【11話】ぽくぽくちーん

まるでここには初めからいなかったかのように、リコが消えた。目の前にある彼女の痕跡はリコが着ていたピンクのシャツと革のブーツだけ。ほかには何もない。自分は頭がおかしくなってしまったのかとも思ったが、彼女のシャツを握るとほんの少し温かくて、確かにリコがここにいたということが伝わってきた。


そうしてしばらくボーっとしているとだんだん冷静になってきて、もしかするとリコは転移したのかもしれないと思えてきた。彼女は学校の制服姿で転移してきて、今目の前にはこの世界由来の物であるシャツとブーツだけが残されているからだ。


「……リコ」


彼女のことも心配だが、いよいよたった一人、リコの想定通りの最悪の状況になってしまった。これまで得たヒントを頼りに脱出するしか生き延びる術はない。そう思って鉄格子に近づいた時、背後から聞き覚えのある声が聴こえて振り返った。


「あ、う、う……」

「り……っ!」


リコだ。たった今消えたはずの彼女がもう目の前に現れていた。頭を押さえたまま座り込んで苦しそうな表情をしていたので、また近くに駆け寄った。


「だ、大丈夫かっ?」

「少しだけ、頭が……」

「痛いのかっ?」

「はい……。あ、もう大丈夫……、大丈夫です。なんともなくなりました」


すぐにケロリとした様子になって安心したが、未だに目の前で起きたことが信じられなくて、ついジロジロと彼女を眺めてしまった。

黒いショートカット、メガネ、ヒラヒラのスカート、黒い靴下、まぎれもない。彼女だ。


「たしかに、リコだよな……。ちょっと触っていいか?」

「え?あ、はい……って、ぅああぁあっ!」


背中に氷でも入れられたような悲鳴を上げて、リコはその場に落ちていたシャツで胸元を隠した。


「んなっ、なんで女の子の下着姿をジロジロ見てるんですかっ!?」

「いや、本当にリコかどうか確かめないといけないから。何せ突然消えてまた突然現れたんだ。魔獣が化けているのかもしれない。よし、任せろ」



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルという作曲家は、人間的で明朗な楽曲を数多く手掛け“音楽の母”とも呼ばれているらしい。男性であるにも関わらずだ。つまり彼の作った曲を表現するに当たって女性特有のイメージというのがぴったりだったということなのだろう。それほど女性というのは周囲の者に活力を与え、場の雰囲気を明るくするものなのだ。だから、例え頬に平手の跡をつけられようとも俺の心は脱出への希望に満ちていた。


「なるほど。やっぱり転移だったわけか」

「はい。気が付いたら自分の部屋の中にいて、書きかけの小説の中身を調べようと思ってノートパソコンを開こうとしたら、またここにいたんです」

「前回と状況が同じってことか。もしかするとリコのノートパソコンが転移の鍵になってるのかもしれないな」

「そうなると、ストーリーはやっぱり自分で思い出すしかなさそうですね」

「ああ。この、扉さえ開けばなあ……」


鉄格子の一カ所には出入り用に鉄製の小さな扉が設けられていた。体当たりをしてもびくともしないものだったが、扉に一番近い格子の隙間から腕を伸ばせば辛うじて鍵穴に触れることができた。


「せっかく転移したのなら、私が牢屋の外に出現していれば良かったんですけど……」

「初回は別として、案外転移ってのはまったく同じ場所で出たり消えたりするものなんじゃないか?向こうの……リコのいた世界でも同じ部屋に居たってことだし」


どうにかしてリコにまた転移してもらって牢屋の外に戻ってきてもらう、という方法も考えはしたが、現状では転移の法則も分からないし、何よりリコの身体に負担をかけてしまう気がして試したいとは思わなかった。


「それにしても、もうかれこれここに入ってずいぶん時間が経つとは思うけど、人の気配がぜんぜんないな。看守の一人も見かけやしない」

「かんしゅ……って、何ですか?」

「あれ、知らないか?囚人が逃げないか見張ったりする兵士のことだけど。ほら、誰も見てなかったら、鉄のスプーンとかで穴を掘って逃げたりするかもしれないだろ」

「……おぉ。なるほどぉ」

「リコはこの世界の神様なんだろ。しっかりしてくれよ……、あ、いや。しっかりしてたおかげで脱出ができなくなってるんだっけ」


リコが手をポンと叩いているのを見て、この牢屋がリコのイメージの産物であるということを思い出した。つまり、リコが“牢屋には見張りがつきものだ”と思っていなかったとするなら、ここには永久に見張りの兵士はやって来ないことになる。前世の俺が映画かなにかで観た“看守が鍵の束を指でクルクル回しながら囚人いびりにやってくる”なんて光景も絶対にないわけだ。


「そうだ、鍵……。リコ、この鉄格子の扉の鍵って、どこにあると思う?」

「牢屋の鍵だったら、たぶんここの近くに置いてあるとは思うんですけど……。出口?の近くとか……」

「近くか……。そうか、よし、よし」


リコがそう言うならそうなのだ。見張りがいなくて、この近くに鍵が保管されている。その鍵をどうにかして手に入れることができれば、あとは鉄格子の隙間から腕を伸ばして扉を開けられる。ほかにもリコから情報を引き出したいところだが、なかなか良い質問が思い浮かばない。なんだか“YES”、“NO”、“関係ない”で回答する水平思考クイズでもやっている気分だ。


「リコは、なんでこの牢屋が脱出できないって思ったんだ?」

「それは、ええと……。例えば、ビー玉が入ったコップに金網を乗せて、逆さにしてもビー玉は落ちませんよね。コップと金網が絶対に壊れないなら、それはもうビー玉を外に出す方法はないと思うんです」

「ふぅむ……」


何度も言うが、リコがそう思うのならこの牢屋だって同じなのだろう。絶対に穴の開かない箱に、絶対に壊れない鉄格子がはまっているのだ。だから見張りの兵士も必要ないし、出入り用の扉は鍵で開ける必要がある。


「一応、尋ねるんだけど、そんなコップからビー玉をどうにかして出すとしたら、リコならどうする?」

「ええっ!?……えぇー……。うーん……」


リコは考え込むように牢屋の中を行ったり来たりし始めた。きっと彼女は、この物語を作ろうとした段階で同じような仕草をしたことだろう。


「これは……一休さんですね。アタマを柔らかく……柔らかく……」


ついにリコは両方の人差し指で自分の頭にクルクルと円を描き始めた。それがどこかで見たようなポーズだったのでなんとなしに思い出そうとしていたら、突然リコが立ち止まってパッと顔を上げた。


「あぁっ!そうだ!ビー玉を脱出させるのは難しいですけど、“ビー玉だったもの”を脱出させるのはどうですかっ?」

「それは……砕いて脱出って、こと?」

「そうです!砕いて粉々にしたビー玉を金網から通して、コップの外に出したらまたビー玉にしちゃえばいいんです!」


こういうのを平凡な非常識というのだろうか。問題の根底から覆してしまうトンデモ回答だが、使い古されている上に現実に応用できない。鉄格子には人間の腕ほどの隙間しかないのだ。そんなところを無理やり通ろうとすると人間の身体はたちまちところてんのように細長くなって、すぐに死んでしまう。超高等の回復魔法でも使えるのであれば話は別だが、今はそんな奇跡を何乗倍もしたようなシチュエーションではないのだ。

自信満々の彼女からスーパーヒトシ君を没収しようと、ボタンに見立てたミイラの頭に触れようとした時だった。


「リコ、残念だが没収――」


リコの発したキーワードの数々が頭の中にポツポツと浮かんできた。



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