解けた呪文

内山 すみれ

解けた呪文

「ユーリア、本当に君は俺がいないと駄目だね」


 幼馴染のロベール・ムニエはそう言って微笑む。その言葉がとても甘く鼓膜に響いて、私は愛の言葉を囁かれているような錯覚に陥ってしまう。咎められているのにそんなことを考えてしまうなんて、私は本当に駄目ね。私は眉を下げて小さく謝った。


「いいよ、許してあげる」


 ロベールの声色は弾むように軽い。どうやら彼は機嫌がいいらしい。私は差し伸べられた手をとって、歩き出す。今日はロベールと買い物に行く約束だったのだ。外はぽかぽかと暖かくて、太陽の日差しも強くない。今日は絶好の散歩日和だ。隣には美しい幼馴染。ああ、なんて素敵な日なのでしょう!これもロベールがいてくれるからね。

 先程の彼の言葉通り、私は幼馴染のロベール・ムニエがいないと駄目になる。本当にその通りだ。私は鈍臭くて、不器用で、何をしても失敗ばかり。こんな私が普通の生活を送ることができるのは彼がいてくれるからだ。五歳年上のロベールは兄のように大切な人だ。物心ついた頃からずっと一緒でいつも私と遊んでくれた。ノロマだと他の男の子にからかわれた時に私を庇ってくれたり、転んだ時もお姫様抱っこして家まで運んでくれたり、思えばロベールに頼ってばかりだった。そんな時、彼はいつも私に言うのだ。『ユーリアは俺がいないと駄目だ』と。私は恥ずかしくて申し訳なくて、彼に謝ることしかできなかった。今もそうだ。そんな自分を変えたいと思うのに、中々上手くいかなくていつも落ち込んでしまうのだった。今日も、私は買ったばかりの果物を落としてしまってロベールに叱られてしまった。本当に私は駄目な女だわ。





「婚約者……?」

「そうよ!ロベール様がアンタを婚約者にすると言ったのよ!」


 それは突然のことだった。母親が興奮を隠しきれないといった調子で私に話していた。彼女の言葉通り、ロベールが私を婚約者にすると言い出したのだ。それを聞いた時、何故だか胸がざわざわと落ち着きがなくなってしまった。私をいつも助けてくれるロベールが相手なのだから喜ぶと思っていたのに、心に雲が覆っているような心地だった。どうしてだろう。誰かに相談しようと思って、私の足は止まった。私には相談できる友達がいないのだ。話しかけても無視されてしまうばかりで、誰にも見つからないようにこっそりと泣いてから家に帰ると、ロベールが家にいて慰めてくれたっけ。


『君はノロマで不器用だから、誰も相手をしようとしないんだ。可哀想なユーリア。俺がついているからね』


 その言葉にいつも救われていたのを思い出す。友達がいない私にはロベールがいてくれた。でも、当の本人であるロベールにこの胸の違和感を相談するなんてできない。私は悩んだ末に、キールに手紙を出すことにした。彼は最近までワーグマン男爵家が雇っていた執事だ。年が近いこともあって、時折話をするくらいの仲だった。ロベールは、キールに近づかない方がいいと言っていたから彼と話すのはロベールがいない時だけだったけれど、彼はとても気さくで、私は彼と話すのが好きだった。けれど最近になって解雇されてしまった。寂しかった私は彼の住所を聞いて、いつか手紙を出そうと考えていたのだった。

 私はペンを取り出して、今の気持ちを正直に紙にしたためた。大好きな幼馴染の筈なのに、婚約すると聞いて困惑してしまった。喜ばしいことなのに、気分が晴れない。どうしてだろう?わき出てくる思いをなんとか言葉にまとめて、手紙を送る。このままだとロベールに申し訳なくて堪らなかった。






 暫くして手紙が届いた。キールからだ。丁寧に綴られた言葉に、私は目を疑った。手紙には、ロベールとの結婚を反対する言葉が書かれていた。君は決して駄目な女性ではない、ロベールは君が駄目な女性だと思うよう洗脳しているのだと。服装や髪型まで幼馴染である彼が決める権利はない。君が過ごす時間だって、彼が決めることではなく、貴女が決めることなのだ。彼と結婚すれば貴女は一生彼の『お人形さん』になるだろう。

 彼の言葉は思いもよらないことだったけれど、驚く程に私の胸にすとんと落ちた。ああ、私は駄目な女じゃないのね。ロベールがいなくても私は、生きていける、はずだ。






「ユーリア、もう一度言ってごらん?」


 ロベールは美しい笑みを崩すことなく私を見つめる。決して威圧感を与える笑顔ではないのに、私には足がすくんでしまうほどに恐ろしく思えた。


「あ、えと、……」

「今日、俺と買い物に行くという約束が、なんだって?」


 私は今日、ロベールが買い物に誘ったのを断った。これは私なりの彼への抵抗だった。私だって、一人で行動くらいできるのだ。彼の誘いを断った、ただそれだけのこと。なのに、彼の纏う空気が冷えていくのが肌で分かった。


「……ご、ごめん……なさい」

「どうして謝るの?君はまた悪いことをしたの?」


 堪らず謝ってしまった私に、ロベールは顔色を伺うように私の顔を覗き込む。


「俺の言葉ではなく、あの男の言葉を君は信じたのかい?」


 私はロベールの言葉に目を見開いて、距離を取ろうと一歩後ずさったけれど遅かった。彼は私の腕を掴む。


「まさか君があの男と連絡を取っていたとは思わなかったよ。そんなに俺との結婚が嫌だった?」

「そ、なこと……」

「本当に?なら何故あの男に連絡を取ったの?あいつに攫って欲しかった?」

「いっ……!」


 ぎりぎりと掴む腕に力を込められて、私は痛みに顔を歪める。ロベールの口元が弧を描いた。


「でも駄目だよ。逃がしてあげない。ユーリア、君は本当に、俺がいないと生きていけないんだ。だって俺がそういう風にしたのだから、当然だろう?それに、男爵家令嬢の君が公爵家の次期当主である俺に逆らうことができると思う?君がどんなに拒んでも、俺達は結婚するしかないんだよ」


 鼓膜を揺さぶる恐ろしい言葉達に目の前が闇に覆われたような心地だ。目の前の兄のように慕っていた男の面影はもう消え失せていた。


「いっそのこと、何も知らない無垢な花嫁だったらよかったのにね。俺よりもあの男を頼った罰だよ」


 彼に掴まれた腕を解くことができない。項垂れた私に彼はいつもの声色で話しかける。呪文が再び私の鼓膜を優しく撫でた。


「だから言っただろう?君は本当に俺がいないと駄目だね」


Fin.

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