朝川渉

 村田正一は小料理屋の一室で女と向かい合って座っていた。テーブルの上には和の小皿や塗り物の碗が並んでおり、正一の家族と向かい合わせに座っているのは春子と、春子の両親だ。誰も料理には手を付けておらず、正一の母と春子の父親が話し込んでいる。父は休日には珍しくスーツを着込んでいて、母はわざわざこの日のために着物を着付けてきていた。最近はじめた習い事で正一の母は和に目覚めたようで、家の中でも少しずつ正一の母晶子の着物の帯留めや衣服、手作りの皿などが増えていっている。それに関して何の意見も持たない父は、冠婚葬祭の時に身につけるスーツを着て座っている。

 今回設けられたお見合いの席で、暫くは両親たちが話し合うのが続いた。初めての顔合わせだったから、正一も春子という女がどのような性格でどのような身なりをしているのかは気にかけていた。話が進むにつれ、向こうの父親が皆食事をはじめるよう促し、そのために場が少しくだけた。それから正一は、自分の向かいに座る女が少しずつ料理を箸で運ぶ動作を見ながら、誰にも悟られない様に観察してみる。おそらく、自分たちは道で会ったとしても、周りの人間や会社にいる事務員の女と少しも区別が付かないのだろうなと思う。春子は洋服を着ていた。紺色のワンピースに白いカーディガンを羽織っていて、カーディガンの縫い込みが複雑になっているのを正一は横目でちらりと見る。春子の家庭は裕福そうだった。それによく見ると顔立ちもそれほど悪くないし、体付きも悪くはない、と思った。


 政治家のSっているじゃない、と母がキッチンから投げかけて来る。うん、と父が返事をする。あの人の親戚に当たるんですって。母がそう言い、皿を拭いているようだった。ふうん、と父が答える。

「でも煎餅屋なんだろう」

「ええ」

 母はまだ続けて、けど、まあまあ有名みたいよ。サークルの奥さんがたも知っているって・・・いやあね。私たち、貰い物に縁がないのよねえ・・・お父さんの仕事柄かしら。

 ぱらり、と新聞をめくる音。

 でも、今は看板だけみたいよ。ほら。今はインターネットでいろいろできるじゃない。そこから、煎餅じゃなくっていろいろな物を売り出しているんですって。

「いろいろなもの」父が答え、新聞をめくる音が聞こえる。


 正一は魚の身を口にふくむ。・・・その日の集まりは2時間弱に及んだが、二人は促されて少し話をした程度だった。母親の親戚が持ち込んできたという縁談に、正一はもともと気が進まなかったのである。未だ三十にもならない正一は、周りの同級生が結婚していってもとくに焦りも感じていなかったし、身を固めることに関しては彼女から持ち出されても、縁談の話が湧いたとしても何の実感も湧かないでいた。ただ、母親からしつこく言われるうち、付き合いで一度会って、電話で断ればいいのだと思っていた正一も、向こうから再度会いたいという連絡が来て、その受話器を持ちながら母が自分へと笑いかけてきたときは案外乗り気になっていることに気が付いた。

「ねえ、どうするの」母が聞き正一が「別にいいよ」と応える。

 別にって、あんた、と言いながら、母がする苦笑いを正一も受け流した。


 朝、起きてから一階にある食卓へ正一が来る。

「まあた、まだ寝巻き」

 母がキッチンの方に体だけ向いたままでいい、けどそれが、何の感想でもないことを知っているので「うん」と応える。

 ダイニングテーブルの椅子を引き、「父さんは」と母に聞くと「町内会の用事」と応える。

 朝食に、焼かれたトーストと目玉焼き、それからヨーグルト飲料が入ったグラスがかたんと音を立てて運ばれる。今日は休日で、明日春子さんと会う約束をしている。

 母もこれから用事があるようで、もう服を着替え化粧も済ませている。それから「ミセス」という雑誌にでも出て来そうなほどくるくるに自分の髪の毛を巻いているのを正一は、目玉焼きを箸で切りながら見るともなく見ていた。

 自分たちは何を話すんだろうな。…正一は考えながら、なんとなく、会社にいる女子社員のことを思い出し、共通の話題になるようなテレビや映画の話題について、最近無頓着でいることに気がつく。会社員の正一は現在仕事が忙しく、読むのだと言ったらビジネス書だったり、英語のニュースばかりである。テーブルの上に置いてある新聞紙を手に取り、パラパラとめくってみる。

 映画の時間が載っている欄をチェックし、それを目で追いながら、自分達が映画館にチケットを持ち入り込む様子を思い浮かべて、そのどれもにそれほどの興味が持てないことに何となく苛立ちを感じていることに気がついた。映画に夢中になっていたのは小学校の高学年の時だったっけ。あの時は、近くにいとこが未だ住んでいて、貸してもらったビデオや、教えてもらった本を借りに行っては自分の部屋の床に座って読んだりしていた。あれは、夏休みだった。——正一は思った。たしかそうだった。いとこは半袖に短ズボンを履いていて、だから床に自分達の足がくっつくので、あつい、と何度もどちらからともなく漏らした事を思い出している。秋も冬もあっていたはずだけど、何故かあの時の時間だけ鮮明に自分の中に残っている感じがする。

 昔はもっと夏が暑かったのにな。根拠もなく正一はそう思い、いまが6月の半ばに差し掛かる頃だということをカレンダーを見て確認する。

 母が自分に何かを話しかけてきている。多分、自分がこれから行く習い事のことと、父親の帰って来る時間のことでも話しているんだろうと思い、うん、うんと生返事をしていた。正一の母は、昔っからとても口数が多いのである。それは、学校のこと、習い事のことから、家に看板を持って来た隣の奥さんに対する感想やら、行事で起きたトラブルに対する教師への評価やら、テレビドラマに出ている主役の奥さんが週刊誌に対して送った返答やら、ありとあらゆるものに対して実直な意見を持ち合わせているもので、母はまたそれに対する感想を正一や父親に話す事がその一連の行為と繋がっているとかたく盲信しているようだった。夕食時、それから休日の昼食をとっているとき。母が、父が何の気なしに話した職場の人間関係の話をもっと掘り下げるのを見ていて、首すじが痒くなる様な気持ちになっていた。だから、正一の家というのはがんじがらめに区画化された家具、思い出、そういうものにぎゅうぎゅう詰めで配置されている――そんなふうに時々小学生の正一は思った。が、それも正一が幼いときだけで、高校にもなる頃には隠れて自分のやりたい事をやるようになっていた。

