とあるカウンセラーの話

 ガコッ、と思いの外派手な音を響かせて缶コーヒーは取り出し口へ落ちる。手にとったそばから汗をかきはじめるのはよく冷えている証拠だ。指先に心地好い冷たさを感じながら近原は自販機の取り出し口からそれを取りあげた。

万里ばんりくんはさ」

 一足先にプルトップを開けて喉の渇きを潤している男の名を呼ぶ。男がこちらを向くのが気配で窺えた。

「死因不明、の案件に出会ったことある?」

 屋内とは言え夏の盛りの昼下がり。空調の効いていない廊下は蒸し暑く、窓から差し込む日光が強烈な照り返しとなって目に刺さる。近年の夏は冷房設備なしでは過ごし難い。冷えた麦茶に扇風機、などという夏の風物詩はもう過去の風景なのかもしれないな、ととりとめもないことを考えながら近原は買ったばかりの缶コーヒーを開けた。

 プシュッ、と小気味よい音が鳴るのと同時に、視界の端から飛んできた空き缶がくずかごへ吸い込まれていく。

「暑ぃな」

 見事なシュートを決めた男は不機嫌そうにポツリともらした。

「適度な水分補給してるかい?」

「コーヒー飲んでる奴に言われたかねえわ。水を飲め、水を」

「カフェインが摂りたくて」

「寝ろ」

 あくまでつっけんどんな物言いを崩さないこの男は近原の知人だった。仕事柄よく絡むことはあるが同僚ではない。友人、と言えるほどプライベートをともにしたこともない。ではいまは仕事中かと問われれば是とも否とも答え難く、確かにここは近原の勤務先だがお互いすぐに片付けなければならない仕事があるわけでもなく――何より男は今日非番であるらしい――さてそうなるとこの時間を何と呼ぶかいささか頭を悩ませてしまうわけで――。

 だから、なのだろうか。

 ふと、脳裏に浮かべてしまったのは。

 これも一種の現実逃避か、と近原は己自身を俯瞰的に観察した。

 男はちびちびと缶を傾ける近原の真横に立つと、

「で、何だ? 死因不明の遺体に会ったことがあるかってェ? そりゃ何べんもあるってモンだろうがよ」

 近原よりはずっと多くの死を見てきただろう瞳がこちらを見下ろす。本人に自覚があれどなかれど、黒豹のごとき大柄な男はそのわずかな所作だけで威圧感を十二分に放つ。仕事柄初対面の人間と会う機会が多いはずだが小心者であれば萎縮してしまうだろうな、などと近原は思った。男自身は直情的で義理堅いいたって善良な人間なのだが。

「この世の中、死因が特定できる遺体のほうが少ねェ。不審死でもなけりゃ解剖もされねえしな。遺族にだっておそらくだの思われますだの曖昧な返答しかできやしねェ」

 それがどうしたと言うのだ、と男は言外に語る。

「思い出してしまってさ」

「何をだよ」

「うん」

 ひとつ頷いて、ぬるくなったコーヒーを口にする。口内に広がる苦味を嚥下し、それから近原は男の質問への答えを発した。

「遺書だよ」




 近原は昔とある学校のスクールカウンセラーをしていた。

 生徒からの印象はそれなりによかったと自負はしている。世間話めいた相談から真に深刻な悩みまで、大小さまざまな話を彼らと交わした。さながら保健室の先生のような立ち位置で、近原自身も仕事への手応えを感じていた矢先だった。

 ひとりの女子生徒が自殺を図った。

 近原とは挨拶程度しか会話のなかった生徒だった。

 周囲の人間は口々に何故、どうして、と驚愕に顔を染めた。彼女と最も親しかった友人達でさえ、心当たりなどないと首を振った。

 家族も、級友も、彼女の人間関係の誰ひとり、何が彼女をそこまで追い詰めたのか、知っていなかったのだ。




「遺書があってさ」

 近原の仕事部屋へと場所を替えたふたりは思い思いに腰を下ろした。男はソファの定位置へ、近原は自身の椅子へ。

「遺書の内容はこうだ――『もし、ここでわたしが本当に息を止めてしまったら。わたしの代わりにひとつの死体が生まれて、そしてそれはきっと、『死因不明』と言われるんだろう』」

 男は黙って耳を傾けていた。近原がこういった話をする際、決まって男はそうだった。真正面から、じっ、と聞いている。

「まさしくその通りだったんだ。誰も彼女が自死を選んだ理由を知らない。いくら聞いても、思い当たるふしなんかない、そればかりで」

「いじめを隠してるワケじゃねえのか」

 近原は静かに首を横へ振る。

「学校にも、家庭にも、本当に問題はなかったんだ。よしんば隠してると疑っても、彼女達はみんな心底驚いていたよ。悲しがってもいた。あれは、たぶん嘘じゃない」

「じゃあ予期せぬところでトラブってたとかな。よくあンだよ、表に出てこない繋がりとかが」

「残念だけどそれもなかったみたいだよ。聞いた話でしかないけれど」

「昔、って何年前だよ」

「うん。僕がいまの万里くんより少し年下だったころの話」

「ああ? いまも年下だろうが……?」

 含みのない反応に思わず口元が緩む。男は出会ってからこっち、自分のほうが年上だと信じて疑っていないのだ。実際は近原のほうが二、三ほど上である。豪放に見えてその実年功序列を尊重する彼がそれを知ればいまのようなラフな物言いをあらためてしまうかと思うと、近原は訂正する気になれなかった。彼とはこれくらいの距離感がちょうどいい。

