第4話
香港。
ネオンひしめく観光地から、それほど離れていない場所。何もかもがごった返す、どこか煙たくほの暗い街の一角で。
1階に寂れた食堂を持つ、薄汚れたビルの2.5階。
そこに、小さな占い屋があった。
「いっくん、落ち着いて。この人はお客さんだよ」
「主人、コイツは人じゃない。畜生だ」
「いっくん! めっ! キッチン行ってなさい!」
「主人とコイツを2人にできない」
ユキは困っていた。いつもはなんだかんだ言って聞き分けのいい樹が、噛み殺さんばかりに客の喉元を狙っているのだから。
この客と、樹とユキには、少なからず因縁があった。
「先程からうるさいな、主人に話す許可を貰ったのか? え?
「.......」
「日本から売り飛ばされたお前を6年も育ててやったのは誰だ? え? この私だろう? お前を、かの魔女の占いの対価になるほど価値をつけてやったのは誰だ? え? .......私だろうっ! 黙っていろこのクズがっ!!」
怒鳴りつけられて、樹は奥歯をかみ締めた。
12年前、樹が8歳の頃、樹は両親の借金のカタに売れ飛ばされた。それがめぐりめぐって香港マフィアの元にたどり着き、樹の若く健康な臓器は余さず値段を付けられた。
しかし、8歳にしては体の大きかった樹は、死ぬこと無く、別の方法で金を稼ぐ道を示された。
8歳の樹はそれに飛びつき、死にものぐるいで生きた。
樹の唯一の持ち物であった名前は呼ばれず、番号で呼ばれた。銃の扱いと体術を教えこまれ、教師に日に数十回も気絶させられながらも食らいついた。血を吐きながら、他の同じような子供の誰より優れた結果を出した。
特に遠距離狙撃に適正があると分かってからは、体術の訓練が終わる前に1人で要人暗殺をさせられた。引き金を引けば、面白いように対象の頭に穴が空いた。樹は、ただ引き金を引く人形になった。
そして、体術の訓練も終え立派な暗殺者となった14歳の春。
タバコを吸っている所を、当時日本の警察ドラマにハマっていたユキに捕まった。グレーのスーツに重い黒縁メガネをかけたユキに、樹は散々怒られ、服の下の痣や傷跡を見つけられ、所属するマフィアの中心部に乗り込まれた。
子供を解放しろ、とドラマ仕込みの正義感で言い放ったユキは、程なくボスの護衛に一蹴される。しかし、そこは古い魔女。子供1人奪う方法など、いくらでもあった。
そして、樹は占いの対価にとユキに貰われたのだ。
それから、ユキはお菓子を買ってやっても少しも笑わない樹をどうするか考えた。勢いで助けてしまったが、子供を育てるつもりなど毛頭なかったのだ。
仕方ないから、目玉だけ抜いて捨てようと思った時に、樹がユキのスーツの裾を少しだけ握った。
樹自身無意識だったその行動が、魔女の心を少しだけ動かす。目玉をほじくるのはまた今度でもいいか、と、痩せた樹に何も考えずその場の露店に売っていたマントウを買い与え、部屋に連れ帰り風呂に入れた。
樹のあまりに遠くを見ようとする目が不気味だと、ファッションで買った度の入っていない黒縁メガネをかけてみれば、賢ぶっているただの子供に見えて少し可愛く見えた。
それから、笑わない樹に自分好みの服を着せてみるのが魔女のちょっとした楽しみになった。だんだんと口を開くようになった樹と話すのも、なんだか楽しくなった。表情が変わらない樹の笑顔を見るのが、魔女の目標になった。しかし、樹の笑顔は見られないまま、放っておいても料理が出るようになって、洗濯が済んでいるようになって、ごみ捨てに行かなくなって。
魔女は、完全に樹無しでは生きられない体にされていた。
正直、最近では樹に自身の服装を褒めて貰えないのが地味に苦痛だった。食卓で樹と違うものを食べるのが悲しかった。でも、魔女があげた黒縁メガネとチャイナ服を着ている樹を見るだけで、自然と頬が緩み胸が温かくなった。
古い魔女は、この笑わない子供のおかげで、初めて幸せという言葉と、その意味を知った。
だから、今目の前で客の男に対して殺意をぶつけている樹が、たまらなく嫌だった。魔女が見たいのは、笑顔なのだ。
「.......占ってあげるから、早く座って。何を教えて欲しいの?」