 今日、父は夕方まで帰ってこないようだった。正一は、父が母の頑なさを受け入れ、受け流せるつがいの役割で存在するのだと学生の頃はずっと思っていたのだが、退職してから分かった事だが、そうでもなかったようである。


 次の日、春子さんと会うことになったのは再び小料理屋だった。前回、一家総勢で会った店よりはくだけた店で、大人数ではなく二人きりでテーブルで、外を眺めながら食事が出来るようなつくりになっている。ここを予約したのは春子の兄らしく、正一は春子に先立って店員に案内されながら、席へと着く。

 料理が運ばれて来る。

 正一は春子の話を聞きながら、今日も春子の身なりを見ていた。それからいくつか質問をしてみた。今、読んでいる本はあるか、映画は見たか、それから、学生の頃は何に夢中になっていたか…すべて昨日考えていたことだった。春子は映画は見ていないと言い、本は先輩に勧められたものをずっと持ったままにしてあると応える。前回自分たちが初めて会ったのは昼間だったが、今回は二人とも会社を終えてから来たので酒を注文していた。しぶる春子に、正一もそれを進めたが、気づけばそれが空になっていたので苦笑した。

 会計を済ませ、二人で外に出ることにした。大通りを歩き、人がごった返す中もまれるように歩き回ったあとで木のしげる公園の横の路地を歩いてゆく。電車の駅までは春子を送りとどけ、また次に会う約束をしようと正一は考えていた。スマートフォンをポケットから出し、話しながら連絡を確認している。春子が、歩きながら「あ」と言い、公園の方を指差してた。


「ついたわね。街灯」


「ああ、本当だ。丁度付いたみたいだね」


 見ると、公園の中にある街灯が一斉に付き、点滅しているのが目に飛び込む。

「ここ、あまり来たことがない。木がすごく多いから、あまり中に入らないのよね」


「ふーん」


 正一は、木が多いことと、中に入らない事がどう繋がるのかを考える。

 春子がふらふらと入り口から公園内に入り込もうとしているので、正一も何となく、止める事なくそれに付いてゆく。そうしながら、ちらと、春子という女が未だ自分にとっては正体不明であることを、春子の後ろ姿を見ながら思う。

 中に入り、自分からベンチに座ったが、少し話した後でまた、ふたたび立ち上がって春子は公園から出ようとする。二人が何となく見た場所には街灯が立っている。遊具からは離れた場所で、ここは幾人かが座れるように考慮されたベンチが街灯を取り囲むようにして配置されていた。

 街灯のそばには、数本の木が群れるようにして立っていた。何の木かは分からないが、落葉樹の葉は闇が降りているため濃い緑色が照り返って見えていた。その、木の幹はまだらになっていたが、視線を這わせて上へと移動させて行くと、小さく、虫が群がっている場所があり、正一はそれを見ながら春子を追いかけるように外へと出た。

 その日は別れ、次は春子の言うように映画を見に行こうということになった。

 正一は、新聞の中を開き、映画の時刻表を眺めていた。特に予定は無いが、何となくチェックするようになっていた。流行りものにはなんとなく流れがあるようで、ホラーもの、純愛ものが交互に出てきてはブームだなんだと取り上げられている事に気が付いた。春子は洋画が好きなようである。正一はそれをさがす。何度か会ううちに、段々と二人は帰りも遅くなって来ていた。が、高校生や大学生のとかのように母や父親に注意されるわけでもなく、正一も自分たちがどうなっているのかを告げることはしなかった。


 自分たちは婚約することにした、と一週間前母に告げると、母は驚きもせずに親戚に連絡をしていた。決められた縁談、正一はそれを思いえがきこんなふうに段階が進むごとに母親があたふたと動き回るのだろうと考えて正一はちらと父親の様子を見た。父はいつもと変わらずに新聞を読みながら煙草を吸っている。

「辞めたんじゃないのか」正一が問い、父が「ん…」と返事をする。「たばこ。」

 すると母が、奥から出てきて、手を拭きながらいう。

「辞めたわよ。わざわざ病院にまで行ってお金払って治療したのに。けどあれも、上司がってお父さん言ってたじゃない。それが今、退職して、また周りにいる人達が吸っているの見たらこうなの。ほんとにしょうがないわ。」

 母は治療のことを思い出して本当に腹を立てている様だった。正一はふーんと言い、着替えるために二階へと向かう。


 数ヶ月か経つ頃には、春子と何度かホテルへも行くようになった。もう結婚式の日取りも決まり、上司や同僚、友人にも春子のことは告げていた。初めて自分達が寝たのは食事のあとのバーで春子が酔っ払ってしまった時のことで、自分達はあらかじめ決まったような仲だったから、先へ進ませることは容易だったのだが、思っていたよりも春子の方が身が固かったのである。何度か、段取りを進めようと正一が話しをするのを、春子が上手く変えて行ってしまうのを正一はいつからか楽しんでいた。もしここで、直ぐにホテルに行くようなことがあったり、思わせぶりな態度をされたとしたら自分は春子に対して幻滅していたのだろうか。

 昔の彼女を思い浮かべていた正一は、春子と寝る時には思い出さなかった。自分達は、何度か繋がり、春子は飲み街に何軒も建つホテルの一室で何度もいった。春子はいままでに寝た女よりもよく濡れ、感じやすいようだった。

 一度そうなってしまうと二人は会うたびにそうするようになった。ある時はホテルで、それから、正一の出張先で待ち合わせて、それから、車の中で。春子はそのたびに自分よりも早くいってしまい、正一がだまって片付けている時は恥ずかしそうにそれを待っていた。正一も何も言わなかったが、そうしているとき春子のことをまるで何か小さな動物のようだと感じていた。自分が力を入れ過ぎると死んでしまうのではないかといつも正一は、上になり春子を見下ろしながら感じていた。

 結婚式の日取りは二ヶ月ほど先で、準備に追われるようになった頃にも二人は会うたびに必ずそうしていた。

 ある時ー正一の出張先の駅で落ち合うと、春子が何か紙手袋を下げて来ている。そのまま帰る事なくホテルへ泊まることにした。春子も、自分も腹を空かせていたが、自分は適当に何か買って部屋で食べようと思っていたからコンビニへ寄った。自分が食べ物を選んでいる間じゅう、春子からの視線を感じたが、部屋に入り上着をハンガーにかけている途中で気が付いた。春子は手に自分の店の煎餅を下げて来て、それをいつ開けようかと思案していたようだった。正一はそれをベッドの上で珍しそうに開けてみせ、「そんなに、しけってないね」と言う。春子は笑い、そのまま正一が服を脱がせた。その夜、ベッドの上で正一と抱き合ったあとで「いきやすいの。遊んでる訳じゃなくて」と告げ、以前の恋人との事を明かしたのだった。


