推敲

 とても大事なのは分かるが、どこまでやりゃあいいのか分からんのが推敲である。

 ウェブ小説だと締切も紙幅の限りもないので忘れ去られがちだが、公募の世界に身を堕とすと実は何よりも重要だったりする。これは分からなくない貴重な知見だ。


 さて、推敲とは、唐の時代、科挙を受験しにきた詩人さんが思いついた一句のうちの、『推す』か『敲く』かで迷ってるうちにドジっ子キメて友達ができたという寓話から、同じ文章を練り直す作業をいうとされている。


 で、わりと勘違いされているが、推敲=誤字脱字チェックならびに言い回しのチェックではなかったりする。いや、もちろん、そういう側面もないわけではないが。


 推敲にはいくつかの段階があって、よく木の手入れひいては盆栽に例えられる。

 まず幹や全体の形となる構成に始まり、枝の文章表現、葉っぱの誤字脱字、てな具合である。まあ見りゃ分かる通り、大きいとこからやったほうが合理的……に見える。絶対ウソである。いや、分からんけど。わからんけどメチャ嘘くさい。


 というのも、経験上、エンタメ系公募の構成というのは大枠でページ配分を意味していて、配分を整えるなら枝いじるし、誤字脱字チェックもしちゃうからである。分からんけど、机上の合理性と実効性はまた別なのだ。できの悪いプログラムみたい。


 分からんなりに、推敲について私が知っているのは、やればやるほどデキはよくなるが、あるときを境にダメになっていくことである。このある時がどこかはよく分からない。


 ただまあ、せっかく盆栽いじりで表現したのだから、そのように想像してもらえば、年がら年中イジッてる盆栽は弱っていくくらい想像ができよう。できようとはまた偉そうな。


 ついでに言えば、どのような盆栽を愛でるかの傾向もあると気づく。これは選んだ樹(作風)の話ではなく、手に入れた盆栽(初稿)をどういう手順で手入れしたがるか、という話だ。


 まだ地球がクリティカルダメージなジーンズをカッコイイと思ってた頃、私は『物語ができるまで』という推敲過程を赤裸々に綴る露出癖じみた短編を書いたことがあって、自分の推敲に癖があると知った。本当に恥ずいので細かくは書きません。のび太さんのえっちである。


 この推敲の癖、人によって本当に千差万別で、たまに吃驚仰天びっくりぎょうてんしちゃうのは、二章三章まるごと書き直した、みたいな人がいることである。もうそれ推敲ちゃうやろと思う。いや、分からんけど。


 特別な理由があるなら別だ。思ってた以上にネタ被りしちゃったときとか枕に顔を突っ込んで叫んでも足らないし、後ろをイジってたら辻褄が合わないこともよくある。分からん。私は、よくあるのだ。だから正直キライなんですけど、やるやらないでガチでクオリティに差ができるぞよ。


 ――とは、言ったものの。

 締め切り直前まで全くやる気がでねぇのである。

 恐ろしいことに、私は自分の限界値を知ってからというもの、締切二週間前から書き出すことすらあるレベルに退廃しておる。やべえ。


 どれくらいやべえか。公募に原稿を出す二時間前に目を血走らせながら誤字脱字チェックしてるやべえさだ。残り一時間でこのページ丸々削れないかな? となったりもする。怖い。


 ただまあ、これは締切とやる気の話だから沈黙しときます。そも『〆切本』という超絶おもしろい本があるからそれを読めば元気になれますしね。


 ……あれ。

 結局、何の話がしたかったんだっけ……? 


 ――分からん。

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