第13話疑問と和解
瀬美がタダシを飼ったその日の夜。
蝶次郎は夢を見ていた。
それは荒唐無稽で支離滅裂な内容ではなく、鮮明かつ強烈な過去の出来事だった。
「蝶次郎。武士というものは強くあらねばなりません」
木でできた稽古用の薙刀を構えながら、姉のさなぎは言う。
蝶次郎が持つ木刀の剣先は震えていた。目の前の姉が恐ろしいと感じていたからだ。
四才の自分に、四つ上のさなぎが手加減なく打ち込んでくる。
男女とはいえ、姉のほうが力が強く、それでいて手加減が無い。
「さあ、戦いなさい」
ちょうど『二十年前の物の怪』で父の鎌三郎が亡くなった頃から、姉の苛烈な教育が始まった。母は父の死以降、精神的に不安定になり寝込むことが多かった。だからさなぎは弟を自分一人で育てようと決めたのだろう。
しかし物心ついたくらいの蝶次郎にしてみれば、さなぎの鬼気迫る熱心な教育は、苦しく厳しいものだった。逃げ出したいと思うことが何度もあった。そのたびにさなぎは逃げてはならないと諭した。今の蝶次郎がやる気が無く、能力を発揮できないのは言葉を選ばずに言えば、幼少期のさなぎの教育のせいだろう。
「どうしたのです。打ち込んできなさい」
八才のさなぎは父の死や母の病というどうしようもないことを、弟の面倒を見ることで逆に目を逸らしていたのかもしれない。姉が死んでから蝶次郎はそう考えることにしたのだけど、真実は分からない。もしそうだとしたら、姉のさなぎが一番現実から逃げていたことになる。
これは蝶次郎の勝手な推測だが、姉も両親の死や病でどこかおかしくなっていて、自分を正常に保つために、弟を立派に育てることに集中していた――それならばいくらか蝶次郎はさなぎを許すことができた。生前は強い姉という印象しかなかった。でもその強さが見せかけのものだとすると、不思議と同情を覚えた。
けれどもこれは蝶次郎の推測である。さなぎはまともな頭で蝶次郎を立派に育て上げようと考えていたのかもしれない。結果的に逆効果だったのは否めないが、それでも幼い姉が軟弱な弟を強い武士にしようとしたのは、決して悪意からではなく、善意からだ。
「……あなたは強い武士になるのですよ、蝶次郎」
さなぎが無邪気に笑ったところを、蝶次郎は見たことが無い。理不尽に怒ったことも無ければ、感極まって泣くところも見たことが無い。感情を殺していつも無表情だった。でも、蝶次郎が泣きながらさなぎに打ち込んで、それをはね飛ばしたとき、姉はまるで自分が痛い思いをしたように顔を歪ませたのを弟は見ていた。
「大事なものを守れる、武士になるのです」
その大事なものは、蝶次郎にとって家族だった。
しかし十六才のとき、紅蓮の炎で全てを失った。
何を守ればいいのか、そもそも何が大事なのか。
姉のさなぎに代わって、教えてくれる者は、誰一人いなかった。
◆◇◆◇
「おはようございます。蝶次郎様」
「……ああ、おはよう」
瀬美の機械的な挨拶に、蝶次郎は眠気眼をこすりながら応じた。
蝶次郎が上体を起こすと、犬のタダシが胸の中に飛び込んでくうんと擦り寄った。
「タダシ。蝶次郎様から離れなさい」
「いや、別にいい……野良犬なのに人懐っこいんだな、タダシ」
タダシの頭を撫でてから、瀬美に手渡す蝶次郎。
彼女の胸の中で嬉しそうに鳴くタダシ。
「私は人ではありませんが、それでも懐くものですね」
「犬は大事に思ってくれる者に懐く。それは人でも絡繰でも変わらないさ」
「不思議なものですね」
蝶次郎が身支度を整えて、朝食を食べている間、タダシは瀬美が用意した餌を食べる。瀬美は相変わらず何も食べない。蝶次郎は少し疑問を持ったが、起きたばかりで頭が回らなかったので、何に疑問を思ったのか、判然としなかった。
「それじゃ、勤めに行ってくる」
「いってらっしゃいませ、蝶次郎様」
もはやお決まりとなったやりとりをして、蝶次郎は城へ向かう。
手早く掃除を済ませた瀬美は、蝶次郎の着物を洗濯しようと、長屋で共同に使っている井戸に洗濯物を持っていく。そこでおしゃべりな女三人、おもんとおしろとおちょうと合流した。
