第4話
横浜研究所の正面玄関を出る。生ぬるい風が顔を重たく撫でた。車寄せの白い屋根の向こうには暗い空が拡がっている。あれが宇宙なんだって、子供の頃には熱心に見上げたんだよな。
駐車場に散らばる車から、僕は愛車を呼び出す。到着を知らせる電子音がピピピと響く間に、夕飯のメニューを考える。ジュリが帰宅するまでに、残った野菜でスープを作ろう。
第二の我が家、トライアーK300は静かに目の前に滑り込んできた。自宅まで片道25分、大型車で速度は速くないけど、無段階でスーッと上昇して空中でもあまり揺れないのが気に入っている。
母が亡くなった日を境に、泊まり込みの連続だった研究所と母の病院とを往復する生活が突然終わってしまった。僕は混乱して、この車で長い旅に出た。多分、よくある話だ。仕事でも家庭でも人の期待に応えることが僕の仕事になってしまっていて、やりすぎていたから休む必要があったんだと今では考えている。期待に応えられていたかは別として、だけど。僕は思い出を千切って捨てるようにチリチリとした気持ちで地元を離れ、思いつく限りの何もかもを手放すことで整理をつけようとした。
目の前に停車した車の中に、側面のスライドドアから乗り込む。正面には壁付のキッチン、フロントからそこまで車体の三分の二がひとつの部屋になっている。フロントの出窓に向かってクリーム色の二人掛けソファがあり、壁から折り畳み式のテーブルを広げれば食事もゆっくり楽しめる。僕ひとりには充分すぎるリビング兼ダイニングだ。
後方にはシャワーブース、トイレ、そして寝室。寝室は壁から壁まで板を渡してマットレスを敷いた手製のベッドに占拠されている。本当は壁からコンパクトベッドを出せば大人が四人休めるという仕様だが、僕は一人だし一度もそんな風に使ったことがない。
車が自宅を目指して上昇する中、僕はキッチンに立ってコーヒーを淹れ、マグカップに口をつけた。片側の壁を透過設定に切り替えて、今日も見慣れた街を斜め上から眺める。こうして気ままに空を移動して、好きな時間に好きなものを温めて食べて、たった一人で過ごせる旅は良かったな。今でも僕はこうして一人になるだけで、簡単に贅沢な気分を味わえる。僕はこれでいいんだ。
「ジュリ、おかえり。ちょっと遅かったね」
「色々あって……」
帰宅したジュリは、ぼーっとした様子で帰ってきた。上着を着たまま入ってきた廊下、その左には僕が立つキッチン、右の壁には母と僕たちの昔の写真がかけてある。普段通りならそのどちらにもジュリは視線を向ける。いつもと違う様子が気になった。
続きを話さず、ジュリはダイニングテーブルの椅子に脱いだ上着を乗せた。天井まで吹き抜けの居間にある、グレーのソファに座るまで何秒もかけてゆっくりと歩く。壁は透過せずに白くしてあったから、余計にジュリがぽつんとして見えた。
「何かあった?」
尋ねると、ジュリは小さな声を出した。
「爆発」
「また?」
「今度はいつもみんなが遊んでる土手で……」
僕は温めようとしていたスープを置いてソファに向かい、ジュリの隣に座った。ジュリはすっきりした黒い目に少し涙を浮かべていた。
「ケガした人は誰もいなかったんだけど、子供たちの部屋からも警察が集まっているのが見えて、みんな怖がってた。私も今日、家に帰るかどうか迷ったんだ」
「泊まり込みは当番の日だけって決めただろ。また具合が悪くなっても仕方ないんだから」
「わかってる。でも次は誰かがケガをするかもしれないし、私もよくわからなくて」
ジュリの頭に手を伸ばし、僕は真っ直ぐ伸びた長い黒髪をゆっくり撫でた。かける言葉を考えたけど、すぐには思いつかない。
「子供たちには伝えてないんだけど」ジュリの唇は、開く時に少し震えたように見えた。「警察の人が、犯人は人口頭脳の孤児に批判的な人で、菜の花の家を脅すつもりで何度もやってるんだろうって言ってた。だんだん近づいているのはそのせいだって。近くに住んでいるのかもしれないんだって」
「そんなこと言われたら心配だよな」
「きっと近所の人なんだよ。人口頭脳なんていらないって思ってる人、その孤児なんてお金を使っているだけだしもっと要らないって思ってる人がいるの」
「ジュリ、そんな奴がいても理解したり共感したりしなくていいんだ。ジュリはそいつに何もしてないんだから」
ひと息つくと、僕はジュリの頭のてっぺんにキスをした。
「とにかく一旦、夕飯食べて休憩したら。スープ出来てるから」
ジュリは少し顔を上げて、やっと軽く笑顔を見せた。
「ありがとう。いただきます」
「温めとくから着替えてきなよ」
階段を上がっていく細い背中を見ながら、僕はもう一度、とても暗い気持ちになった。この小さな爆発事件は無視できない頻度になってきている。
ニュースを調べると「川崎」や「爆破」というキーワードでいくつもの速報が見つかる。この地域は羽田建設の頃からバイオアーツのファクトリー労働者が多く暮らしているから、その地域性と結びつけてバイオアーツの
人工頭脳の多い地域で爆破事件。注目を集めたがる人たちが、大手のニュースが語らないような彼らの「真相」を主張するために、刺激的な言葉を組み合わせて好き勝手に物語をばらまいているんだろう。
短絡的すぎる。自分の売り出しに精一杯で、ここで暮らす普通の家族が困っていることに気が回らないんだろうか?
