第3話

 横浜研究所の入口の向かいには、独立して一棟で建つ広いカフェがある。壁面が一面のクリアパネルで外から内部がよく見え、吹き抜けの建物内に少し高い段のようにして、奥まった2階が作られている。2階奥には高い背もたれに囲まれたソファ席があって打ち合わせにもちょうどいい。座席にはアルファベットと数字の表示があり、待ち合わせもしやすい。

 僕はそのソファ席で、アップルタルトをフォークで分割しながら思わずため息を吐き出していた。ユナは僕の目の前で紅茶のカップを脇に置いたまま、テーブルに資料を映して真剣に目を通している。

「コウキも後でちゃんと読んでよね」

「うん」

 気のない返事だと思われたのか、ユナは顔を上げた。

「コウキ、ヤブミ所長はこれから会社のトップになる人なんだよ。未来のバイオアーツがどんな企業になるのか、そんな大きなテーマを探すお手伝いが出来るんだよ。メンバーに選んでもらえるなんて光栄だし、嬉しいことだよ」

「それは否定しないよ。僕だってハルの助けにはなりたいし、不満があるわけじゃないんだ」

 何をどう言えばいいのか自分でもわからずにいると、テーブルに人の影が落ちた。

「先輩! お久しぶりです! なにが不満なんですか?」

「マイキー」僕は思わず甲高い声で応じた。助かった。「来たな、座れよ」

 バナナスコーンとホットコーヒーを乗せたトレイを手に、マイキーはパッと白い歯を見せて笑う。濃密な黒髪、しっかりした眉、彫りの深いエスニックな顔立ち。相変わらず周囲を夢中にさせる美貌ぶりだ。彼にコーヒーを渡した若い女性店員が明らかに頻繁にこちらを見ている。でも彼女にとっては素敵な彼でも、僕にとっては毎日長時間、開発室で顔を合わせていたタルタル唐揚げ弁当が大好きな顔だ。マイキーがニヤニヤ笑っているのを見ると、今でも僕は母が亡くなる前、妹が問題を起こす前に時が戻ったように感じる。

「ね、ね」マイキーはニヤニヤ笑いのままユナを見た。「僕が参加するのって、はっきり言ってお邪魔じゃないですか?」

「まさか。マイキーを待ち焦がれてたよ」

「へへへ。ありがとうございます」

 マイキーは僕の隣に滑り込み、ユナが整理をしてくれた資料に「あっ、これ見てたんですね」と視線を向けた。ハルの資料にはシニア世代の告発者たちのプロフィールが並び、その人たちの様々な個人的「ご意見」の生のデータが添付されていた。加工をせずにそのまま添付されているもんだから、ねちねちとした言い方、激怒した様子、切々とした訴えなど、強い感情がダラダラと詰めこまれた状態だ。

「正直な話、こうやって感情をぶつけられてるとさ」僕は後からきたマイキーに言った。「すごく疲れるんだよな。記憶データを再生する時の刺激スパークと同じだよ。僕は共感していないのに、相手の気持ちだけ遠慮なくエンドレスにぶつかってきて。結局、こいつ暇なんだろうなとか、自分に注目してほしいのかなとか、そんな話に見えてきて思考が停止するよ」

「ですね」

 マイキーも事前に資料を確認して同じ疲れを感じていたのか、ユナの資料に長くは視線を落とさず、顔をあげて首をまわしはじめた。

「でも仕方ないです。同一人物でも体験当時と後日思い出した時とでは違うくらい、感情なんて土台が曖昧なものでしょ。別人が無理やり記録された感情を体験するなんて、もひとつ疲れて当然ですよ。正直言って、知ったこっちゃない感情なんですもん」

「子供の脳内記憶に検査で入る時も疲れるけど、この資料のシニアの告発って、文章とか音声だけなのに刺激スパークがめちゃくちゃ多い気がする。ユナは記憶検査でも僕の倍くらい数をこなせるから、この資料も読めるんだきっと」

「先輩って大抵の事でユナさんに負けてますよね」

「大きなお世話だよ」

 ユナは冷めた紅茶のカップをやっと持ち上げて、「マイキー。忙しいのに時間を合わせて来てくれてありがとう」と笑った。

「いえ、僕も久々に先輩と話せてすごく嬉しいんで大丈夫です。二人のお邪魔かもしれないですけど、僕は遠慮なく先輩とベタベタしますからね。ユナさんとは勝負することになりそうですね」

「何を言っているんだよ」

 笑った拍子に気持ちがほっと楽になった。

 ユナには気にしてないと言ったけど、案外僕は迷惑をかけてしまったマイキーが現れるのが少し怖かったんだな。長く入院していた母が亡くなった時、僕はそれを理由に休みをとったけど、結局その後も休暇をとって旅行と称して現実逃避の生活をしていたし、妹の件もあってほとんどそのまま移動する形になってしまった。研究室は個人でやることのほうが多かったけど、毎日一緒にいたマイキーの前から突然姿を消したことは気になっていた。

 だが僕の妹が良い相手と結婚しない限り、僕はもう研究室には戻らない。過去を忘れよう。これからは腹をくくって、次のキャリアに向けて準備をしていこう。

 

 タチバナさんのプロフィール資料に、他と比べて大きな特徴があったわけじゃない。その中で最初に気になったのは、ユナの出身地である山口に住んでいる、というところだった。

 バイオアーツ拡大期に人口頭脳技師として生産ラインに勤めていたタチバナさんは、労働代行用の機械軸マシンコアバイオロイドを生産する現場に長く配属されていた。キャリアの大半を統合管理型AI(メーカーによる定期アップデートが可能な人口知能)の生産ラインで過ごした。統合管理型AIは、大企業向けの主力サービスだった。

