4-3


「わ~い、ゆーとさんだーっ!」


 保育室から弾かれたように飛び出してくる梨々花ちゃん。お迎えが来たらすぐに帰れるように、スモックの園服に着替えている。


「うぉっと!?」

「うわ~、びしょびしょだね~」


 そのまま抱きつかせたせいでスモックを湿らせてしまった。バスタオル一枚では染み込んだ水分を拭ききれない。ジャージで来た僕のミスだ。しかしどちらにしろ、この雨の中を歩いて帰ったら全身ビショビショ必至だろうけど。


「……他の子は?」

「ううん。もうみんなかえったよ」

「そっか。遅くなってごめんね」


 保育室を覗いてみるが、梨々花ちゃんの鞄一つがぽつんと残っているだけだ。榊先生と二人っきりで寂しかっただろう。


「ゆーとさんがきてくれたから、ゆるしてあげる~♪」

「あはは、ありがと」


 満面の笑みで抱きついたまま、ほっぺをすりすりこすりつけてくる。位置的にそこは股間なので、絵面がかなり悪い体勢だ。余計な疑いをかけられてしまうで、なるべくやめてもらいたい。


「じゃあ、帰ろっか……――と言いたいところだけど」

「あめざーざーだね」


 外は嵐と見紛うくらいに大荒れだ。園庭は水を吸い切れず、池か湖のように水が張ってしまっている。この中を帰るのは一苦労、どころか十苦労くらいはしそうだ。


「あのー、よかったらしばらく園に残ります?」


 そこで提案してきたのは榊先生だ。


「えっ。でも閉園時間過ぎてますよ……?」

「私、残ってやりたい仕事あるんで、まだ園にいる予定なんですよ。なので良かったら雨宿りってことで」

「なんか申し訳ない気が……」


 榊先生はまだ仕事があるそうだけど本当なのだろうか。僕達に気を遣っているだけなんじゃないか。そう思うと素直に受け取れない。


「いいんですよ。私だってこんな雨の中帰るなんて嫌ですから」

「う、うーん……。そ、それじゃあ、お言葉に甘えて……」


 でも結局、押し負けてしまった。


「梨々花ちゃんは何して遊びたい?」

「んーとね、ぬりえするー」


 ということで、しばらく園内で雨宿りをすることに。スマホの天気予報では、あと一時間程度したら小雨になるそうなのでそれまで待つ。もし一時間後でも天候が回復しなかったら諦めて気合いを入れて帰ろう、という約束になったのだ。

 先程から梨々花ちゃんは塗り絵に我を忘れており、僕の声が聞こえないほどに集中している。ピュアルミの絵だからかもしれない。筆圧高めにゴシゴシと、クレヨンを使った力強い塗り方だ。


「うわ、保育士ってこんなに仕事あるんですね」

「そうよ~。子供を見るだけじゃないんだから。よく遊ぶだけのお気楽な仕事だって、勘違いしている人が多いから困っちゃう」


 机の上に拡げられているのは子供達が描いた絵だ。その一つ一つを繋げていき、クラスの壁面に貼り付けるらしい。

 他に残っている仕事は工作用の教材作りに保育の計画表、日々の反省レポートまである。想像以上に山積みだ。とてもじゃないが一時間そこらで終わる量じゃない。大半は持ち帰りの仕事になるだろう。


「悠都君はさ、梨々花ちゃんとはどのくらいの付き合いなの?」


 榊先生が作業を進めながら、僕に話しかけてくる。


「えっと、こっちに引っ越してきてからずっとなんで、大体二ヶ月ちょっとくらいかな……」

「そっか、今年度入ってからなんだね。因みに私は三年くらいかな。ずっと梨々花ちゃんの担任なの」

「長いですね」

「そうだよ~。初めての仕事からずっとなんだから」


 ふんす、と鼻を鳴らす榊先生。どこか誇らしげに胸も張っている。


「三年前ってことは、梨々花ちゃんがまだ二歳くらいの頃ですか?」

「そうそう。みかん組……二歳児クラス担任の時に出会ったんだよね。梨々花ちゃんも入園したてで、お互い初めての場所におっかなびっくりだったな~」

「というと、実は泣き虫だったとか?」

「ん~、当たらずとも遠からずってところかな」


 榊先生が歯を覗かせて笑みを浮かべる。

 今の元気あり余る騒がしさからは、昔の梨々花ちゃんを想像出来ない。僕の知らない当時の梨々花ちゃん。一体どんな姿だったのだろうか。


「入園したばっかの頃ってね、みんな親と離れて泣いちゃうんだけど、梨々花ちゃんは少し違ってね。私も新米だったから、対応に困っちゃって……」


 話によると、入園直後は短い時間の保育から始めていき、段々と体を慣らしていくらしい。だけど寂しい気持ちはどうにもならず、登園時は大泣きする子供が大半なようだ。最悪お昼寝の時間にも泣き出す始末で誰も眠ってくれないこともある。聞くだけで大変そうな状況だ。


「だけど梨々花ちゃん、全然泣かなかったのよ……心配になるくらいに」

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