 7月になり、結婚式の日取りが近づいてきた。正一の母も初めは色々と忙しくし、衣装合わせについて行くだの、親戚が家に挨拶しにくるだのと話していた。ある時は春子を呼び出し、二人で何かを話したりなどしているようだった。次に会った時、春子が正一さんのお母さんからいろいろ聞いたといい、笑っている。嫌な予感がし、いろいろってなに、と聞くと、「あなたが、保育園でいつも泣いていたっていうこととか」という。正一はうんざりしたが、春子が笑っているので「昔のことだから」と応える。

 日にちが近づくにつれてだんだんと母も大人しくなって来ていた。(慣れて来たのかもな)と正一は考える。母のブームも去ったのかもしれなかった。家にいる時もそれほど自分に話しかけて来ないのも、準備に参加させてもらったり、春子から直接話を聞くなどして、満たされてきたのかもしれない。正一も、特に止めることもなく、春子とどうするのかを成り行きを見守っていたのだった。もしこれが、見合いではなく恋愛結婚だったとしたら、春子ほど裕福な家庭ではなかったら母はいったいどうしただろうか。今、話題になっている女優の子どものように男関係のトラブルや借金を持っていたとしたら母はどんな反応をしたのだろうと思う。

 ――自分が幼い頃によく泣いていたという話は知っていた。母が、親戚と会う時などによく話をするのでその度にうんざりしていたのだが、実は、正一はほとんど覚えて居ないのである。が、一人っ子だったせいもあり、泣くことで自己主張する癖が抜け切らなかったのだろうと正一は考えていた。

 ―どうしたいの?

 母はよく、正一に問い、その、顔の近さが恥ずかしかった事は覚えている。男なのだから、そんな口の聞き方を皆の前でされると、正一自身が舐められる。それなのに、優しすぎるせいか、それを言えない。周りにも、何がしたいのか言えない。自分がただ、でくのぼうのように感じてしまう瞬間、それは肌身から離れないままでよく覚えている。

 数日間の夏の暑さに正一の父親も半袖にハーフパンツを履いて、昼食後の時間を過ごしていた。昔は犬を飼っていた。それからメダカやらザリガニを飼っていて、自分はそれを可愛がっていた生き物の水槽が置いてあった玄関の靴棚を見ている。


 正一と春子の結婚式には大勢の人間が来た。正一自身は緊張している間にあっという間に過ぎたような気がした。あとになってから、あのとき、「料理も何を食べたのか覚えていない」と言うと、春子は信じられないと言って笑う。春子は朝早く起きて休日の朝食を作っている。スクランブルエッグとトースト。昨日は和食だった。正一はトーストを齧る。

「ああ、暑い。」

「本当、あっついな。」正一は応える。

「ねえ、お隣さんに昨日聞いたんだけどこのマンション、まだ一室残っているそうよ」

「へえ、そうなんだ」

「うん。やっぱり、角部屋から埋まって行くのね。ほら、子供が産まれても気にするじゃない。」

「ああ。」

「外…」

「うるさいな。」

 外からは鬱陶しいほどの蝉の声が聞こえて来ていた。

「本当」

 春子はベランダの方へと歩いてゆき、窓を少し閉める。

「あっつい。けど、わたしは都会に住んでたからこのくらいが、いい」

 春子は言い、ダイニングテーブルの正一の隣りの席へと座る。

 その日春子は正一の母と着物を見に行く予定を入れて居たらしかった。何かと、これから着る機会も増えていくだろうからと母が春子を誘ったそうで、母は一週間のうちの習い事や付き合いのスケジュールをこういう事に関しては必ず優先させて自分達の世話を見たがるだろうと、それは子どもの頃から中においても参観や行事などのために母が用立ててくれた事への思い出とともに思い出されたのである。運動会での弁当、それから正一の発表会、クラスの集まりに用意する手料理。その日、皆が集まって一体何をしたのか、何を考えていたのかはほぼ覚えて居ない正一だったが、何故かその事ばかりよく記憶している。

 春子は以前は必ずワンピースを着ていたが、自分達と会う時必ずスカートを履いてくる。母も同じで、人が集まる場所は必ず派手な格好をして来る。

 正一が会社へ着くと、いつも通りの机に書類の束が置いてある。昨日出した筈が、いくつか訂正する場所があるらしく、それに目を通していくと目の前を事務員が通り過ぎていった。正一は電卓を叩きながらそれを見、自分も半年前迄はこんな風に見えていたのかもしれないなと考え、ただ、それがもたらされたのがごく自然な営みでは無かったことを不快に感じているのだと気がつく。

 その不快感は、言葉では言い表せなかった。毎日洗うシンクが汚れている事に気付き、それを掃除しない時も、それをすぐに忘れた。あの時写真で見た春子に対する印象は今では大分変わったが、あの後で話した親戚と母親が長く話し込んでいた事だけを思い出し、何故そういうことを自分は気に留めないのだろうとうっすらと考える。あの時、春子の両親と会った時、それから兄のことを聞いた時何故、自分はその事を春子に深く聞こうとしなかったのか、その考えを辿っていくと、自分はこれが、いまだに完璧なお見合い結婚という箱の中に入った営みで、それが見られていると感じているのかも知れないと一瞬、思う。それが不快感なのだろうか。自分は春子のことを大切に感じていないのだろうか、と考え、それが今迄付き合って来た異性に感じた不可解さと、どれほど違った重みを持つのか、よく分からなかった。

 母は毎日春子のいる自分たちの家へ電話をかけてくる様だった。


 正一はデスクに付きパソコンを起動するのを待ちながら春子のことを考えていた。結婚してからすぐに仕事を辞めた春子は家の片付けをし、それから習い事にでも出かけるのかも知れない。一週間、こんなふうに同じようなことを繰り返し続ける。安い場所をと求めて郊外になってしまったマンションは、けれどもうすぐ近くにスーパーが建てられる予定になっている。開発は不十分にしか進んでおらず、まだ自然が多い。しかしそれは日中響き渡る蝉のことのように、願って居たようなことばかりでは無い。風呂場に大きな蜘蛛が出たり、寝室に蟻が湧いたりするのを自分が処理している間、春子もそれを見守って居たが、何となく不穏にはなるのだった。自分たちが予想もしなかった事がもしかすると起こるかも知れない、そう言った事をどちらも未だ、口にはしなかった。

