§041 氷禍
俺はシエラ・スノエリゼと名乗る少女が頭を垂れた瞬間、駆け出した。
いや、駆け出しているはずだった。
しかし、動かない。
身体が鉛のように重く……一歩たりともこの場から移動することができなかったのだ。
「――ぐっ。なんだこれ」
「ジルベール様。か、身体が……動きません」
「逃げようとしても無駄ですよ。この場は既に私が支配する空間です」
ゆっくりと頭を起こしたシエラが微笑みを浮かべながら言う。
「……な、何をした」
必死に身体を動かそうとするが、四肢がピキピキと音を立てるばかり。
もしこのまま身体を動かそうものなら、下半身がもげてしまうのではないかと思うほどの物理的抵抗を感じる。
降り出した雪は刻一刻と強くなる。
辺りがうっすらと雪化粧し始め、気温もぐっと低下した。
俺の
季節を冬に変える魔法? 雪を降らせる魔法? 冷気により行動阻害を行う魔法?
様々な憶測が立つが、こんな魔法は見たことも聞いたこともなかった。
冬の訪れを感じる。しかもそこらの冬なんて生温いものではなく、寒冷地の極寒の冬。
まさにそんな魔法だった。
これがこの厄災司教『氷禍』シエラ・スノエリゼの固有魔法なのだろうか。
その底知れぬ力に、俺は恐怖を感じずにはいられなかった。
「何をした……と問われましても、そうですね。私はレリア様とお話がしたいのですが……まあいいでしょう。どうせ貴方達はこの場から動けません。少しの間、お付き合いいたしましょう」
穏やかな口調でシエラはそう言うと俺の方に視線を向ける。
「――
「…………(かはっ)」
俺は声を発しようと口を開けようとしたが、その直後、凄まじいまでの冷気が喉奥まで流れ込む。
結果、声帯は震わず、代わりに乾いた咳をしながらむせかえってしまった。
そんな俺を見てシエラは愉しげに笑う。
「ふふ。貴方が問うてきたのでしょう。つれない方ですね。――絶対零度。それすなわち全ての原子振動が停止することを意味します」
「……すると……どうなる……んだ」
俺はなだれ込む冷気を極力吸い込まないようにしつつ、どうにか声を絞り出す。
「全てが静止した世界の到来ですよ」
愉悦に満ち溢れたその言葉に俺はゴクリと唾を飲む。
「誰も動くことが叶わず、ただ朽ち果てるのを待つだけの一切の穢れのない静謐な世界。私の
発動起点? なるほど。だからこの場での詠唱が無くとも魔法が発動していたのか。
「……起点は……ここじゃ……ない……んだな」
「察しがいいですね。発動起点は創造の六天魔導士が陣取っていたこの森の中心地。この意味が貴方にわかりますか?」
「――――!」
「ふふ。そういうことです。創造の六天魔導士は私の力の前に倒れ、今やこの森全体が私の魔法の射程圏内なのです。随分と冷え込んできたでしょう? 身体が思うように動かないでしょう? もう詠唱すらままならないでしょう? この場所ももうすぐ冬の世界に変わります」
そう言って喜色満面の様子で両の手を軽く広げるシエラ。
まさにシエラの言葉のとおり。
現に俺達はシエラの魔法で身動きは取れず会話もままならない状態。
凍てつく寒さと恐怖によりレリアの身体はガタガタと震えている。
先ほどまでは雪化粧だったはずの周囲の景色も、既に足が埋没するほどの積雪。
手足もどんどん冷たくなっている。
「ただ、このように一方的に蹂躙するのは私の趣味ではありません。そこで貴方に決断の機会を与えましょう」
「……決、断? 何の決断だ」
「創造の六天魔導士は助けにきません。もちろん貴方の力じゃ私には勝てません。ただ、私も聖職者の端くれ、無駄な殺生は好みません。そこで……です」
シエラは感慨深く瞑目すると、まるで神が俺達に慈悲を与えるかのようにそっと両手を差し出す。
「今すぐにレリア様を渡してくださるのであれば、この森にいる若人を含めて、貴方達を殺さないと約束しましょう。どうですか?」
突如、突きつけられる選択。
自分の能力を事細かに開示した上での提案からシエラの余裕が伝わってくる。
まさに横綱相撲の貫禄といったところだ。
様々な情報、情景、選択肢が脳内を駆け巡る。
俺がレリアを渡せば人質となっている俺を含めた一〇〇〇人の受験生の命は助かる。
他方……俺がレリアを渡さなければ……彼女らは殺戮の限りを尽くすだろう。
全ての受験生の命は俺の選択にかかっている。
その選択の重みに、心臓は早鐘のように鳴り響き、極寒の寒さだというのに額には汗が滲む。
「……どうされました? 私に対話を求めてきたのは貴方ですよ。ゆえに貴方には私の問いにも答える義務があります」
押し黙る俺に対して、答えを急くようにわざとらしく小首を傾げるシエラ。
俺の返答一つで変わってしまう、全く異なる二つの未来。
「…………」
けれど、そもそも考える必要などなかった。
俺が選ぶべき未来は最初から決まっていたのだから。
俺の心の中心にあるもの。
最も大切で、どんなことをしても守りたいもの。
――それはレリアの笑顔だ。
猛烈な吹雪が吹きすさぶ中、俺はキッと視線を上げる。
「――
途端、俺とレリアの周囲に無数の『魔法陣』が顕現する。
「――これは」
シエラの水色の双眸に真っ赤な炎が映りこむ。
勢いよく立ち上る複数の火柱。
冬の世界に、炎の世界が混ざり合う。
俺はその勢いのまま炎の壁を大量に生産。
幾重にも顕現した火柱によって周囲の気温が上昇する。
それに伴って、身体を覆っていた凍結の氷粒が霧散した。
同時にシエラを睨みつける。
「俺の固有魔法【速記術】は詠唱無しで魔法を展開できる。お前の魔法による詠唱阻害は効かない」
「…………」
「俺は約束したんだ。レリアを守ると。レリアの笑顔を奪う者――シエラ・スノエリゼ。俺はお前を倒す――」
俺の精一杯の決意の言葉。
しかし、シエラは俺の言葉にもほとばしる炎にもたじろぐことなく、ただ遺憾とばかりに嘆息する。
「ふぅ。少々言葉足らずであったことをお詫び申し上げます。レリア様を『守る』。大いに結構です。私はその気持ちを無下にするつもりはありませんし、むしろ尊重します。だって私は貴方がレリア様を渡そうが渡すまいがレリア様に危害を加えるつもりはありませんのですから」
そう言ってシエラは長い睫に縁取られた瞳を伏せる。
「ゆえに貴方の言う『守るために渡さない』というのは失当です。私が聞きたかったのは『守る』などという意思の話ではありません。レリア様が安全にこちらに渡ることを前提とした上で、全員助かるか、全員死ぬか。そういう極めてシンプルな話をしているのですよ」
一切のブレもなく、自分の主張を淡々と述べるシエラ。
「……それでも俺は――」
「――ジルベール様。待ってください」
真横からの声。
俺の言葉を遮ったのは、他でもないレリアだった。
白い息を吐きながら、鉛のように重くなった身体を引きずって一歩前へと踏み出すレリア。
その肩は恐怖と寒さで震え、声は今にも泣き出しそうなほどにか細かった。
でも、レリアは言った。
「シエラ・スノエリゼ様。提案があります」
「……提案ですか?」
「はい。――私と『約束』をしてください」
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