど……」
「そっか、よかった。友達にさん付けして呼ぶのは、どうも苦手なんだ」
「……まだ、会ったばかりのようなものよ?」
「お前の秘密を共有してるなら、もう友達でも間違いじゃないだろ? 言えば方便、って奴だ」
「―――――――貴方、」
「それじゃあな」
俺は水野の言葉を最後まで聞かずに扉を閉める。
本来なら、彼女の言葉を最後まで聞かなくては行かない気がしたが、彼女にかけた言葉が少しだけ恥ずかしくなった自分としては早々に親友の元に向かいたかった、というわけだ。
波留人は一度、プールから出ると、プールよりも暑い日差しが体に当たる。
「……? 千種、いないな」
学校の校門の前で待っているとばかり思っていたのになぜかアイツはいない。
俺の親友様はどこにいったんだ? 即座にスマホを取り出して、ラインで千種に尋ねた。内容はもちろん、今どこにいる? と確認のメッセージである。
「……来ないな、しかたない。探しに行ってやるか」
数分待っても来ないので、自分から探しに行くことにした波留人。
もう学校の外に入るのはわかっているので、とりあえずグランドの方へと歩みを進める。グランドには、夏の日差しを耐えながら真面目に部活動を行っている陸上部の誰かに千種がいないか確認することにした。
一人の女子が、膝に手をついて呼吸を整えている姿が見える。
汗を流す健康的な肌は健康的で、そのダイレクトなダイナマイトボディを誇る巨乳には、一年生の中でも目立っているのだとかなんとか。
走るのに邪魔にならないようにの配慮なのか、焦げ茶色のショートカットの彼女には見覚えたがあった。
彼女は
「鈴村ー、ちょっといいか?」
「え? ……あ! 青崎先輩! どうしたんですか?」
顔を上げる鈴村は明るい琥珀色の瞳を俺に向ける。
部活で忙しいはずの彼女は、どんな相手にも優しく接するいい子である。
犬っぽいから犬姫、というあだ名かもしれないという説が出ているが……まあ、一部では昔の偉人である織田信長の妹からも来ているとか、色々とあるが。
まあ、純粋に鈴村は犬っぽくてかわいいとは思う。
恋愛対象的な意味じゃなく彼女の人格を評価してという意味で、だ。
「ああ、千種を探してるんだが、どこにいるか知らないか?」
「千種先輩ならさっき学校の中に戻っていくのを見ましたよー!」
「アイツめ……わかった、ありがとう。部活頑張れよ」
「はい!」
満面の笑みでブイサインする鈴村に軽く手を上げて俺は彼女のいるグランドから去る。千種も千種だ、たぶんトイレとかそんな理由なんだろうけど、とにかく一度学校に戻って、玄関近くのトイレへと歩いた。
扉がないから、普通に親友様がトイレで手を洗っている姿を目撃して、思わずため息が出てくる。
「千種……こんなところにいたのか」
「お、ハルちゃん。どうした?」
「お前が校門の前で待ってるって言ったのに、いなかったから探しに来たんだろ?」
「おー、そっか。悪ぃ、悪ぃ……っとと」
千種は水で洗った手を、シャツで拭きながら慌てて俺のもとまでやってくる。
「よっしゃ! 行こうぜ! 波留人!」
「……ああ、行くか」
飛行機雲が水彩画に見えるあの青空に伸びていくのを見ながら、俺は親友と一緒にゲームセンターまで向かった。
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