 ただ、休日になれば――正一の父や、母が眺めていた光景と同じように自分もTシャツにハーフパンツを来てあの中で寝転んでいるのだろう、と正一は普段は考え、一ヶ月先、一年先、それから10数年先も、そうするのかも知れないと思う。そうなるころには春子もいまよりも太り、お互いの子供ができれば自分たちはどこにでもあるような家庭を手にいっぱいになって抱えるようになる。


 正一はいつも通りに仕事を終えて、帰ろうと支度を終えたあとで席を経つ。それからスマートフォンを見る。連絡が幾つかあり、そのうちのひとつは以前の恋人の美咲からだった。正一はロッカーの中で折り返してみるが、すぐに返事が来るので苦笑する。

 ―変わっていない、と思う。

 何度か連絡を折り返しているうちに、何故か会う事になった。

 美咲は、以前からこんなふうに押しが強く、いまも若いのに有名企業の開発部長をつとめている。待ち合わせた正一は駅前で顔を合わせる。大学の頃からの顔馴染みだった自分たちは、積もる話が山ほどあった。以前春子と話した料理屋の名前を美咲が出した事には驚いたが、自分達の関係はもう既に枯れていたし、正一はその事を特に気にも留めない。美咲は正一の歩く先を足早に歩き、まるで自分の手を引っ張って行くような感覚がしていた。

 そこで野外が見える席に座る。そこから園外が見渡せるようになっているのである。春子と見た時はまだ青々と茂っていた木が、一年をめぐりまた青みを増して来ているのを正一は、ビールを飲みながら見つめる。美咲は、正一と話しつつ、自分達のしている仕事は仮想通貨や株とよく似ていると言う。

 ――でも商品開発をしているんじゃないの?部署、変わってないよね?と正一は聞く。

「うん。変わってないよ」美咲は答え微笑む。

 料理をよそに話す美咲顔を見ながら、正一は、その美咲の開発したという商品のひとつを、まだ付き合っているときの美咲から教えられ、コンビニで売られていたそのスナック菓子を食べもしないのに買ってきた時のことを思い出した。美咲は正一とは同い年で、だからどんな風に考えているのかわかり過ぎて兄弟のように感じることがたまにあった。美咲が、正一がかばんから取り出した袋を見ながら笑い転げた時、あの時—自分たちはまだ二十を過ぎたばかりだったのだ。——正一は傷ついたのだった。

 ううん。確かにそうだけど、皆と話して何かを作って、それでそれが流通するのを見て、また次の日にはそれのゼロからの繰り返し。

 わたし、大学の時の時間ってなんだったのかなって考えるんだよね。わたしたちって、学んでいたんじゃない…ただ、その…教えられていただけ?

 …

 正一はビールを飲む。

 いまはいろんなことが変わって来てるみたいだけど、染み付いているよね。身体に。答えが、どこかにある、っていう。新しく入って来た子もそう。ずっと人の顔色を窺ってるのよ。けど今、朝起きて、わたしコーヒーとかも飲むようになったの。なんのためか分かる?もっと、もっと忘れさせないためにだよ。

 ――なにを?

 感覚を。美咲は、料理で出てきた白身魚にナイフを入れた。

 …わたしたち、掘って、掘って、掘って、それがどうなるかなんてまるで知らないんだけど、それが楽しくてやってるの。

 掘る?

 正一は、言い方が面白かったので微笑みながら答える。ビールは前回来た時と同じでよく冷えていた。

 うんそう。美咲が応える。酔っているのか、笑みを浮かべている。いつも通りに、この食事が終ってからカラオケに行きたいと言い出すのかもしれない。

 ――それで、周りの人達がコンビニでそれを買ってるのを見る頃にはもう、次のシーズンのマーケティングをしているの。

 へえ。医者の不養生みたいだな。

 そうなの。ヒットしたものに関わった人はボードに名前を書き出されて会議でもそれを皆の前で言われて…わたし時々、株やってるみたいじゃないって思った。

 ―株?

 そう。まだ、そこに形がないから。

 けど、形になってみると案外すぐ飽きちゃったりするっていうこと?

「まさか。」

 ふうん。でも今は、色々と厳しいんじゃないの?ほら、色々制度も変わっているでしょう。

 正一が尋ねると、美咲は外を見たままで「うん。まあね。でもそれが、やる気にさせるから」と応える。正一の仕事とはまるで違うかもしれないけど、本当にこんなに外の太陽がまぶしいと感じたことがない。

「コーヒー飲みすぎだろ。」

 正一が笑うと、美咲は眉を片方だけしかめる。

「そーゆーこと言ってんじゃないのよ」

「あはは」

 二人はなんとなく、終わりかけた料理をいじっては酒を口へ運んでいる。


「結婚はしないの?」正一が問うと美咲は「うん」と応え「そういうこともあるけど」とつぶやく。

 ふーん、と正一は返事をする。

「別にしてもいいけど、良い人がいない」

「ああ、そう」

「待ってる」

「いい奴を引くのを?」

「引くとかじゃない。………順番が回ってくるのを待ってる。」


 忙しいんだな。美咲は。

 正一は言い、それは皮肉ではなく、あちこちを注意深く見回しながら自身の結婚のことまで考えなければならない女性へ労りの気持ちを含んでいたのだが、美咲は正一を一瞥してから酒を飲む。





 美咲を駅まで送ってから、正一は以前春子と通った公園の前を通りかかった。


 その前を通ると、以前春子と歩いた時のように丁度街灯がついた。ただ、今日は人がまばらに歩いており、ベンチも人が座っていた。正一はそこを通り、トイレへと歩いてゆく。いきおいよく用を足し、それが終わってから、またもと来た道を戻り、そこに佇む街灯をふと見あげて見た。そこにある数本の幹の一番太い木は樹液が出るのか、沢山の虫が群がっているのである。

 正一はそれを見上げる。——いったいどんな虫が群がっているのだろうと判別しようとしてみる。

 美咲くらいの年になると仕事をしていても結婚や子供の話なんかも会話のついでにされるようだった。自己紹介を終えて、ちょっと仲良くなりかけの趣味とか将来性とか探り合うみたいなときに必ず聞かれる。と美咲は言う。正一は自分も仕事を覚えたての時は結婚や異性のことなど考える暇もなかったように思う。自分は淡白な方なのかもしれないが、まったく相手の立場を想像もしないでするたぐいの質問は理解しかねると常々感じていた。

