空の家

伊藤 終

神奈川

第2話

 脳を損壊させる有害物質、ダンティアキシトリンに人類が苦しんだこの90年間で、脳科学は飛躍的に進歩した。概念ニューロンの分析が進み、体内記憶が発見された。機械マシンテクノロジーは、脳、脊椎、神経の機能を補ってくれるし、生体バイオテクノロジーは脳そのものを再構築してくれる。

 記憶の抽出や再生も、軽い耳にかける機器イヤックデバイスの登場で以前よりも身近になっている。10年後には一般的な娯楽のひとつになっているかもしれない。


 ただそれでもやっぱり、記憶主の主観的な体験を正確にトレースして追体験することは不可能なんだ。再生者の主観が混ざってしまうから、全く新しい別の体験になってしまう。

 記憶を残すことには意味がある、そう信じているから僕はこの仕事をやっているわけだけど、君にバトンを渡した結果は君に任せるしかない。

 君がこれから感じることを、僕がここから操作することはできない。

 

***

 

 記憶再生機に押し付けていた額を引き離し、僕は大きく息を吐き出した。

 人の記憶を再生していると、色とりどりの感情がパチパチ花火みたいに弾けて頭が痛くなってくる。無数の針が飛んでくると表現している人もいる。

 検査を何件も連続して行うと、僕は目を開けるのも嫌な状態になる。加減を間違えて花火が酷くなってしまったら、症状が和らぐまでゆっくり休むしかない。この刺激スパークは研究所の職員全員の悩みだ。これさえなければもっと多くの検査を受けられるんだけど。

 仕方ない、何か食べてこよう。

 昼食と呼ぶには遅すぎる時間だな。今週限定のレモンコーヒーはもう売り切れてるだろうな。

 

 アップルパイを食べ終わって部屋に戻ろうとしたところで、食堂の出口近くに座っていたクリーム色の職員服のユナと目が合った。手を上げて「コウキ」と呼ばれたので、僕も軽く手を挙げる。

「ユナ。今週末で僕は新入り卒業?」

「研修の評価は所長が直接コウキに伝えるよって言ったでしょ」

「勿体ぶらずに教えてくれてもいいのに……」

「だめだめ、それじゃつまらないもん。今から一緒に所長室に行くよ」

「急だなあ」

 ユナはテーブルに両手をついて席を立ち、僕の近くへ寄ってきた。彼女の小さな頭はちょうど僕の肩くらいの高さだ。丸くて大きな瞳がぐっとこちらを見上げる。

「今日が良いタイミングだと思って、所長にも行くって連絡してあるし、コウキの休憩終わりを待ってたの」

 さっさと歩きだしたユナの背中を、僕は慌てて追った。ユナは廊下を歩きながら両腕を上げて「うーん」と伸びをしている。明るい紅茶のような色をした髪が、肩の上で弾む。

 ユナの髪がいつも動いているのは、ユナがいつも動いているからだ。動いていない時は頭が動いている。小柄な身体に驚くほどのエネルギーが詰まっていて、何でもテキパキ進めるし、トラブルがあっても落ち着いて一気に対処してしまう。僕が研究室から畑違いの顧客チームに移って3ヵ月、こうして無事に研修期間を終えることができたのは、間違いなく彼女が上司になってくれたおかげだ。何かお礼が出来たらいいんだけどな。いや、これは下心とかじゃなくて本当に。

 目的の階に着くと、ユナは足を止めて振り返った。

「気が重い?」

「いや別に」どうしてそんなことを聞くんだろう。「ハルのことはアカデミー時代から知ってるし、いまさら緊張なんかしないよ」

「じゃあ次のプロジェクトが憂鬱? 元々同じチームだったマイキーと一緒だけど」

「確かにまあ、マイキーには迷惑ばっかりかけちゃったけど……。喧嘩してるわけじゃないから大丈夫だよ。なんで?」

「ずっと黙って後ろついてくるから」

 ああ。そういえば。

 壁に描かれたゆるやかな曲線が、僕たちを所長室の入口へと導いている。僕とユナは顔を見合わせて、あとは並んで歩いた。

 換気のためか、所長室の扉は半分ほど開いていた。部屋と廊下を仕切る壁は半透明のかすり入りのパネルになっている。派手なところはないが、かすりのパネルに「バイオアーツ 横浜研究所 所長室」という金色の文字が貼り付き、この部屋の権威を孤軍奮闘、主張しているようだった。

