5-6


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 荒い息を吐きながらリビングに戻ると、そこには俯いた千夏さんの姿が。母さんに散々酷い言葉を浴びせられたせいだろうか。生き方そのものを否定する誹謗中傷ひぼうちゅうしょうに、気分を悪くしてしまったのだろう。


「うちの母が、すみません……。昔からあの調子で、思い込みが激しいというか……」

「ううん、いいのよ。は慣れているから」


 笑って答えてくれるけど、内心は深く傷ついているだろう。なにせ自分どころかに娘まで矛先を向けられたんだ。胸をえぐられたような心持ちだろう。

 そういえば、梨々花ちゃんは大丈夫だろうか。大人でも堪える罵詈雑言ばりぞうごんだ、幼児の心では耐えられないかもしれない。

 と思って視線を向けてみるが、予想に反して大して気にしていない様子。自分よりも千夏さんのことを心配しているみたいだ。

 懸命に生きている二人のことを罵倒するなんて。息子として恥ずかしい。このまま縁を切りたいくらいだ。


「でも……あれでよかったの?」

「何がです?」

「……お母さんのこと」


 それなのに千夏さんは、最低最悪な母さんのことを案じていた。自分と娘を責め立てた相手を気遣っているんだ。


「ほら、悪口は酷かったけど、それも悠都君のことを思ってのことだろうし……放り出しちゃってよかったの?」

「いいんですよ。むしろ今までやらなかった自分がアホらしいです」


 そうだ、アホの極みだ。

 もっと早くに自分の気持ちを吐き出していれば、もっと違う人生だったのかもしれない。友達もいっぱい出来て、色んな趣味を持って、こんな中身のない薄っぺらな僕なんかじゃなかったはずなんだ。


「僕はね、あの母が嫌で一人暮らしを始めたんです。僕のことを束縛して、思い通りの子供に仕立て上げようとして……。僕に自由なんてなかったんだ」


 思い出すだけで腹立たしい、幼少期の雁字搦がんじがらめな日々。

 遊ぶ物も友達も、自分で決めさせてもらえなかった。「正しい道を教えてあげる」なんて独りよがりなレールの上に乗せて、行き着いた先は出来損ないだ。低スペックでつまらない、中途半端な人間。しかも生みの親に反旗をひるがえすような子供。皮肉な話、お笑いぐさだ。


「だからせいせいするくらいですよ。さっきのが僕の本心、ずっと我慢してきた僕の気持ち全部ですから」

「本当に?」


 怒る訳じゃなく、悲しむ訳でもなく。

 静かに、でもはっきりと千夏さんの問いかけが耳に届いた。


「本当に後悔してない?」

「こ、後悔なんて……」

「あたしが言える立場じゃないと思うけどさ、親と会えなくなるって絶対辛くなるから」


 あんな親、こっちから願い下げだ。関わりがなくなったって、どうってことない。

 そのはず……そのはずなんだ。

 だけど、千夏さんの言葉に心が揺れ動く。自分の決断が正しかったのか、迷いが生じ始める。


「あたしってさ、シンママじゃん?しかも頼れる相手が悠都君くらいでダメダメの。っていうのもさ、あたし勘当されちゃってるんだよね」


 何となく察していた。今の生活に至るまでに、両親に助けを求められないような、複雑な関係になってしまう何かがあったのだろうと。

 だけどそれを語ってくれるなんて思いもしなかった。人に言いたくないような過去を、この僕に明かしてくれたのだ。


「一人で梨々花を育てるって言ったら猛反対されて、それ以来ずっと音信不通。多分もう、仲直りする機会はなさそうってかんじ。……だけどさ――」


 一息ついて、千夏さんは続ける。


「――悠都君はまだ引き返せるはずだよ。嫌な気持ちを溜め過ぎて、勢い余って言っちゃったのかもしれないけど、このまま離ればなれなんて絶対後悔すると思う。今からでもちゃんと、自分がどうしたいのか話した方がいいはずだよ」


 千夏さんは自分の家族に、娘――梨々花ちゃんのことを反対されてそれっきり。それに対して僕は一時的な感情の爆発。取り返しがまだつくのは確かだろう。

 でも、あの母親と向かい合える気がしない。

 正しいと思ったら一直線な、間違っていても突き進むだけの、自分中心な母さんと話し合えるとは思えない。


「無理ですよ。ずっと僕のことを縛り続けてきたんです、あの人は。今更何を話したって、自分を曲げるつもりなんてないんだ」

「悠都君はさ、一度でも自分の意志を口にしたことはあるの?」

「え……」


 「一度でも」という言葉に、びくりと肩が震える。

 思い返してみれば、僕は一度たりとも母さんに自分の気持ちを話したことがなかった。いつも顔色を窺って言われた通りのことをして、期待に応えようとするだけだった。

 反抗期みたいな、意志を見せることを何一つしてこなかったんだ。

 だから母さんの束縛が悪化していって、結果的に全部自分に返ってきてしまった。

 僕はなんだかんだ理由をつけて向き合おうとせず、逃げ回って耐えているだけだったんだ。

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