「正一もいろいろ大変でしょう。幸せ?」食事の場で、美咲に尋ねられた。


「別に大変じゃないよ」と正一は答える。


「ふうん。なんか、想像がつかない。正一が家庭を持って、奥さんとか子供と接しているとこ。」


 そりゃあそうだろう、と正一は思うが、答えずに返事の代わりのように美咲の方をちらと見る。





 春子は週末母と買い物へ行くらしい。正一はその予定を聞いていたのだが、何を買うためなのかをすぐに忘れてしまった。土曜日、正一はソファに座りながら本を読み部屋で過ごしていた。春子はさっきから洗濯物をしている。朝から、30度を超える気温のためじっとりと汗をかいていた。

 外からは鳥の声が聞こえて来ることもあるが、一週間前からは蝉の声が日中は鳴り響く。正一は春子の方を見る。それから、立ち上がり自分の部屋へと向かう。

 日曜日、春子が朝早くから支度をしているのを見ながら、ふと自分も実家へ行こうと思い立つ。実家へ帰れば車も無料で洗車できるし、まだ片付けも済んでいない。

 春子の用意が出来るのを見計らって、正一が「送っていくよ」と行くと、春子は驚いた顔をしたが喜んだ。駅まで春子を送り届けた後で自分は家へと向かう。

 家のドアのカギを開けて中へと入る。玄関には父の靴が置いてあり、声を掛けると居間から返事が帰って来る。

「なんだ。来たのか」

 父が言い、正一がうん、という。台所で水を注ぎそれを飲んでからすぐに、二階の自分の部屋へと向かい、正一はそこにある箪笥やら机の引き出しを開けてまわり記念日に親戚からもらった万年筆やら参考書のたぐいを選び積み上げていく。


「ああ、そうだ」


 洗車を終えてから家の中へ入ると、父から声を掛けられる。「春子さん、忘れて行ったみたいだぞ」


「ああ。」正一が受け取る。それは皮製の春子がいつも愛用している財布だった。


 正一は不思議に思うが洗車を終えると父に別れを告げてまた自分の車に乗る。運転席に座り、春子の小さい財布のチャックを開けて中を覗いてみるが、そこには春子の保険証や運転免許証、いつも使っているスーパーのクレジットカードも入っている。

 待ち合わせ場所に着いてから春子は驚いていないだろうか。正一は運転しながら思う。

 それともわざと忘れて行ったんだろうか。・・・・・

 まるで、母に誘拐されたみたいだな。正一は思い、笑おうと思うが特におかしくもないのだと思った。

 クーラーの効いた車内は気持ちがよかった。

 家に帰ってから、家にも取り付けられるようにコンセントの場所を確認しておこう、と正一は思う。

 この地域では、夏は2週間足らずでいつも終わってしまうのだが、今年はやけに暑い日が続いていた。




 仕事が終わり、家へ帰ると春子が玄関へと小走りで歩いてきた。

「正一さん」いつもとは違う様子で、正一の目をしっかりと見ている。

「ただいま。」

「お母さんが…」


 春子の話によると母が今度入院することになったのだそうだ。「連絡したのに」と春子はいい、正一は「ああ。」と応えながら、そんなの来てたっけな、と思う。

 母が体調を崩すのは今にはじまったことじゃなく、子供のころから神経症持ちだった母は、よく知恵熱を出したり体に吹き出物を出したりしていたそうである。

 それも不思議と病院へ行くと治るそうなのよ。1週間2週間もなんとなくで続いていた腫れ物が、病院へ行って診察してもらったとたんに次の日なくなるって、信じられる?

 結婚したばかりのある時、母との外出から帰って来た春子がそう正一に話しかけて、正一が返事に窮しているとそのままキッチンへと背を向けてしまったのだった。

 ・・・話を聞いてもらいたいんじゃないかな。正一はそう言いかけて、「春子に」と言おうとしたそれを飲み込む。ああ、そうだ自分も、父もそれがずっと嫌だったのかもしれない。


 ――「ごめん。同僚と飲みに行ってから、会社の連絡に紛れ込んでたんだ。



 あった。本当だ」


「そうなの。」


「うん。」


「・・・でも、急を要するのじゃないのよ。前から決まってたって。昼間、お母さんから連絡が来たの」


「そうなんだ。悪いね。俺に、して来ればいいのに」


 春子が笑う。

 そのときのことを正一は既に忘れていた。それからすぐに繁忙期に入り、一年前、二年前のように週末ゆっくりと過ごしていたような日々がまるきり変わってしまっていた。正一は家へ帰ると会話もそこそこに春子に食事を出してもらい、風呂に入った後は携帯をいじってソファで眠ってしまうか、部屋に入って仕事の続きに手を付けるかするかで、そういうときも時々春子の様子をうかがうことはあったが、春子も近所付き合いや友達と出歩くのに忙しいようで、独身同士の付き合いのように正一が家や春子にかまけない事についてはうるさく言ってくるようなことはなかった。正一は単純にそれが楽だと感じていたようである。


 相変わらずの蒸し暑さと蝉の鳴き声は聞こえていたが、電気屋からの連絡は未だに入らない。春子にしても、子供じゃあるまいし既に慣れ切っているだろうとたかをくくっていた。

 一月後、仕事が立て込んでいるときにまた春子から来ていた連絡を数日見過ごしてしまい、正一はそれを出張先のトイレの中で見つけたのだった。

「ごめん。見たよ。」


「なに?」

 正一は夜遅くに帰宅し、いつも通りの春子の背中に話しかける。


「母さんのこと。」


「・・・」


「ごめん。忙しくて、気が付かなかった」


「今日は検査で、がんの疑いが見つかったんだって」春子が振り向いて告げる。

 ふうん、と正一は答え、一瞬春子が眉をしかめるのを見て取る。


「でもまだ、分からないんだろう」


「そうだけど。」


「まあ、でも・・・年が年だから。」


「検査入院するんですって。」


「へえ。付き添うの?」正一が尋ねると春子が頷く。大変だろうかと思うが、自分も貯金をするために働いているのだから、と思い何故か口をつぐむ。けれど一瞬、それでは足りないかと思い「家系でもあるのかな」と呟く。