「来たな」

 低く響く、聞きなれた声。

 入口で肩をすくめて僕は「来たよ」と返した。扉が自動的に閉じていく。振り返って内側から見ると先ほどの金色の文字が反転して鏡文字になっていた。

 ハルは大きなデスクから腰を上げたところだった。生まれつき弱いという両目を守るため、室内でも大きなサングラスをかけている。体格が良く、ゆっくりと動く。だからいつも威風堂々として見える。

「3ヶ月、楽しんだかな」

 僕が「おかげさまで」と返すと、ハルは腰に手をあて、わざとらしくハアと息を吐いてユナを見た。

「こんなに魅力的な女性と一緒に働けるように手配してやったのに。飛び上がって喜んでもらえないとはね。コウキ、君はどうかしてる」

「ほんとにそう!」ユナが吹き出した。「全然なんにも魅力を感じないなんて、失礼ですよね」

 そんなこと言ってないんだけど。

 困ってムッとする僕を、二人は笑いながら見ていた。今思えば2人は僕に気を遣って明るく振舞ってくれたのかもしれないが、自分がみんなの腫れ物だと感じてしまうのは複雑な心境だ。僕は特殊。2人はそれを、少し離れて見守っている。そういう状況で優しくされることは、少し孤独でもある。


 僕の異動は横浜研究所ではかなり特殊な扱いだった。僕だってまさか自分から異動を願い出ることになるなんて思ってもみなかった。学生時代からずっと開発室に入りたかった僕が、そしてバイオアーツアカデミーの卒業プレゼンでトランスデューサーの設計アイデアを発表して最優秀賞をもらった僕が。

 ハルは部屋の左手に移動して、来客用の黒いソファに座るように僕たちを促した。

「まずは2人とも、おつかれさまだったな。ユナ、コウキの社内転職に情熱的に取り組んでくれてありがとう。君がいなかったら悪い結果になっていたかもしれない」

「いえ所長、私たちのほうこそ助かりました。コウキはもちろんとても優秀だし、子供にも好かれやすくて。研究室のエースが来るなんて、そんなのどうしようって最初は思ってたんですけどね。彼が来てくれて本当に助かりました」

「コウキが優秀なのは皆が知っていることだが、誰もが心配していた異動だったからな。ユナのサポートがあったからこそ、大きなトラブルもなく研修期間を終えられたんだと私は思っているよ」

 うんうん、と微笑みあう二人に、僕は待ちきれずに尋ねた。

「で、僕は新人卒業したの?」

「ははは、せっかちだな」ハルはゆっくりと手を開き、それをゆっくりと数回打ち合わせ、乾いた音を鳴らした。「卒業だ。詳しい評価結果はユナから説明があるが、まずは、おめでとう。そしてこれからをまた、楽しんでほしい」

 ユナも隣で小さくパチパチと手を叩く。

「ありがとう」やっと、ほっとした。「一人前になれてよかったよ。次のプロジェクトは楽しそうじゃないけど」

 これでもまだ僕の配属は確定ではなく、次はクレーム対応をやらされることになっている。それも特に意味がわからないことを言って現場の担当者を困らせているシニアの話を聞くんだって。それも修行なんだろうけど。

「確かに少し、難しそうに感じられるかもしれないが」ハルは声をずんと部屋に響かせた。「私が昔から最も興味を持ってきた調査だ。それをコウキに託すことが出来て嬉しいよ」

「大袈裟に言ったって、クレーム対応だろ」

「そうだな」

「じゃあそう言えばいいのに」

「捉え方は人それぞれだ。コウキにとってはクレーム対応の研修かもしれない。しかし私にとってはライフワークのような調査なんだ」

「ふうん」

 肩をすくめてひとまず降参すると、ハルは両手を広げて説明を続けた。

「クレームは常日頃から届き続けている。日常的なクレームには、日常的に対応すれば良いとも言える。しかし中には企業の将来を左右するほどに重要な情報が含まれている」

「それはそうなんだろうね」

「クレーム情報は常に開発室にも届いていたからコウキも知っているだろう。しかし今回ヒアリングを頼みたいものは少し毛色が違う。時折シニア世代から届く声の中には一定の割合で、大規模地殻変動期にバイオアーツが人権侵害をはたらいていたという内容が含まれている。とても小さな割合だが、必ず届き続けている。そうした告発の何が事実で何が勘違いなのか、判断するのは難しいが深刻な内容だ」

「昔のことへのクレームに対応するの?」

「そうだな。しかし告発の内容は過去のものでも、将来のバイオアーツに影響を与えることになるだろう。具体的にどうなるのかは、私にも全く予想が出来ないがな。しかし当時を知る人物が減り、証拠も消え、経営者が変わる頃、政治的に利用されやすくなるのは間違いない。そして何よりも私自身が、バイオアーツという企業が大規模地殻変動期、地表生活を生き抜いた人々の中に混乱の中でどのような記憶を残しているのか知っておきたい」