「瀬美さん! 今日も精が出るわね!」
「あら、そっちの子は新顔ね!」
「飼い始めたの? 可愛いわあ!」
瀬美の後ろについて来たタダシを見て、やかましく声を上げる三人。
タダシは瀬美の足元に擦り寄りながら不安そうにしている。
「大丈夫ですよ、タダシ。この方々はお優しいですから」
「あらやだ! お優しいだなんて!」
「照れちゃうわね!」
「この子、タダシって言うの?」
瀬美が飼い始めた経緯を説明すると、三人は感心したように頷いた。
それから飼ってくれる知り合いはいないと口を揃えて言った。
「みんな懐が淋しいのよ。何せ税が増えたから」
「まったく。年々増してくるから嫌になるわ」
「それもこれも、お殿様が……いえ、何でも無いのよ」
瀬美のデータにはないが、天道蛾虫――天道藩の藩主だ――の浪費癖は有名だった。始めの頃は先代を『二十年前の物の怪』に殺された衝撃で、おかしくなったと同情する者もいたが、今では暗君として知られている。幼き頃は聡明だったと家中の者は溜息をついていた。
「青葉様は武士なだけに余裕があるそうね。仔犬とはいえ、飼えるんだもの」
おちょうは皮肉で言ったわけではない。ただ事実を述べただけだが、瀬美がいずれタダシを飼いたい者がいたら速やかに譲ろうと思考するのに十分な一言だった。
瀬美はしゃがんでタダシの頭を撫でた。
タダシはきょとんとして尻尾を振った。
◆◇◆◇
洗濯物を終えた瀬美は、タダシに首輪と紐を付けて外に出た。
瀬美には運動など必要ないが、犬に散歩させたほうがいいとデータがあったので、そうしたのだ。
目抜き通りをタダシと一緒に歩きながら、瀬美は周りの光景を見ていた。
それなりに活気はあるものの、藩の中心の通りであるのに、人が少なかった。
重税に苦しんでいるとまでは言わないが、財布の紐がきついのは確かだった。
「あ、瀬美さんだ。たま姉さん、瀬美さんだよ!」
子供の大声に振り向くと、そこにはとん坊とたまがいた。
たまが恥ずかしそうにとん坊の背中に隠れているのと対照的に、とん坊は笑顔で手を振った。
瀬美がゆっくりとタダシと共に二人に近づくと、とん坊が「ほら。言いなよたま姉さん」と促した。
「えっと、心の準備が……」
「もしかして緊張しているの? でも言わないと駄目だよ」
「わ、分かっているわよ!」
どっちが年長者なのか分からないやりとりを瀬美は黙って見つめていた。
たまは深呼吸して、瀬美と目を合わせた。頬が少しだけ赤くなっている。
「た、助けてくれて、ありがとう!」
瀬美は目の前の少女の感謝を聞いて「たまさんがご無事で何よりです」と機械的に答えた。
「もう元気に動けるみたいですね」
「そ、そうね。父さんからも回復が早いって言われたわ」
「本当に良かったと思います」
「……瀬美さんは、どうして私を助けたの? 下手したら死んじゃうかもしれなかったのに」
父の源五郎は曖昧に言ったが、冷たい水中を泳ぐのは命の危険に関わることだった。
たまは瀬美が人間ではないことに気づいていない。父や蝶次郎からは聞かされていなかった。だから普通の人間であると思っている瀬美が、命を懸けて助けてくれたことが不思議だったのだ。
「助けるべきと判断したので、助けただけです」
瀬美の素っ気無いとも取れる理由に、たまは目を丸くして「たったそれだけの理由なの?」と訊ねた。
「他に理由とか、ないの?」
「ノー、ありません。それではいけませんか?」
「いけないって、わけじゃないけど……」
ますます瀬美のことが分からなくなったたま。
しかし、タダシが瀬美に擦り寄って鳴いたとき、彼女が優しく犬の頭を撫でたのを見て、ああこの人は優しいのねと感じた。同時にこの人なら蝶次郎様を取られてもいいとさえ、思った。
「瀬美さん。私、たまって言うの」
「イエス。存じております」
「ううん。きちんと自己紹介させて」
たまは自分ができる飛びっきりの笑顔で瀬美に言った。
「これから仲良くなれたら嬉しいわ! よろしくね!」
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