 春子が正一の顔をいぶかしんで見上げる。

「そうなの?」

「多分」

「ふーん…」

「うちの、母親の兄弟だったかな。確かいたと思うよ。でも、まだ分からないって。それに、なったとしても・・・母さん、保険とかは入ってるのかな」

春子はキッチンで支度を続けている。そう言いながらリビングのテーブルに載っていた新聞をめくっていた正一もテレビのリモコンを探し,それからテレビの電源を入れる。

「そういえば」と春子がいう。

「ん」


「こんな時になんだけど。ねえ、空けておいてくれた?週末、一緒に映画に行こうって言っていたでしょ」


「うん」

 正一はすっかり忘れていた事を思い出した。それから、春子が行ったあとで手帳で予定を確認し、胸を撫で下ろした。








 週末、二人で映画へ行き、その日は食事へも行くことにした。


 春子はまだ妊娠して居ないが、その事を二人で話したりもしない。ただ母親と春子が何度か電話越しに会話している様子を見た様子では、何か話したりはしているらしい。

 正一は、春子と食事しながら子どもができた時のことを考え、そうすれば自分のこの家庭も父や母と過ごしたものとそれほど変わらなくなるのかもなと考えていた。春子が会話の途中で笑う。テーブルを挟んで向かい合い、自分達はメインをナイフで切ろうとしていた。春子はワインを飲み、自分はビールを飲んでいる。この日、二人は結婚する前のようにホテルに行くことにした。春子が場所を変えてみたいと言い出したので、正一がそれに異論なく承諾したのである。

 夫婦になってから春子と営むのは週に二度といつのまにか決まっていた。大抵、日曜日と水曜日で、その日は正一も用事をなるべく入れないようにしている。きっと春子も子どもが欲しいだろうと思っていた。

 ホテルはたまに泊まるものだからと奮発したので、エレベーターでたどり着くまでには今までなかったほどの時間を要した。部屋のベッドの上に乗り、春子は正一の上に股がって来た。家でならそんなことはしなかったので正一は驚き、久しぶりだからだろうか、なぜか激しくもとめてくる春子を見上げる。そうして正一はその暫く後でいってしまった。

 …

 二人でその後もだらだらと部屋で過ごしていた。夜の12時を周り、けど家には、誰も待っている人間もこどももいない。

 春子は、横になっている正一の隣りに寝転がる。それから正一の顔をまじまじと見つめる。「ねえ、マンションの最後の部屋が埋まったみたいよ」


「ああ。」


「先週だったかな」


「ふうん。そうなんだ」


「うん」


「…」


「向かいの奥さんが話してた。若い夫婦だったって…私たちと同じかも知れない」


「そうか。」正一は応え、あそこで昼間春子がどんな風に過ごしているのか、自分は普段はあまり考えることがないなとふと思う。


「最上階にしてよかった」


「うん」


「あなたのお母さん」


「ん」


「様子見に行った?」


「ああ。検査が終わったら・・・来週、多分行くよ」


「ふうん。」


「でもさ、子供でもあるまいし」

 正一はうっかりそう言い、春子との関係性をなぜか今更のように思い出す。

 子どもでもあるまいし、・・・・

 なぜかそれは自分の胸のなかで響き、たしかに、所帯を持っても変わらない女はいる、と仕事の上司たちの顔や、飲み会でしたときの下世話な話を思い出しながら考えていた。

「そういえばさ」

「なに」

「子供とかは欲しくないの。春子は」


 春子は正一の隣で座り込み、「うん」と呟く。

 これだけしているのに、何かの兆候でもないものかと思うが正一はふと「どうして」と尋ねる。

「授かりものだから」


「ふうん・・・」


 春子は横でもぞもぞと動いている。「ねえ」

「あの家にしてよかった、って思ってる?」


「ん?マンションのこと?」


「そう」


「ああ。そうだな。」


「あそこ、すごいの。正一さん知ってる?蝉の声、クーラーが無いと耳がへんになりそう」


「ああ…」


「だって、知ってる?蝉の声って、ひっきりなしなのよ。キリギリスやコオロギだって、それから鳥だって一度鳴いたら少しやむじゃない。それなのに、蝉って間髪入れずにずーっと、鳴いてるの。あなたなら耐えられる?」


「いや…」


「クーラー、他の店探しに行こうか?」

 正一は言い、たしかに、部屋に寝に戻るのではなくずっと居て、死ぬまでいるのだと考え続けるのには耐えられないかもしれないと思った。特に、春子のような女には。

 …

 …



 やっとクーラーを取りつけるのは晩夏に差し掛かる時期でちょうど母の検査入院も終えたころだった。母は医者の予想通りの癌だった。てっきり病気になるのだとしたら不摂生を普段から注意されていた父親の方かとも思っていたので、誰にとってもそれは意外なことだったようだ。母方の兄弟が数人見舞いに来たあと一度正一が仕事の合間をぬって病院へ行くといつもと変わらない様子で母は正一に話しかけてきた。


「これ、おいしかったわ」


 母はそう言い、それは春子でも正一でもなく、どこかの友人が持ってきてくれたという菓子で、それから恥ずかしさを隠すためなのか検査のことや、自分の病気のことをまるで冒険譚のように語る母親に、それから医者や看護師の仕事というのをどこか取り違えているような様子に正一はまたうんざりしきって病院から出て来たのだった。


「東村さん」

 正一が会社で名前を呼ばれ,いつも通りに顔を上げると事務員がそこに立っている。つい先ほど母の病院を出て部署へと戻ってきたばかりだったが、事務員が促した方を見ると自分が先日出張先で会った取引先の社員が立っていた。正一はすぐに立ち上がり、そちらのほうへと小走りでかけて行く。

 その日はすぐに会社へ戻り、見舞いの時の話を春子にするようなこともしなかった。春子の方は会話から察するに週に一度くらいは行くようにしているらしいが、今日は病院へ行ったあとに友人と会う約束があるそうだ。

 ことり、と目の前のテーブルの上には事務員が淹れたコーヒーが置かれ、向かいの客がそれを飲むのを正一は見守っていた。…これからも、多少なにかに足を取られることはあったとしても、それが大事になるって事なんてないのだろう。自分達だって明日になってもずっと健康で居られるとは限らないのだし…それに―自分はきっといま、充実しているのだとたしかに思う。

 正一はまつ毛におりて来る陽の眩しさに目を上げる――会議室の上から、何かがたくさん零れ落ちていくように見えた。それは、キラキラとブラインドが煌めく陽の光をなげかけて来ているのだった。それがテーブルに落ち,それから自分達のカップの一部にも光を投げかけており、そう考えている間正一にとっての自分の過去を思い出させ、そうだとしてももう若くはないとも改めて思うのだった。・・・そういったことはきっとこの先もいくつかあるのだろう。同窓会のメールや、それから美咲のことや、母のことや・・・けれど、他のだれかは気づかなくともきっと自分たちに必要なものは選び取って来れている。

