第4話 TOYOTA スプリンター

 始まりを明確にすることは大切だと思う。小学生の頃、26インチの自転車を買ってもらった。駅の南側から500メートルくらい離れた場所に大きな自転車屋がある。友達が格好いい自転車を持っていたから、自分も欲しくなってしまって両親に頼み込んで自転車屋さんに連れて行ってもらった。



 お目当てはマウンテンバイクだった。自転車というのは、小学生には想像できないくらい値段が高い。自転車というのは、大人には想像できないくらい値段が高い。僕は店頭に並んだ自転車の値段を見て、どうすれば買ってもらえるのか、こんな金額は僕の家庭にはあるんだろうか。そんなことを考えていた。マウンテンバイクが欲しいという僕の言葉を聞いていた両親は、店頭に飾ってあるマウンテンバイクの値段を見て、あまりその周辺には近づかないようにしていたように思う。



 しかし、それでも両親は僕に「どれが欲しいの?」と聞いてくれた。

 僕は困ってしまった。


 僕が答えられないでいると、店員さんが声を掛けてきてくれた。そうだったと思う。ぼんやりとした記憶だから確証はないが、何かを言われたあと僕はすごく嬉しくなって「これが欲しい!!」と両親におねだりした記憶がある。今度は両親が困ってしまって「これにしなさい」と一番安いモデルを指さした。なぜだかとても悔しかったことを覚えている。


 当時、父が乗っていたのはTOYOTAのミドリっぽいスプリンターというセダンだった。中古で購入したらしく相当ボロだったが、当時は何も気にならなかった。



 スプリンターのトランクはそんなに大きくない。もちろん自転車を詰めるだけの大きさはないため、無理やり積載することになった。閉まりきらないトランクを紐で縛って動かないようにする。僕はスプリンターからマウンテンバイクが落ちないかがとても不安だった。スプリンターはトランクの状態を車内からでは確認できない。僕は後部座席でずっとトランクの状態を確認していた。ちょっとした段差でトランクが空いてしまうような気がして、自宅まで少しの時間を緊張しながら過ごしたのだった。


 一万数千円もするマウンテンバイクは超贅沢品で、家に帰ってからの記憶はあんまりない。もしかしたら、店員さんに唆されて欲しくなったモデルを買ってもらえなくてちょっとだけ不貞腐れていたのかもしれない。

 ただ、これだけは覚えているのが「一生乗る!」と息巻いていたこと。

 そして、「どこまででもいける」という高揚感だった。


 26インチのマウンテンバイクはかなり大きくて片足しかつかないし、サドルも一番下まで下げていたと思う。ギアがついていて前が3枚、後ろが6枚の18段変速。カゴはついていなかったが、自転車屋さんにボトルホルダーをつけてもらった。ボトルホルダーにつけるボトルもセットにしてもらった。ライトは発電式のライトではなく、電池式だが取り外しができて盗難対策にもなるというものを選んだ。


 変速が付くということは坂道も楽々で、マウンテンバイクだからどんな道でもスイスイ進めてしまう。そんなイメージだった。


 実際はそんなに簡単に進むわけじゃなく、進むためにはその分を漕がなくてはいけないのだ。ちなみに水分補給用のボトルにジュースを入れてはいけない。ただただぬるいジュースが出来上がるだけ。

 それでもノンストップで坂道を登ることができるし、ボトルも凍らしておけば多少は冷たいままだ。飛躍的に行動範囲は広がった。


 それからしばらくして…

 多分、夏休みだったんじゃないだろうか。そんなに暑かった記憶もないから、いつもの週末だったかもしれない。結局、ボトルを凍らせておくことにも飽きてしまっていた僕は、水道水をそのままボトルに詰めて家を出た。どこまでも行けると思っていた。まず目指したのは川沿いのドラゴン公園だった。僕の家は山間に位置している。バブル後の新興住宅地って感じで、開発されているけど坂道ばかりだった。


 下流に向けて川幅は広くなり、河川敷では草野球ができる広場なども設置されている。少年野球の練習や試合なども行われているようだった。行きは下りが多く、順調な滑り出しで、目的地のドラゴン公園には30分くらいで到着した。整備された河川敷は走りやすく、川沿いを進むのはとても気持ちよく、とても楽しかった。ホルダーから得意げに取り出すボトルで飲む水道水は格別に美味しかったし、飲み切った水はドラゴン公園で補給できた。


 その時感じた心地よさや、達成感をよく覚えている。


 始まりはそう。その原風景にある。

 今は、何かに達成感を覚えることはない。なぜなら何もなし得ていないからだ。

 心地よさの隅には罪悪感すらある。なぜなら対価を知っているからだ。


 自転車でどこへでも行ける気がしていたあの頃を感じたかったのかもしれない。ともあれ、自転車でどこかに行くことを決めた。これがはじまり。


 それからしばらく、行き先を考えたり何が必要かを考えたりすることが楽しかった。どれくらいの期間をかけて、どんなことをしようかなんかを考えることで僕は満足していたわけだ。しかし、考えているだけでは物事は進まない。結局、行動に移さなければそれは現実には起こり得ないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る