「まあ、事実として、誰も知らなかった。それを彼女は『死因不明』と言い表したんだろうね」

 特に意味もなく目の前のガラステーブルへ視線を落としながら近原は話を続けた。

「それに……それにね。僕もなんだよ」

「何が」

「僕も知らなかった。察してあげられなかった」

「そりゃお前の責じゃねぇだろ」

「まがりなりにもスクールカウンセラーだったのにね」

 あのなあ、と男は腿に拳を振り下ろす。

「お前は万能でも何でもねえンだからよ、何百人といる生徒のうちの相談されてもない悩みにまで責任感じなくていいンだよ。その生徒が周囲の人間に打ち明けられる環境になかったことと、お前がヘマしたって自分を責めるのはまったく別問題だろうが」

 叱咤されているのか激励されているのか判断に悩む強い語調はいかにも実直な彼らしく、かけられた言葉を近原は素直にありがたいと感じた。

「ありがとう。でも本題はそれじゃなくて、いや、近からず遠からずではあるんだけど」

 膝の上で組んだ指をトントンと鳴らす。確かにこれは悩みがある人間の典型的な仕草だった。我ながらわかりやすいなと内心呟きつつ近原は頭を振る。これは仕事の話でも個人的な相談でもない、ただの世間話だ。悩みというよりは――そう、思い出話。

「僕はね。彼女と親しくしてた友人グループのひとりに相談を受けてたんだ。それ自体は彼女と無関係の相談だけど、親しい仲間内ですら自殺を図るほどの変調に気づかないものなんだな、って」

「てめェのことでいっぱいいっぱいなら他人に心を配る余裕なんてないだろ」

「そうだね。間接的に話を聞いていた僕もちっとも気づかなかった」

「だから、」

「ううん、僕の話じゃない。『彼女の』話だよ」

 おそらく先ほどと同様の言葉を言い募ろうとした男を手だけで制して、続きを語る。

「彼女には予想できてたんだ。遺書にあるとおり、誰にも理由はわかるわけないと。自らを殺す、というのは肉体的な話だけじゃない。心の話でもあるんだよ。自殺なんて、精神が健やかな人間には選択肢にものぼらないはずなんだ」

「まあ、そうだろうな」

「なのにそれが選ばれてしまうほど、彼女の心は死んでしまった。彼女の言う、『死因不明』は肉体的な死因じゃない、精神的な死因を指している。家庭にも不和はなくて、学校にも仲の良い友達がいて、様子がおかしいところも何もなかった。誰にも知られなかった彼女の『死因』は、いったい何だったんだろう」

「……知られない、じゃなくて言いたくなかったンじゃねえのか。あるだろ、そういうケースも」

「あるね。でも遺書の文面からするとそれはないと思うんだ。あの遺書ににじんでいるのは――諦めだ。誰もわからないだろうという、諦め」

「身も蓋もねぇこと言っていいか」

 どうぞ、と近原は促した。

「誰だって神サマじゃないンだからよ、打ち明けもしねぇ内容をわかれ、察しろ、ってのはどだい無理な話だぜ。良好な人間関係を築いてたンなら一言でも言えばどうにでもなっただろうよ。だのに命を捨てるなんざ、最悪な選択をしやがって……まだやり直せる余地があっただろうに」

 やりきれないといった様子で男はソファの背もたれに深く身体を沈めた。

 男の言葉はいつもまっすぐで、正しくて、つよい。

「うん。それが正常な在り方だ。とても簡単な。……だけど、ひとつでもボタンをかけ違えてしまうと、とたんに難しい。万里くんの言うことは、寝たきりで点滴でしか栄養を摂れない人に、毎朝ウォーキングすれば運動不足が解消されますよ、と言っているようなものなんだ。健康な人間なら少し気を張れば続けられる。少なくとも三日坊主程度にはなれる。でも疲れ果てた人間にはもう起き上がる気力もないし、どうしてそんな簡単な方法もとれないのか、という否定にもなってしまう」

「じゃあどうしろってンだ」

「……この問題に正解なんてないよ。ないけれどね、僕は、ただ寄り添うだけでいいと思うんだよ。無闇な励ましや応援は、ときに残酷だ」

「難しいな」

「うん」

 言葉少なに頷く。

「だから、僕は」

 当時を振り返るとひやりと冷たいものが心の底を這う。しがないスクールカウンセラーでしかなかった自身に、何ができたと思い上がっているわけでもない。ないが、それは確かに近原の人生の分岐であった。

「――僕は、隣に座って話を聞こうと決めたんだ。上から手をさしのべるのではなく。同じ視点で、同じ景色を。『あなた』だけが見る、日常を」

 どれほど毎日が忙しくなろうとも心に留めてきた想いだった。

「だって、だってさ」

 他人に話すのは初めてだ。なぜ、この話題を始めたのだろう。

「自死を選んでしまうほどの『死因』を、誰にも知られないなんてあんまりじゃないか」

 顔を上げれば男の誠実な瞳とかち合う。

 おそらく、たぶん、きっと。

 彼に知っていてほしかったのだ。

 同僚でもなければ友人でもないこの男に。

「……あんたは偉いよ」

 ふっ、とどちらからともなく笑いがこぼれる。

「いつもと逆だね」

「たまにゃこんな日もある。暑さで参ってンだろ」

「……夏の日だったんだ」

「そうか」

 男の口調は荒っぽいがこのときばかりは柔らかかった。その後の何もしゃべらない時間が、苦ではなかったほどに。

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