 正一は春子の顔をなぜか思い出しながらそう思った。


 春子は沸いた湯の音を聞き、小走りで駆け寄るとコンロのスイッチを切る。それからしばらくして、正一が背中を向けて座るテーブルの方へと持ってきたコーヒーテーブルの上へ置く。


「俺たちって、子供ができない夫婦なのかなあ、もしかして」


 正一は笑顔をつくって春子へと尋ねる。

 てっきり返事をするかと思った春子が何も応えないので正一は、春子の方へ顔を向けて見る。

 春子はじいっと向こうの窓を見つめている様だった。そこには何も無いのに、まるで何かがあるかの様に正一には見え、春子の見つめる先を正一も見ようと一瞬する。

「うん。そうね」


「・・・」

 正一はそれが、春子が怒っているわけではないのだと感じる。

「ん…」


「でも別に、気にしてない。・・・お母さんは最近、そのことに夢中みたいだけど」

「そうなの?」

「ええ。」


「ふうん・・・」


「知らないの?」

「ん、なに?」

 気が付くと、春子は自分のことを凝視しているので、正一はまた、面倒くさいことを言ってきているのかと思いうんざりする。

「お母さんはね」

「ああ、いいよ別に。気にしなくて」

「・・・」

「あの人いつもそうだから。自分が何を言ってて、それで相手がどう思ってるのかなんてひとつも考えられないような人なんだよ。それに、趣味がいっぱいないとすぐに退屈するような人なんだからさ・・・」

 春子は黙って聞いている。

「本当に。昔からずっとそうなんだよ。それに他人のことがまるで自分のことみたいに思ってるみたいなとき、あるだろ」


「ふうん。確かにそうね」

「そうだろ」

 正一は新聞をめくる。

「・・・・で、おかしいのがさ。それが自分の興味がある部分にだけなんだよな」


 そう言うと、春子も思わず笑う。正一もその声を聞きながら笑う。


「気にすることないよ」


「うん」








「ねえ。何の意味もなかったわ」春子はそう言って正一の前で笑う。


 母は退院し、しばらく薬物治療で様子を見る方針になったそうで、そうなるとさすがに父も出歩くのを辞めて数時間の治療のための送り迎えをやらされているようだった。父が母の世話をいくらか見るようになったせいか春子は以前よりも身軽になり、そのことが気楽なのか、それともいくらか寂しいのかもよく分からなかった。

 春子は一度稼働したきりでそれから電源すら入れられないクーラーを見上げては宝の持ち腐れだわ、と毎日のように言い、けれどやっと居心地がよくなった部屋を満足げに掃除していた。正一もそれを見て安堵し、仕事のメールをチェックする。

 それからしばらくして春子は友人の勧めで産婦人科へ通うようになったのだが、もともと本人がそれほど乗り気ではなかったおかげでたった一度の受診に腹を立ててすぐに通わなくなったようだ。そうなると今度は正一の方がどうしたものかと思い始め、もしかすると自分がどこかおかしいのではないかとトイレや、酒の席で酔いが回ったときなどにうっすらと考えるようになった。

 春子の誕生日の月が近づき、いくら繁忙期と言え新婚だった正一は春子からもせっつかれてホテルで食事をすることを決め、忙しさの中春子が取ってくれた予約に従って食事へと連れ立って行くことになった。


「わたし、考えるの。あの部屋にいて、お母さんが入院してから」


「ん・・・」


 春子はちらりと正一を見る。「ねえ。あなたって毎日、何を考えて生きてるの

 ?」


「え、なに?」


 つい先ほどまで機嫌よくしていたと思っていた春子から漏れた言葉に正一はただ戸惑っていた。目の前には既にコースの料理が運ばれて来ており、正一はパンに手を付けたところだった。休日のレストランにはカップルや夫婦連れが沢山食事をしに来ており、空いている席はちらほらと見えるくらいだった。


「わたしね・・・思ったの。世の中に居る人たちには、許せないことをいっぱい持ってる人が居て、それが人生の行く先を決めてるんだなって」


「もしかして、母さんのこと?」

 正一が尋ねると、春子は黙っている。


「わたし、何がしたいのか分からなくなっちゃった。」


「・・・」

春子はスープの片手を当て、スプーンでそれをかき混ぜているように見えた。


「春子は、どうしたいの」


「だから。」


 正一は春子の顔を見ようとするが、すぐにそこへ店員が現れ、騒がしい客の声が響いたせいで、一瞬どういう表情をしたのかよく見えなかった。

「だからね。」

 春子は怒っているのだと思った。自分の帰宅が遅いことや、連絡を返さなかったこと。

「春子。」


「わたし、私たちが手にするのはこれまでは普通の家庭なんだと思ってた。」


「ああ。でもまだ、若いんだし。それに春子だって・・・何かまた、仕事でもしてみたらいいんじゃない?」

 正一は笑顔を作って春子に問いかけ、春子は黙ってスプーンを口へと運ぶ。




「俺も、そうだよ」

「・・・」


「俺たち、あの料理屋に座って居て、何度か会って。それで一緒に食事をした時のきみと、ごく当たり前の家庭を築くんだって、何となく考えていたな。・・・君はもっと、いい暮らしをしてきたのかもしれない。だからちょっと驚いたかもしれないな」


「そんなこと」春子は言うが、正一は目を細めて笑う。

 だが春子は笑わずに食事を切り分けている。正一は家庭生活に疑問など感じたことはない。けれどすこし不安に思っているのはこれから先のことよりも自分達の・・・それも大分腹が出てきていた自分の体は学生時代のように健康なままで、それから自分たちは本当に相性が良いのだろうかというたぐいのことだった。先日の飲み会で上司から聞いた話を思い出してみる。不妊治療には信じられないほどの金がかかるらしい。自分にはその金や、苦しみの対価としても、ただ単に子供を授かるだけという事実をごく当たり前のこととしてやり過ごせるのだろうか。正一は濃い目のワインで食事を飲み込みながら、春子を見る。それから、目の行き場を失い、あらためて外の景色を眺めてみる。

 外の木々はすべて葉を落としきった後で、寂しい庭の様子が見て取れた。正一は先日薄手のコートから脱ぎ変えたばかりで、春子も新調したばかりのベージュのコートを椅子にかけ、その手前に濃いブラウンの皮のショルダーバッグを置いている。