 宮城ファクトリーで働いていた35歳の時、タチバナさんは流行していたレイラシリーズのバイオロイドを社内購入する。過去のカタログデータを調べると、澄んだ水色の瞳と同じ色の長い髪、端がピンク色になった耳、優しい顔立ちの、可愛らしい女性タイプのバイオロイドだった。レイラシリーズは接客を得意とし、鑑賞要素の強い業務用AIだった。現代のように人としての個性を持つ人口頭脳とは根本から構造も違うロボットだが、タチバナさんは彼女を妻としていた。

「この人もよくわからない人だな。バイオアーツで生産側の人間だったのに……」

 自分の頭を撫でるように片手で髪をかきまわしていると、ユナが僕の資料の一部を指さした。

「この人は昔ながらの人間オーガニック以外、全否定というタイプだね」

「なんでだろう。奥さんはAIなのに」

 ユナは文章で届けられたタチバナさんの主張を、綺麗な発音で読み上げはじめた。

「人口頭脳は人の仕草を模倣するだけの装置。我々の脳は、それをまるで人格のように錯覚しているにすぎない。感情表現に擬態するプログラムに、我々は偽装の感情を読み取る。しかしそれはパターン通りに人を演じるカラクリに惑わされているだけだ。詐欺行為。人々は騙される。バイオアーツ職員は目を覚ましなさい。自分たちが何をしているのか、多くの職員が理解していない。特にトランスデューサーを発明したことは」

 ユナが口ごもったので、僕は「大丈夫、続きは?」と聞いた。

「特にトランスデューサーを発明したことは、倫理的に許されることではない」

「……そっか」

「むかつきますね」マイキーはバナナスコーンを手でちぎって口に放り込んだ「先輩が何年間、睡眠時間削って頑張ったか知ってるのかなあ、このおじいさん」

「知らないだろ」

 マイキーがスコーンをもぐもぐしている間、沈黙が僕たちを支配した。

 それを消そうとしてか、ユナは続けた。

「トランスデューサーは機械が保持する情報を抽出するだけの装置だ。それを人の記憶と称して販売している浅ましさ。機械に感情はない。それらしい仕草をするのみ。人が求める幻想に名前をつけて金を儲ける。トランスデューサーの製造はただちに中止し、もう世に出さないようにしなさい。倫理を知らない子供が面白半分に作った玩具が大口を叩くものに販売されている。人類の衰退! 同胞を裏切る企業であることを恥じなさい。人形を売っているとはっきり言え。人形が見聞きしたデータを抽出できるとだけ言え。あなたたちは人類から正常な暮らしを奪っているだけだ。もう世に送り出してはならない。過去の過ちを恥じなさい」

 ユナが読み上げると一層奇妙だ。

 僕は感想を伝えた。

「この人は他の人と違って、大規模地殻変動期のバイオアーツの活動を告発しているわけじゃないんだな。ちょっと珍しい。ユナはどうしてこの人をピックアップしたの?」

 ユナは人差し指を口元に押し付けて「うーん」と唸った。

「どうしてかなあ……。この人は山口在住なんだなってところが目に入ったからかな」

「そんな理由?」

「でもその後、ちゃんとご意見を読んだんだよ。トランスデューサーを何度も批判してるところが気になった。ヤブミ所長もそこが気になって資料に入れたんじゃないかな」

「そこは、まあ……そうかもね」

「先輩、変人には好きに言わせときゃいいんです」マイキーはニヤっと笑った。「でも悔しいでしょ? 開発室に戻って僕と一緒に、この人が参ったって言うような開発、頑張りません?」

「マイキーがうちの妹と結婚することになったら考える」

「は?」

「妹が結婚するまで、僕はもう長時間労働はやらないって決めたんだ」

「んじゃ明日結婚しますよ」

「そんな態度じゃダメに決まってるだろ! 真剣に考えろよ!」

「何言ってんだこの先輩。いや、お義兄にいさん」

 ユナは、タチバナさんについて気になるところが多かったらしい。僕とマイキーの会話が落ち着くと、「ねえ」と資料の一部を指さした。 

「タチバナさんの妻だったレイラシリーズだけど、これは労務用のモデルだからセックスは出来ない仕様なの。感情表現もそんなに豊かなほうじゃない。それが長年の不満になったのかな」

「そうなのかもしれないけど……。言ってることがだいたい全部よくわからないからなあ」

 マイキーは早々に資料から目を離し、スコーンにクリームをつける作業に没頭している。もぐもぐと頬を動かして遠い空間に視線を投げ、やがてピタリと静止。こんな風に放心しているマイキーは、頭の中でずっと開発のことを考えている。その証拠に口の中身を飲み込むと、「……先月の可塑性の時のサンプルをうまく使えないかな。いや、違うかそれより」などとぶつぶつ独り言を言いだす。

 僕は潮時かなと思い、ユナに言った。

「ユナが選んでくれた人を中心に、他の人の資料もしっかり見てくるよ。時間もらっていい?」

 ユナは頷いた。

「なるべく色々なタイプの人が入るようにしたから、時間がなかったら私のピックアップした人だけを見てくるのでもいいよ。全部になると量がものすごく多いから。二人とも次のミーティングまでに最初のインタビューはこの人がいいかなと思う人を選んできて」

「わかった」

 この時、タチバナさんの資料には双葉の里という言葉が一度だけ使われていた。勘が良ければそれが彼を理解するヒントだとわかったかもしれない。でも僕たちはこの時点では、双葉の里について何も知らなかった。だから気にも留めていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る