***
母の死後、僕が家出をしてしばらくたった頃。
春の風が強く吹きつけてくる朝だった。
高度3600メートルの駐車ゾーンにぽつんと停泊する僕のトライアーには、明け方からずっと細い笛のような風切り音が響き続けていた。車内の寝室でうっすらと目を開き、僕は布団の中でただじっと、その悲しい鳴き声に耳を傾けていた。
もう何日も同じような日が続いている。そろそろもう一度帰ろうと思った。自宅のすぐ裏にあるカードックには顔見知りのエンジニアがいて、笑顔で僕の名前を呼んでくれる。それをまた聞くのも悪くない。
連絡しておいた時間にトライアーをドックへと降下させると、一番若手のエンジニアが笑顔ですぐに駆け寄ってきた。
「片辺さん! お帰りなさい」
「やあ。今日は君だ」
車を降りながら、僕は久しぶりに人と話して笑顔になった。
「どうでしたか、ご旅行は」
「楽しかったよ。今回は短かかったけど」
「ほんの2週間でしたね。到着チェックの完了までラウンジでお待ちください」
言われたとおりに長方形のラウンジに入り、平べったいソファに腰を下ろす。ここから自宅は目と鼻と先だが、僕は自宅とは反対側の丘を見た。様々な背格好の子供たちが数人、ぽんぽん跳ねるように走り回っている。彼らの後ろには、「危ないから気をつけて!」とでも言っているんだろう、妹の姿も見えた。僕は結局、ここへ帰ってくるしかない。
車を預けてカードックを出て、坂道を少し歩いて登ったところで後方を振り返る。トライアーは気持ち良さそうに水を浴びているところだった。白い水滴が空中に煙るように広がり、きらきらと空気を潤している。小さな柔らかい虹がかかってエンジニアの仕事を讃えているようだ。大きく息を吸い込むと、ここの空気には昔からずっと変わらない太陽の味がついていた。
「コウキだ!」
「コウキ、おかえり!」
「お土産は?」
子供の声が近寄ってきて、僕はそちらを振り返る。
「ばか、コウキの旅行は仕事だよ」
「コウキ、仕事のお土産ないの?」
何度も名前を呼ばれる僕を、少し離れた場所からジュリは見ていた。髪を後ろでまとめて、動きやすい地味な服装をした妹。特に何を言うわけでもなく、僕が話しかけるまでそうしている。
「ジュリ。寮はどう」
「おかえりなさい。部屋もきれいだし問題ないよ。家にも時々帰って掃除してるけど」
「それは別にもういいって言ったのに」
「私が好きでやってるの。誰かの家になる前に忘れないように見ておきたいし、改めて見に行くとけっこう発見があって面白いから」
そんなもんだろうか。
僕は丘の上にぽつんと置き忘れられた、四角い灰色の箱のような我が家を見上げた。
「コウキ、なんで家売るの?」小学4年生が足にくっついてくる。「売るのやめなよ勿体ないよ」
「また映画して」
「もっと遊びに行くから売らないで」
久しぶりにこんなに沢山の人間の集団に囲まれたな。
おしゃべりが好きだったり苦手だったり、得意な教科がそれぞれ違ったりする子供たち。運動が好きだったり、絵を描くのが好きだったり。くだらないことを気ままに言い合って、それを忘れて。ご飯を毎日食べて、美味しいとか苦手だとか言って。眠い時はぐっすりと寝る。そして、人生はこれから始まる。
僕にも彼らのように未来を無限に感じたことがあった。もしも人生をやり直せるなら今度はもっとうまくやりたい。
「ジュリ」僕は口を開いた。「売らないほうがいい?」
「お兄ちゃんがそう思うなら」
「ジュリはどう思うの」
ジュリはただ首を横に振った。そして一番年下の少女の隣にしゃがみこみ、彼女が一心不乱に眺めている道端の草を同じように観察しはじめた。僕も同じ草を立ったまま見下ろして言った。
「その反応、進学しないのかって聞いた時と同じだよ。あの時も本当は勉強したかった?」
「勉強も確かに好きだったけど、すぐに菜の花の家で働きたかったから」
沈黙を待って、ジュリは短く言った。
「私は大丈夫だよ。お兄ちゃんが決めて」
周囲はまだ明るく、日差しを浴びた土手の草が風の中で優雅に踊っていた。ジュリの真っすぐ伸びた長い黒髪も、すーっと風に吹かれて音もなく広がった。子供たちはまだまだ元気いっぱいだ。呆れるくらいに走り続けている。やがてジュリは立ち上がり、全員が揃っていることを確認して職場である菜の花の家へと戻っていった。
ジュリたちと別れて自宅に向かって歩いていくと、子供の頃の記憶が鮮烈に蘇った。母に呼ばれて食卓に向かう。いつもと同じ席に座り、母に食事のマナーを窘められながら好きなおかずを口に運ぶ。隣ではジュリがゆっくりと嫌いな野菜を噛んでいる。
実際には僕はもちろん一人で、家の中はひっそりと冷たい。
ただキッチン向かいの壁に見慣れないフレームがあった。近寄ってみると、母と僕と妹の昔の写真が飾られていた。僕はそれを見てしばらく考え、結局家をそのまま残すことにした。
ジュリが既に心身の体調を崩していたと僕が知るのは、それより2ヶ月も後のことだ。
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