第3話 人魚の君
数学の宿題を何とか終え、シャーペンを机に置く。
椅子にもたれながら、天井を眺める。
「…………今日も行くか」
後は特にすることもないので、いつもの日課である散歩を行うことにした。
不由美はもう寝ているだろうから、音を立てないように外に出る。
夜の街灯は白く光って虫が寄ってくる様はまるで花の蜜をたかりに来た蜜蜂のようだ……まあ、実際寄ってきているのは
今日も
どこまでもどこまでも広がる静寂の中に響く波音が、耳によく馴染む。
怪我はもう治っているし、泳げると言えば泳げる。
それでも、泳がないのは高尚な理由とかはない。
ないのだが、やっぱり不由美や千種にうまく説明ができないのだ。
……兄貴としてカッコつけられるような、そんな理由じゃないからだ。
夜風が頬を撫で、潮の香りが鼻を掠める。
……ああ、やっぱり落ち着くな。
「………………?」
どこからか、歌が聞こえる。
俺の魂を連れて行こうとする魔性さのある歌声は、とある海外の伝説を思い出させる。
確か、ローレライというのがあった。
けど、それは確かライン川を通る船の人々を川底に沈めさせると言う話だし、今の自分は船に乗っているどころか、携帯以外は手ぶらだ。
ああ、もっと、近くで聞いてみたい。
そう思った俺は海岸線近くにある階段を下りて、周囲を見渡す。
「…………あ」
遠くの岩の上に、歌っている人魚がいた。
色白な肌からは生気は感じられず、人と同じ生物とは到底思えない。
耳のヒレも、腕のついたヒレも、まるで普通の人魚とは程遠い。
けれどその唇から零れる歌が、彼女の声が、何よりも俺の心を打って離さない……人生で人魚の歌声に釘付けになるという状況を初めて体験した瞬間だったと、この時の俺は思った。
しかし、俺は彼女の顔をどこかで見たことがあった気がした。
「水色の君……?」
そう、プールで髪ゴムを渡した少女と、目の前の人魚が瓜二つだったのだ。
呟く俺に人魚は伏せていた目を開く。
開かれた瞳が、俺の心を捕らえようとする。
キュル? と、喉を鳴らしたように聞こえてハッとする。
俺は慌てて、岩陰に身を隠した。
「なんでまた隠れてるんだ俺は……ん? なんだこれ」
俺の隠れている岩の近くに、綺麗な水色のプールバックがあった。
もしかして、あの人魚の物か?
名前が書かれてあって、水野瑞帆と名前のところに書かれてあった。
みずの、みずほ? で、合っているのだろうか。
「って、ことは……人間なのか?」
「…………ふぅ」
俺は岩陰から顔を僅かに出して、人魚の様子を確認する。
人魚は砂浜まで尾ビレを器用に使って砂浜を上がっていくと、徐々に人の体に形を変える。
泳ぐことに特化した尾ビレと青白い手が、すらりとした健康的な手足に。
尖った耳のヒレも、小さく愛らしい耳に。
伸びる黒髪も、俺と出会った時と同じ長さになった。
彼女は自分の素肌を晒す。裸体を恥ずかしがるように胸元に手を当てて、隠しながら俺の方までやって来た。
まずい、この岩より奥の方は海だから隠れようがない。
「……え?」
彼女は美しい肌を俺に見せて、硬直する。
服を取りに来ただけの彼女にとっては、ここに俺がいるのは間違いなく予想外だったろう。
俺も、当然言葉を
「……え、っと」
「…………!! キャ―――!!」
「ま、待ってくれ!!」
俺は慌てて、彼女の口を塞ぐ。
彼女は俺の手に強い力で掴みながら、言葉にもならない声で抗議する。
「ん-! んんー!!」
「待ってくれ、ここで叫んで困るのは君もだろ? 他の人に見られたら困るのは俺もなんだ。分かったら一回、分からなかったら二回ん、って言ってくれ」
「…………ん」
彼女は、理解してくれたのか静かに頷く。
俺は息を吐いてから、彼女の口元から手を離す。
俺は彼女の肩にポンと軽く手を置く。
「俺はそっちにいるから、着替えてもらっていいか」
「…………わかったわ」
彼女は短く同意する。
俺は岩の向こうで背を持たれながら、彼女は岩陰の方で着替えを始める。
服の擦れる音を静かに聞きながら、俺は待機する。
……不由美とは流石に違うから、慣れないな。
どうしても自分の同年代そうな子だから、余計意識してしまう。彼女が靴を履くのに取り掛かったのか、ぱちんと音がしてから彼女は声をかけてきた。
「もういいわよ」
「そうか、よかっ――――」
思わず、ドキッとした。
「どうしたの?」
プールの時のように髪が濡れているのもあって耳元の髪を指でかけるのも、
それ以上に彼女の瞳がまじかに見れていること、とか。
月明かりでさらに青みを帯びた瞳が、さらに神秘的に見える。
制服姿も似合っていたけれど、清楚な青色のワンピースが青色の海とツーセットで余計美しく見える、というか。
ああ、でも見ず知らずの相手に、綺麗だと褒められても嬉しくはないだろうな。
うん、少し冷静になれた気がする。
「いや、なんでもない」
「…………このことは誰かに話すつもりなの」
「いや、それはないが……」
「どうして?」
「こういうのは、逆にバラそうとするヤツは
「……本当に?」
「ああ」
彼女は目を伏せがちになりながら、髪をいじる。
「…………貴方には、大切なものを拾ってもらった恩があるわ。けれど、簡単に他人を信用するのはよくないという家訓が私の家にはあるの」
「家訓、か」
「ええ、だから明日にまた、私と会ってくれる?」
「別に構わないが……」
会う理由が浮かばないが、もし会わなくて不由美が大変な目に遭う可能性があるかもしれないなら、俺は迷うことなく会うことにした。
兄は妹を守る義務があるな。
「後、質問なのだけど……貴方学校は?」
「
「クラスは?」
「…………2-A」
「……そう」
彼女が同じ学校なのはプールの時に知ってはいるが、俺のクラスを聞き出す必要性は特にない気がするのだが。
「じゃあ、また会えるわね」
彼女は、微笑んだ。
意味深にも見えるその笑顔の意味は流石の俺でもすぐには理解できなかった。
その意味が理解できず、俺は彼女に問いかけていた。
「おい、待ってくれ。どういう意味なんだ?」
彼女は俺に背を向けて帰ろうとしたので呼び止める。
「……明日になってからのお楽しみ、その時に名前を教えてあげるわ」
彼女は軽く手を振りながら、夜の街へ溶けていった。
まさかの出会いが自分にやってくるとは、思いもしなかった。
……そういえば、彼女うちの学校の生徒なのは間違いないが、後輩か? それとも同級生? 先輩? なんて、頭の中で悶々としてきたので家に戻ってからサイダーの残りを口にしてから眠りについた。
もし、彼女を見つける前に帰っていたら俺の人生はもっと平々凡々な日々を過ごしていたと、未来の俺は彼女に語ることだろう。
――――俺にとっての透明の
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