「そうだな.......回避できる不運を、できるだけ沢山」
「そ」
面倒なので、机の上に散らばったままのルーンが刻まれた石を使おうとした魔女は。
「それから、このクズも貰っていく。新しいお代は表にいる5人だ」
「.......は?」
「どうしても距離2.8キロの狙撃が必要になってな。それができる駒が、この日本人のクズしかいなかった」
魔女は、一瞬にいくつかのことを考えた。
この男を今ここで殺す方法。
依頼を断ること。
この男をここで殺す方法。
しかし、どれも却下した。男は至極道理にあったことを言っている。適切なお代を払うから品をくれと言っているだけだ。そして、魔女はその依頼を断らない。なぜならそれが、長い時を生きる魔女の唯一の存在理由だからだ。
「.......」
「どうした、魔女よ。対価が足りないのなら子供でも持ってくるか? このクズによく似た男を持ってこよう」
「.......別、に。お代は、十分」
「なら、占え魔女よ。私の栄華のために」
「.......」
お代を払うと言うのだから、占わなければならない。1人長く生きる魔女の存在理由がこの一連のやり取りだけなのだから、魔女に断る選択肢はない。
そもそも、自分より何百と年下の樹をここに置いておくのも良くないのかもしれない、と。魔女は、また占いの道具に手を伸ばし。
「っ」
くん、と。ワンピースの腰の部分の布を引かれた。
不安そうに、眉を寄せメガネの奥の瞳を揺らした樹に。
初めてみた樹の表情が、泣き顔だなんて、古い魔女は許せない。
「.......
初めて、樹は主人の名を呼んだ。自分の所有者であり、母のようで姉のようで、妹のような。それよりもう少し違う何かかもしれない、主人の。
「うん、いっくん。だいじょーぶいっ、だよ」
「.......」
ユキは、そっと服を掴む樹の手を取り、握った。
そして、目の前でニヤニヤとしている客に向かって。
「6年前のいっくんの分は、占ってあげる。でも、それで終わり! いっくんは、あーげないっ! アタシのだもん!」
「ほお? 対価さえ出せばなんでもやる魔女が、仕事を断るのか? 人に仇なすか? え? それではお前のような人外の存在を許す理由が無くなるな。化け物退治専門の連中に言えば、お前はすぐに殺されるだろう」
「だいじょーぶいっ!」
ダブルピースをした魔女は。
「あなた、三日後に死ぬもの」
目を三日月のように細めて、そう言った。
「回避できる不運はほとんどなかったから、おまけで教えてあげたのよ? 感謝して死んでね!」
「待て! 魔女、金ならいくらでも払う! 人間だっていくらだってやる! だから私の死を、その占いを変えろ!」
醜く慌て出した客に、樹がすっと影のように近づいた。
「お帰りですか、お客さん」
「なっ.......!」
「あざーした」
樹に押し出されるように、客の男は深い紅色の扉をくぐって出て行った。扉を閉めてからも、外からだんだんと扉を叩く音がしたが、ユキも樹も意に介さなかった。
「主人、ありがとうございます。売らないでくれて」
「.......」
魔女は口をへの字に曲げ、腕を組み考え込んでいた。樹はまた、不安そうに眉を寄せる。
「.......
「いっくん」
「はい」
「たぶんね、アタシがいっくんを離したくなかっただけだよ、これ。目玉がどうたらじゃなくて。でアタシ、他人より長生きだからさぁ、あんまり考えたことなかったんだけど.......」
ユキは、顔を、耳まで真っ赤に染めて。
「.......樹、あなたとずっと一緒に居たい。あなたが死んじゃう時に、きっとアタシも死ねると思う」
驚いて、目を見開いた樹は、しばらくしてようやく口を開いた。ユキはもう、恥ずかしさと後悔と羞恥で泣きそうだった。600年以上生きてきて、初めての事だった。
「.......長生きします」
引きつった、それでも心からの、10数年ぶりで不格好な表情を、香港の魔女は死ぬまで忘れない。
香港の魔女 藍依青糸 @aonanishio
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