この世に遍在する哀れな子羊たちについて

十巴

この世に遍在する哀れな子羊たちについて

 カーテンで閉め切られたこの部屋はまだ昼の三時だというのに暗い。机の上には食べ終わったカップ麺の容器がいくつも重なっていて、僕はそんな地獄絵図から遠ざかるように部屋の隅で一人三角座りをして容器に止まったコバエを見ていた。

 最後に家から出たのはいつかと考えてみてもすぐには思い至らない。真っ暗なこの部屋には昼も夜もない。時計は電池を変えてないのでその機能を失っている。

 窓の外から男女複数人が騒ぎ合う声が聞こえて僕は壁を思いっきり叩いた。コバエが飛び出した。外のバカたちは僕の必死の抵抗になんてまるで気づかず楽しそうに騒ぐ声をやめず通り過ぎていった。

 いつから道を誤ったのだろう。落単した時か?バイトをクビになった時か?数年前の僕が今の僕を見たらきっと軽蔑するだろう。友達もなく、恋人もなく、ただ部屋で一人すすり泣いている。大学には行かず風呂にも入らず一週間に一回近所のコンビニで低学歴に決まってる店員から嫌そうな顔で見られながらカップ麺を何個も買う。コンビニに売っていない日用品は宅配で頼み、部屋の惨状に顔を引きつらせる配達員から荷物を受け取る。

 寂しい。生きる場所が欲しい。仲間が欲しい。何かすがるものが欲しい。支えさえあれば僕はもう一度日の下で精力的に活動できるはずだ。楽しそうに生きているやつらが羨ましい。僕だって楽しい日々を送りたい。家から出たい。引きこもる生活はもう嫌だ。

 すすり泣いたまま一時間は経っただろうか。唐突に玄関のチャイムが鳴った。いつもの配達だと思いドアホンの画面を確認するとそこに映っていたのは普段の僕なら声をかけることすらためらうような美しい女性だった。

「少しお話があるんです。出てきていただけませんか?」

 どういうことだろう。僕にあんな美しい女性の知り合いはいない。ためらいはしつつも彼女をこのまま追い返すのはなんだかもったいない気がして生え散らかした髭をうとましくさすりながら玄関に行きドアを開けた。

 白いワンピースに麦わら帽子。一言で表すなら清楚って感じ。僕に向けた優しい笑顔は地獄みたいな場所にいた僕への侮蔑みたいなものはまるで感じられなくて、僕はああ天使がいるのならこんな姿だろうなと思った。そんな僕の心を読んだように彼女は

「天国にご興味はおありですか?」

と言った。

 しまった。宗教の勧誘か。出るんじゃなかった。みんなキョウソサマとやらに騙されてるのに気づかない哀れな連中だ。程度の低い奴らだ。この美しい女性もその一員なんだ。どうせ低学歴に決まってる。そのまま思いっきりドアを閉めてやろうと思ったが純粋そうな彼女の顔を見ているとそんなことはできなくて、僕はいつの間にか口を開いていた。

「僕はあまり興味はないんですが……あなたはどんなところに惹かれるんですか」

「それはですね!今世の中にはつらいことがいーーっぱい溢れてるじゃないですか?でもですね?天国はそのようなことが一切ないんです!辛いことなんて何もなくて、みんなが幸せで、誰もが心の底から分かり合える世界……そんな世界が天国なんですよ!」

根拠のない妄言だ。心の底まで堕落しきっている。やはりバカという認識で間違いなさそうだ。

「それは素敵な話ですね。でも僕は大丈夫です。いろんな人に支えられて十分楽しく生きていますから」

「そうですか……でも私たちの同志になってくれないのは残念ですがあなたが幸せなのは喜ばしいことです!どうかいつまでも幸せにいてくださいね」

そう言う彼女は来てから今までその優し気で抱きしめたくなるような柔らかな笑みをずっと絶やすことなくうかべ続けていた。幸せそうで、満たされていて、虚勢を張った自分が途方もなくみすぼらしく思えた。気づくと僕は、

「ありがとうございます。あなたもキツイ言葉を投げかけられるかもしれませんが勧誘頑張ってくださいね」

だなんて笑顔で言っていた。

「こちらこそありがとうございます!でも大丈夫ですよ。周りからどんなにつらいことを言われたってそれも神様が与えた試練ですから!それではさようなら!」

彼女が驚かないようにゆっくりとドアを閉める。僕が彼女が完全に立ち去ったと確信した後、一瞬だったとは言え数週間ぶりににぎやかになった玄関先にむなしく鍵を閉める音が響いた。

 部屋に戻っていく。一目見ただけでわかる。ここは堕落した人間の掃き溜めだ。一歩進むと彼女の笑顔を思い出す。彼女は幸せそうだった。もう一歩進むと何かの腐ったような悪臭が鼻に刺さる。さらに一歩進むと何もなかったかのように飛び回るコバエが目に入る。僕は机を思いっきり蹴飛ばした。

 怒りが体に満ちていくのを感じる。僕はおもむろに性器に手を伸ばす。

 彼女の裸体を想像した。幸せだと言った彼女が僕の前で乱れるのを想像した。幸せそうな彼女が、僕より幸せそうな彼女が許せなかった。彼女のきっと柔らかい体を抱きながら天国なんてないんだよと囁く自分があった。彼女は、その通り、私どうかしてました、あなたが好きですと言い僕に熱く接吻した。僕の方が幸せだという言葉が頭の中でぐるぐる回る。僕は今彼女に試練を課している。男性から性的な目線を向けられるという苦行を。これは彼女の望んだことで、僕には全くの非がない。彼女は詐欺師に騙される愚かな弱者で、僕よりも価値がない。そうに決まっている。そのまま僕と彼女は固く抱擁し合い、僕は机の上に思いのままに射精した。

 

 我に返ると、真っ暗で、ゴミの散乱した汚らしい精子の飛び散った部屋に僕はいた。僕は何か大変なことをしてしまったような気がしてごめんなさいと何度もつぶやきながら部屋の隅にうずくまった。そのまま溢れ出る涙も拭わずに泣き続けた。コバエが机に止まった。

 





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この世に遍在する哀れな子羊たちについて 十巴 @nanahusa

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