濃淡

 文章力に次いで、よく分からん。大雑把に推量して、年間で九十回くらいは分からんと叫んで背もたれを軋ませておる。というか、現在進行系で新作の手が止まっておって、その諸悪の原因はこいつにある気がしている。


 濃淡というのは、まあ描写の濃淡のことです。ざっくりと変換すれば文章量と言い換えてもいいかもしらん。分からん。違うかもしれない。文章量を増やしても解像度が低いと淡い印象になるかもしれんし、その逆もしかりな気がする。


 たとえば、ヘミングウェイが書いたと噂される伝説の小説に、

『売ります。赤ん坊の靴。未使用』

 がある。本文はこれですべてです。


 まあ倒置法やら体言止めやらを駆使しして、未使用の赤ん坊の靴を売るとはどういう意味だろうかと想像させ、情感をもたらしているのである。これがまあ分からんのだ。


 エンタメ小説の創作論を読み漁っていると、大事なところはたっぷり、そうでもないところはあっさりと書けと指南していることが多い気がする。私はひねくれ者なので、もちろん疑う。


 たとえば、『その日、陰気臭い質店の店先を通りかかったとき、店主と思しき難しい顔をした老人が、ショーウィンドウに新たな商品を置くのを見た。赤ん坊の靴だった……』みたいにして、先の文章の情感を越えられるだろうか。


 文章量が増えているし、詳細が描写されているので、文字列に注意が向くのは間違いないと思う。いや、嘘を言った。よく考えると、それも分からん。読み手の特性にもよるけど、短い文章の方が注意深く読むかも。合鴨。


 最近、新作の手が止まっていて、諸悪の原因は文体のヨレにあると睨んで心のお砂箱に玉石コンコースな千字短編を乱投下している。そのなかで、まあ描写を色々と試しているのだが、濃淡と効用だけは、いくら書いても読み直しても、よく分からんのである


 最近の私は、本当に大事な、読者の感情を揺さぶりたいシーンで、文章量をむしろ減らすようになっている。別に流行に合わせたとかではない。読者が感情を動かすのに使えるリソースが減るような気がするのだ。なぜか。分からない。


 分からないなりに、たとえばモブ敵を剣やら銃やらで薙ぎ倒すときは、強さアピールしたりカッケー感を出せたりすればよいので、べったりと描写してもいいと思っている。情感やらなんやらを感じるより、脳内映画館にカッチョイイ殺陣が映ればよいからだ。


 他方、親友の首を落とすなり、銃で撃つなりなら、一文で終わらせたくなる。


 ……だって、殺陣上映会、ものすごいエネルギー使わん? 分からんけど。

 つまり、高精細の描写を脳内に再生しているときって、感情まで追っかけるほどの余裕なくないですかと言いたい。私はない。脳内ハリウッドアクション仮面はバーンドカーンアイラビューでポップコーンパクパクである。


 けど、読者的にはどうなんだろうか。


 やっぱり、親友を殺さなくてはならないような重要シーンでは、あーだこーだとうだうだ悩んで引っ張って時間をかけて、バン! がよいのだろうか。撃ったら撃ったでそれからじくじく思い悩んだりしたほうがいいのだろうか。


 売れてる小説はどっちだろうと調べてみても、どっちもある。分からんすぎる。

 

 私の脳内監督は、親友が主人公の向ける銃口に気付くカットを撮ったら、次は親友のアップ、主人公のアップ、親友「なあ、ちょ――(銃声と暗転)」だ。


 分からん。わかりづらい

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