§022 世界奉還
俺は、風が吹き荒び、空気が震え、大地が揺れた刹那、何か只ならぬ気配を感じ、後ろで地面にへたり込んでいる……はずだったレリアの方に向き直る。
そこで俺の視界に飛び込んできたのは、悲痛な表情を浮かべながら、魔法を……詠唱を……謡うレリアの姿だった。
「闇精霊魔法――【
彼女がそう口ずさんだ瞬間、地面から漆黒の闇の炎が瞬く間に立ち上った。
間欠泉を思わせるほど勢いよく噴射された漆黒の炎は、主の下へ集うかのようにレリアを包み込んでいく。
晴天だった空は黄砂をまき散らしたかのように黄褐色に煙り、所々で雷鳴も轟いている。
さながら、俺の目に映ったのは地獄絵図そのものだった。
俺はそのあまりにも衝撃的な光景に、無意識のうちに目を見開いていた。
この魔法を構築したのが彼女だということは、かろうじてわかった。
しかし、これが何の魔法なのか、俺の持ち合わせた知識では到底理解できなかった。
レリアの身体はゆっくりと地面を離れ、磔にされるが如く宙で止まる。
レリアを中心に展開された直径数メートルの漆黒の闇は、時間とともにその濃度を増し、彼女を更なる闇へと落としていく。
最初はしっかりと確認することができたレリアの表情さえも、着実に闇の炎に覆い隠されていった。
「……レ、リア」
……助けなきゃ。まず一番にそう思った。
この危機としか言えない状況に、俺はスコットに向けていた足を即座に反転させる。
このままレリアをあの闇の炎の中に閉じ込めておいては取り返しのつかないことになる。
俺の脳が……肌が……直感が……全力でレリアを救い出せと訴えかけていた。
吹き荒ぶ風に立ち向かうべく、可能な限り姿勢を低くし、思いっきり腱に力を込める。
「……ぐはっ」
しかし、まるで俺の決意を嘲笑うかのように、強烈な衝撃波が俺達のいる空間を疾風の如く突き抜ける。
中庭にあった獅子の噴水は脆くも崩れ去り、瓦礫が散弾のように飛び交う。
地面を覆うアスファルトは重力に逆らうように上空へと持ち上げられ、等間隔に植えられている樹木なんかへし折れんと必死に身体をしならせている。
後方のスコットはハァーハァーと過呼吸のような荒い呼吸をしながら近くの瓦礫に必死にしがみついていた。
どうやらスコットの周りにいた取り巻きはこの暴風で遥か後方に飛ばされたようだ。
一方の俺の身体はというと、転倒は免れたものの、レリアには一歩も近付くことができずに、じりじりと後退を余儀なくされた。
断続的に続く暴風に目を開けていることすら苦しくなり、右腕を盾にどうにか視界を確保する。
辺り一帯を吹き荒れる暴風は、まるでレリアが俺達を拒絶しているかのように止むことなく更に激しさを増す。
その時、ふとある違和感に気付いた。
『常闇の手枷』が発動しないのだ。
衝撃波によって後方に飛ばされた結果、俺とレリアとの距離は優に三メートルはある。
本来であれば常闇の手枷の効果により、レリアが俺の下に引き戻されてもおかしくない距離だ。
俺は薄目を開けて常闇の手枷の存在を確認する。
すると、左手には確かに常闇の手枷が顕現しているのが見て取れた。
しかし、様相は普段と少し違っていた。
俺とレリアを繋ぐ鎖の部分。
普段は重厚な金属のような様相なのだが、今はか細い光を放つ糸のような状態になっていたのだ。
おそらく、レリアの発動している魔法が常闇の手枷の力を上回っているのだろう。
どんな物理攻撃も魔法攻撃も跳ね返してきた常闇の手枷。
その力が今や糸一本で繋ぎ止められているほどに弱まっているのだ。
そうなると、この魔法の威力は一体如何ほどのものなのだろうか。
そんな思考をすると、身体が強張ってしまう。
俺はもう一度レリアに目を向ける。
魔法の構築を維持するかのように両の手を軽く広げたレリア。
彼女に表情はない。
サファイアのような瞳にも普段の透明感は無く、黒く濁り、光沢は失われている。
レリアの瞳はこちらを確かに向いているのだが、おそらく彼女の視界には俺は映っていないのだろう。
半狂乱という言葉が適切なのかはわからないが、今のレリアは自分が自分であることをわかっていないように見えた。
レリアがどうしてこんな魔法を発動させてしまったのかはわからない。
でも、スコットの言葉がトリガーとなってしまったことは明白だった。
俺はまたしても自分の判断の遅さを責める。
あの時……俺が躊躇わなければ……。
「レリアぁぁああーーー!!!」
俺はたまらず声を上げる。
しかし、俺の咆哮も虚しく、衝撃波により俺の身体はどんどん押し戻される。
それに伴って常闇の手枷の糸が少しずつ細くなっていくのがわかる。
このまま後退すれば常闇の手枷はいずれ緊張した糸のようにプツンと弾けるだろう。
常闇の手枷は呪いだ。
本来ならそれでいい。
勝手に消えてくれるなら願ったり叶ったりだ。
でも……今は違う。そう思うのだ。
あれほど解除したかった常闇の手枷だが、この糸が切れてしまったら…………もう二度とレリアの隣にはいられないような気がしたのだ。
俺は決死の思いで前へと足を踏み出す。
頼む……レリアのところまで……。
もう目は開かない。足にも感覚はない。
ただ、レリアを助けたい一心で前へ前へと進む。
「……レ、リ……ア」
しかし、もう限界だった……。
俺の身体は暴風に足元を掬われ、そのまま濁流に飲まれるが如く吹き飛ばされかける。上下左右の感覚を失い、意識が飛びそうになる。
――それとほぼ同時に、この世界の終わりのような場面に似つかわしくない声が聞こえた。
それは……
「――世界創造魔法・【
直後、俺は確かに見た。
レリアが舞う地点の上空に直径数十メートルはくだらない超大型の『魔法陣』が顕現するのを。
全ての闇を浄化するかのような、白を通り越した無色透明の光を放つ魔法陣。
迷路のように入り組んだ紋様に、幾重にも折り重なった魔術式。
俺の固有魔法【速記術】を以ってしても、完成させるには相応の時間を要しそうなほどに壮大で、荘厳で、見事なものだった……
……次の瞬間、風が止んだ。
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