5-7


「ははは……千夏さんの言う通りです。僕は、結局逃げ続けてきただけなんだ。母さんから、物理的にも、感情的にも」

「それなら――」

「でもっ!向き合ったところで今の生活が、千夏さん達との日常がなくなっちゃうかもしれないんです!僕はそんなの、絶対嫌なんです……!」


 分かり合えるかなんて不確定だ。望みを持って歩み寄ったところで、敢えなく裏切られてしまうかもしれない。母さんのことだ、その時の気分次第で水泡に帰す可能性だってある。

 それならこのままの関係を維持して、母さんのことを見捨ててこの場所で暮らす方がよっぽどいい。


「向き合ってダメだったら、その時はその時だよ。でもやる前から諦めるのは違うと思う」

「それは、そうかもしれないですけど……」


 やる前から、何もかもを諦めてきた。母さんが導く先が正しいと盲信して、他の選択肢を諦めてきた。一人暮らしを始めた今でも、それは変わらない。

 きっとこれは、僕の悪い癖なんだろう。

 もう取り返しがつかない、幼少期から染みついてしまった――


「ねぇ、ゆーとさん」


 ――梨々花ちゃんが、僕のシャツを引っ張った。


「ゆーとさんは、ゆーとさんママのこと、きらいなの?」

「り、梨々花ちゃん……それは」


 端的に言ってしまえば「嫌い」の部類に入るのかもしれない。子供を自分の所有物、ペットのように扱ってきた恨みもある。

 だけど、全部が嫌いかと問われたら閉口してしまう。

 やり方は間違っていたのかもしれないけど、僕のことを大切に思っての行動なのは確かだ。注いでもらった愛情には恩がある。

 このまま全てを投げ捨てるのには、一抹の躊躇が残っている。


「あのね、ゆーとさんにはね、なかなおりしてほしいの」

「……どうして?君を、君のママのことを悪く言った人なんだよ?」

「うん。すっごくいやだった。でもね、けんかしたままじゃかなしいよ。りりかはね、ゆーとさんママともなかよくなりたい」


 真っ直ぐ見つめてくる、幼いながらも力強い二つの瞳。

 にごりのない、純粋で透き通った色を映している。

 今の僕のようにねじ曲がっていない、水晶の如く精彩を放つ心を形作っていた。


「りりかは、パパがいないの。あったこともないの。それがね、すごくすごくかなしいの」


 涙をこぼすものかと懸命にこらえて、梨々花ちゃんは言葉を紡ぐ。

 僕に訴えかけるように、幼い心を震わせながら。


「ゆーとさんには、かなしいおもいしてほしくない。あえなくてかなしいなんてこと、なってほしくないんだもん……!」


 その清らかな思いが、胸の奥に深く深く突き刺さった。


「……そう、だよね」


 千夏さんや梨々花ちゃんみたいに理不尽な、変えようのない現実なんかじゃない。

 これは僕の意志で変えられる、立ち向かわないといけないことなんだ。


「ありがとう……やっと、踏ん切りがついたよ」


 もう、逃げるのはやめだ。

 僕はこれ以上、母さんの言いなりにはならない。

 だけどそれは喧嘩別れなんかじゃない。やりたいこと考えていること、全部を話して自分の力で歩いていくためだ。

 そのためにも、今の生活――千夏さんと梨々花ちゃんとの暮らしを説得する。何時間、何日、何週間かかってでも自分の気持ちをぶつけるんだ。


「僕、母さんを探してきます。それから……ちゃんと向き合ってみます」

「うん、頑張ってね」

「ファイト~♪」


 二人の声援を背に、僕は玄関へと向かう。

 部屋から追い出してからずっと静かだ。どこかへ泣いて逃げていったのかもしれない。そう遠くへは行っていないとは思うけど、この都会の中では探すのにも一苦労しそうだ。

 でも、諦めない。

 絶対にやり遂げてみせるんだ。


「よし」


 ドアノブに手をかけて、勢いよく開け放つ。

 さぁ、出発だ。


 ――バガンッ!

「ふぎゃっ!?」


 なんか、すっごい手応えがあった。

 硬い物にぶち当たったような感触と、踏み潰された猫みたいな悲鳴。

 嫌な予感がしてそーっと扉の向こう側を覗いてみると、そこには頭を抱えてうずくまる母さんの姿が。金属製の扉がおでこに直撃したせいか、赤いこぶが膨れ上がっていた。


「……ずっといたんだ、そこに」

「だって、都会怖いんだもん……」

「ああ、うん。……そっか」


 気合いを入れて飛び出そうとしたのに拍子抜けだ。奮い立たせた勇気が行き場を失って、体の中でうろうろ迷子になっている。

 でも、これで探す手間が省けた。

 ……母さんに、僕の気持ちを伝えるんだ。

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