「ねえ」

「ん」


「何かの操り人形みたい。わたしって」


「何?」

 正一は戸惑って変な声を出す。「きみが?」



「ううん。なんでもない」

 春子はそう言い、バツが悪そうに微笑む。正一はさして気にせずに口にしたものを飲み下してしまう。



 夜—

 自分たちは久しぶりに酔いが回って、部屋でそれぞれにくつろいだ後でともにベッドに入る事にした。正一は寝間着を着ていたのを上だけ脱ぐが、春子はさっさと自分が着ているものを脱いでしまっていた。

 春子に触れてみる。正一は改めて、記念日だったということを思い出し、冗談めかして「何歳になったの」と聞いてみる。春子は笑って「27」と応える。


「まだ、若いな」


「そんなことないわ」春子は言い、それから正一に唇を重ねる。唐突に外が騒がしくなってきたかと思うと、どうやら雨が降って来たようである。

 ずっと遠くで雷の音が鳴っているのが聞こえる。正一はすぐにそのことを忘れ、これまでの自分たちのことを思い出しながらベッドの上で動く。・・・・・






 気が付くと眠ってしまっていた。正一が目を覚ますと真っ暗な部屋の中で隣で横になる春子の気配を感じていた。自分は裸のままだと思っていたが、いつのまにか服を着ているようだった。


「春子?」


 暗闇の中でなぜか正一は、隣にいる春子に声を掛ける。


 ―部屋は驚くほど真っ暗だった。


 そのせいで正一の声はそこに溶け込み、いったん不安にかられたあとでそれから苦笑する。まるで赤ん坊みたいじゃないか、と思い、とりあえず半身を起こして自分の携帯電話を探していったい今が何時なのかを確認しようとする。それからふと、自分の父親も母親が傍にいるときはなんでもこんな調子だったなと思う。

 だらしなく着た切りだった自分の寝間着を整えていると、隣から「ん。」と思いがけずに返事が聞こえ、正一は隣の春子を見る。

「おれ、寝てた」

「うん」






 春子は返事をすると、横でかたまっている様だった。

「起きてたの?」

「ううん」


「・・・めちゃくちゃ、寝てたよ。俺。もう朝かと思った。」

「疲れてるのよ」

 春子は言い、それからすぐに、ねえ。あなたの、お母さん亡くなったってと言う。


「え?」

 春子は首を振り、お父さんから連絡があったのと呟く。

 正一は一瞬、頭が真っ白になる。つい最近、といっても一月ほど前にぴんぴんしている母と会ったばかりである。風邪ひいていたでしょ、と春子は言い、あれがよくなかったって、まだ分からないけど。そう言い、「じゃあ」と正一は言いかける。


「お父さんは明日でいいって言ってるわ。・・・・」春子はそこまで言うと口をつぐんだ。

 正一は戸惑い、それからなぜか、母と父のことではなく今日一日で起きたことを思い返していた。夜になって食事を取り、店を出て自分達が話した内容を何故か事細かく思い返しながら、そういえば最近は母親のことを思い出すことなんてまるでなかった、と改めて思い、死んだことよりも、それをこの家族のなかで一番最後に聞かされた自分に何かショックを受けているように思えた。正一は立ち上がってから自分を見ているであろう春子の視線を感じつつも、部屋を出て洗面所へと向かう。そこに映る自分の顔をあらためて眺める

 ―酷い顔をしていた。

 最近は忙しさにかまけて自分のことを顧みることもなかったが、疲れと偏った外食のせいか顔にも肉が付き、くまもふかぶかと出来ていた。

 正一は思わず蛇口をひねって顔に水を浴びるように洗い、そうして改めてシャワーに入るために服を脱ぎ、大きな音を立ててバスルームのドアをしめた。

 ・・・


 ・・・



「正一さん」


「・・・うん?」


「あなた、どうするの?」


 ザーザーとシャワーが流れ落ちる音の奥から、春子が自分に向って話しかけているようだった。

 正一はそれに向かって「別にどうも。」と応えてから「明日、行くよ。」と言いなおす。

 シャワーを切り、ドアの向こうを見る。そこにあると思っていた春子の人影が見当たらず、正一は目をこする。

 それでも正一は「行くだろう。春子も・・・」と言い、返事のない時間が異様に長く感じられた。


 ――母親が死ぬ。

 あらためて正一はそれを反芻してみる。そうしてなにか、奇妙な思いにとらわれる。

 自分たちは昨日話した明日に既にいるじゃないか。自分の考えは未だ、春子が映画を見たいと言った時点で止まっていたことに正一は戸惑っていた。

 春子が望んでいる事をやって、共に食事をする。正一が会社へ行き、帰宅する。まるでそれが、ひとつの仕事のように感じていたのかもしれない。そうすると春子が微笑み、夕食の準備をする。毎日、毎日、それを繰り返していて、自分は既に春子がやりたいことをかなえて来てやっている。

「なあ、」

 春子は答えない。

 正一は言われたことを反芻していた。春子が何を考えているのか分からないが、正一は春子と会ったばかりの時のことを思い出していた。

 自分は何を考えていたのだろう。あの公園の近くで見た春子の後姿と美咲の背中が合わせて思い出されるが、それは少しも似ていなかった。


 なにがしたいの?


 美咲か春子、それか、母親が自分に対して訪ねて来たように思えた。

 ―けどそれは、正一はそれに対する答えを持ち合わせてはいない。何時もそうだった。

(子供じゃあるまいし)正一はバスルームの中で笑う。腹の突き出た自分の姿を見下ろしながら、水がちょろちょろと流れ落ちていく先には、夏の盛りに春子が蜘蛛が出たと騒いでいた排水溝があり、今は雨のせいかごぼごぼと音を立てている。そこはいつもいくら掃除をしても黒カビが蒸してくるのだった。

 きっと、まだ誰も、何も知らないのだろうと正一は思いながらドアを開け、誰もいない洗面所に立ち、身体を拭く。そうしてふとさっき、それからあの時ホテルで春子が自分の上に跨っていたのを思い出し、まるでそぐわないその場面が自分や、それから両親たちだけでなく他の家庭というものを形作ってきたのかということに気が付く。

 そうして今は、そこで必死に群がっている自分や、春子や、それから母親はこれまで、まるで木に群がる虫みたいに見えていたのかもしれないと感じていた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝川渉 @watar_1210

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