第3話「逃亡記」
「何をしているの?」
なにって、逃げるのさ。
「どこへ行くの?」
どこへって? ここじゃないどこか、ってやつだよ。
「逃げ切れるの?」
当たり前でしょ。誰に向かって言ってるの。
「あなたに、その子を守れるの?」
守るよ。
守り切ってみせるとも。
「…………」
まぶたが開く。
開けた視界に飛び込んできたのは、よく知っている顔だった。年下のような幼さが残る顔つきに、長い黒髪、黒い瞳。
「師匠……」
「おはよ」
続いて、後頭部に柔らかいものを感じ取る。小さな子供の身体のような感触。
どうやらカレンに膝枕をされているらしい。
「おはよう、ございます……」
「気分はどうかな。寝る前のこと覚えてる?」
「寝る前……………………あっ」
ハッとしてナナは飛び起きた。寝ぼけていた脳内に電流が走る。
そうだ。
師匠に連れられて、聖堂を飛び出して、逃げ出して──
「あ、あれから、どうなって」
「とりあえず逃げられたよ。ほら」
カレンはナナを一瞥して目線を送る。
それにつられてナナも顔を上げ──
「────!」
未だぼやけていた瞳孔が、ゆっくり大きく開いていく。
絶景。
視界を覆うほどの山脈が、立ちはだかるかのようにそびえ立っていた。頂上に近い部分は白く覆われており、その絵に描いたのような風景は、はるか先どこまでも続いているようにすら感じる。
「綺麗……」
「でしょ? ふっふー、こんなデカい山、帝国には無いからね。一度ナナに見せたかったんだ」
大自然に圧倒されながら、ナナは辺りの地形を確認する。前方に山、後方に草原。少し離れたところに森林も見える。人工物らしきものは見当たらない。
「ここは……?」
「もう帝国の外だよ。首都ハイゼルからは100キロくらい距離あるかな」
「ひゃっ」
目を丸くするナナに、カレンは得意げに「ふっふー」と笑みをこぼす。移動速度を誇っているのかもしれないが、あれからどれほど時が経っているのだろう。
「……でも、ホントに逃げちゃったんですね……」
「うん、逃げちゃった。今頃帝国中で指名手配されてるかも」
「そんな……」
表情が暗くなる。
生贄の使命から逃げてしまった。
師匠を巻き込んでしまった。
そんなことを考えていると、カレンが頭をポンポンと叩いた。
「ほら、立って、顔上げて」
「で、でも私、師匠を巻き込んじゃいました……私のせいで、捕まっちゃうかも……」
「捕まらないよ」
手を取る。
ナナの震えた手を、カレンの小さな手が掴む。
「私は最強の魔法使いだからね。誰が追ってきても返り討ちだよ、ふっふー」
「でも……」
そういう事ではない。
カレンはきっと、帝国中で指名手配されていることだろう。犯罪者、身も蓋もない言い方をすれば悪人だ。
それが嫌だった。
ナナは、それがどうしても嫌だった。
「ほら、乗って乗って。そろそろ移動しないと、追っ手が来るかもしれない」
「乗る……? って、わぁ!」
カレンに手を引かれ立ち上がった途端、ナナは驚きのあまり尻もちをついてしまった。
そこには一台の馬車が止まっていた。
馬が地面を蹴っているところを見るに、たった今この場にやってきたようだ。荷台にはいくつか荷物が乗せられているが、人が二人座れるスペースはある。
手綱を握っているのはひげの長い老人だ。
「おじいさん、王国北門までお願い」
「ああ。お二人さんかな?」
「うん。ナナ、これに乗って──」
「し、師匠っ」
振り返ると、ナナが手で顔を覆っていた。
両手で顔を隠し、見えなくしているようだ。指の隙間からチラホラ見えているが、本人は隠しているつもりらしい。
「顔見られちゃダメです、捕まっちゃいますっ」
「ああ、いや、ここもう帝国の外だから大丈夫だよ。まだ広まってない」
「ほ、ホントですか……?」
覆っていた手をずらし、隙間からカレンを覗いてくるナナ。瞳にはわずかに涙が浮かんでいる。
(かわいい……)
涙目で震えているナナの手を引きながら、カレンは心からそう思う。
「移動って、どこに行くんですか?」
「ちょっと知り合いのところにね。なにせ敵は世界一の大国、魔導帝国だ。仲間がいないとやってられないよ」
「……敵」
その響きに背筋が寒くなる。
敵。
あの大国が、敵。
「ああ、敵だよ。ナナの敵は帝国だ」
ナナに言い聞かせるようにカレンが言う。
「そして」
カレンは振り返ると、さわやかな笑顔を見せた。
「ナナの味方は私だ。負ける気がしないでしょ?」
「────」
ナナは目を見開き、その瞳に自らの師匠を映す。
優しい顔。
ナナを安心させてくれる、大好きな笑顔。
「──────はいっ」
恐怖が消え去り、ナナは心からの笑顔を見せる。
日が沈み、あたりを闇が支配し始めた。
もう夜。
魔導教会総本山グレゴリオ大聖堂。
礼拝堂前。
「見つかりません」
夕焼けの光がステンドグラス越しに差し込み、幻想的な雰囲気を醸し出している中、緊迫した声が礼拝堂内に響く。
声を発しているのはキャソックを身にまとった一人の神官だ。ほかにも数名の神官が集まっており、張り詰めた空気が漂っている。
「うーん、もう帝国にはいなそうだね」
そんな冷たい場にそぐわないような、明るい声が響き渡る。
その声を発しているのは、これまた他の者たちとは一線を画した風貌の男だった。ほかの者は皆4~60代程度の外観であるのに対し、明るい声の主は明らかに20歳前後の若々しさを保っていた。服装も祭服ではなく青いローブをまとっており、真っ白な髪もよく目立っている。
「各地区に確認を取っておりますが、手掛かりすら掴むことができず……申し訳ございません」
「ハハ、大丈夫、これから頑張ればいいさ! とりあえずカレン……第8位階魔導士、断絶の魔法使いを特別執行指定に仮登録しておこう。仮だからね、よろしくね」
「はっ」
明るく笑う青年に、老齢の神官がかしこまった態度をとる。一見すると違和感を覚える光景だ。
「さて、逃がさないよ。選ばれた少女さん」
さわやかな笑顔を浮かべ、虚空へ向けて言葉を紡ぐ青年。
夜が始まる。
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