 ハルが流暢に喋るから、僕は自分が停止しているような感覚になった。どういうことだろう。

「ハル、わかってるとは思うけど、僕たちは人口頭脳技師だよ。ジャーナリストや探偵じゃない。大した調査は出来ないと思うんだけど」

「そうだな。だがこの仕事に必要な能力を持っている。そして適任だ」

「そうかなあ……。どうして調査会社に依頼しないの?」

「社外に依頼をすることもあるが、彼らには将来のバイオアーツに対してビジョンを持っているわけではないからな」

 ハルは僕をサングラスごしにじっと見つめた。

「大規模地殻変動期、ここにいる我々はまだ誰も生まれていない。しかしその時代の上に現在を生きている。当時は世界中が年に何度もの大地震や津波に襲われ、海面上昇と有害物質ダンティアキシトリンの地表沈殿に飲み込まれていた。環境の大きな変化の中、現代を生きる我々には信じられないほど大勢の人たちが毎日亡くなっていた。ユナにはそれがよくわかるだろう。そして現在の都市の形や生活が形成されている」

 ユナは頷いた。ユナは地表の出身だ。山口の沿岸部に住んでいたユナの家族は、海面上昇の被害を受けて東京に移住をしたんだと聞いている。

 ハルはユナの表情を確かめてから、また僕を見た。

「父はその大規模地殻変動期にバイオアーツを育てた。創業の2146年は二度目の富士山噴火があった年だ。既存の地図が意味をなさない大混乱の中、市民同士が情報を伝えあって移動しなければならなかったと聞いている。バイオアーツはそんな中、政府や大企業の何でも屋をやっていた。将来を見越し、特に他社が断りそうな仕事を積極的に請け負ったそうだ」

「でも確か当時の事業って、地表活動用ロボットや機械軸マシンコアヒューマノイドの派遣だろ」

「表向きに、よく知られているものはそうだな。しかし例えば、接近困難地区に健康な人を送るという仕事もあった」

 口が曲がった。どうしてそんな仕事があったんだろう。

「命の危険があったんじゃないの?」

「しかし行く必要がある人たちというのがいたんだろう」

「そんなことある?」

「当時の関係者の中でも、意見の食い違いはあっただろうな。それほどの混乱の時代、当時の感覚は私たちにはわからない。しかし歴史が尾を引いてくることが必ずあるだろう。この私の危機感が、調査をしたい理由のひとつだ」

 ハルの人差し指は、とん、とん、と自分の足をノックしている。

「それとは別の目的でも我々は、今のうちに当時に触れておくべきだ。今はまだ父がバイオアーツの代表をしているが、時が流れれば必ずそれも終わる。将来は君たちのような現場の人間が力を合わせてリーダーとなり、バイオアーツの新しい方向性を探していくだろう。そうした将来を前に、ここで過去と向き合い、感情や物語を伴う体験をしてきてほしいんだ。私はただの横浜研究所の所長だが、やはり父が築いたバイオアーツや君たちの将来のことを考えてしまう。可能ならバイオアーツに参加しているということを感情面でも誇らしく思ってもらいたい。そこには重さもあるかもしれないが、君たちは必ずバイオアーツを深く支えてくれる力を身に着けてくるだろう。何しろ私の特別なエースたちだからな」

 うまく言うよな。

 ちらりとユナを見ると、熱心な顔でハルを見ている。

「頑張ります」

 ユナが元気にそう言ったので、僕は水を差して邪魔をしないように黙った。

「期限は半年だが、2人とも色々な現場から声をかけられる人気者だ。まずは気楽にいこう。延長をしても最長一年としたい。事前に集めた資料と私のコメントを渡すが、具体的なヒアリング対象の選定は任せる。マイキーを交えて3人でよく話し合ってくれ」

 なんだか壮大な物語を語られたけど、僕を励ますためにハルが仕込んだ茶番のような気もする。そうじゃなきゃ、どうして元の研究室からマイキーをこんなクレーム処理のプロジェクトに入れる?

「コウキ」僕の疑念を突こうとするように、ハルはぐっと体を前に倒してきた。「最高に優秀な機器開発者だった君には、こうした仕事が回り道のように感じられるかもしれないな。それでも私は、違う畑を耕す経験が君のキャリアを豊かにしてくれると信じている。マイキーを指名したのも同じ目的だ。三人全員が、今回の調査を良い刺激にしてほしい。皆で未来を思いながら取り組もう」

 僕は口の端を持ち上げて笑い、もう一度肩をすくめて降参した。

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