死因不明
早藤尚
「わたし」の話
何もかもが億劫になってわたしは目を閉じた。
目覚めなければ死ねる気がした。
もし、ここでわたしが本当に息を止めてしまったら。
わたしの代わりにひとつの死体が生まれて、そしてそれはきっと、
『死因不明』
と。
言われるんだろう。
教室に行くと仲良しグループの子たちはもう集まっていた。集まる、といってもリーダー格の子だったり、人望のある子の席を自然とみんなが囲うだけで、明確な基準があるわけでもない。ないけど、わたしの席にみんなが来たことはない。
でも、そう、別に、特定の誰かをちやほやしたり、持ち上げたり、そんな仲ではなくて。みんなといる時間がわたしは好きだったし、『普通』に仲の良い、友だちグループだった。わたしたちはとりとめのない日常話を楽しく共有した。
だけど今朝は雰囲気が違った。
わたしがみんなのそばへ行くと、
「気にしなくていいよー」
「△△が気に病むことないって!」
「そうそう全然悪くないじゃん」
いつもは明るいあの子が意気消沈したようすで肩を落としていて、見慣れたメンバーが口々に彼女を慰めていた。
話を聞くと、クラスメイトとトラブってしまったらしい。ケンカ、というよりはすれ違い、のような感じにも思えたけれど、わたしは実際に見ていないからわからない。
わからないけど、あの子がとても落ちこんでいて、みんなは彼女を元気づけている。どちらがどう、みたいな原因究明じゃなくて、ただあの子を励ます。いまこの時間は、そんな時間だった。
わたしは、なんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
早く元気になっていつもみたいに楽しく笑ってほしい。そう、心の底から願ってはいたのだけど。
今朝、耳にしてしまったから。
偶然、ほんの偶然、電車のなかで聞こえてきて。
『ナニソレえっぐ!』
『私も○○ちゃんと同じふうに思うー』
『大丈夫だってアンタに落ち度はない』
嫌なことでもあったんだろう、とそのときはただ聞き流していた。誰だって、友だちが落ちこんでたら元気づけるし励ます。それだけのことだった。
だからわたしも、いま目の前で「ありがとう」って力なく笑うあの子に何か言ってあげたかった。少しでも心が軽くなる言葉をかけてあげたかった。
でもふと考えてしまったんだ。
あなたは悪くない。気にすることない。
お互いがお互いのコミュニティのなかでそう慰めるのなら。
だったら――……。
言葉に詰まる。何が適正なキャッチボールかわからなくなる。言おうとしていたプラスの想いたちが、棘だらけのサボテンに見える。
わたしは。わたしは。
……けっきょく、何もあの子に言えなかった。
見えている景色が変容するのは一瞬だった。
きっかけらしいきっかけがあったかと言われると答えに困る。
それほど心に刺さる出来事だったかと問われてもわたしは答えられないだろう。
だってそれはよくある日々のひとつでしかなかったから。
これまで何回も遭遇してきた、わたしにとっては珍しくもなんともない場面だったから。
突然だった。突然、ただ、なんとなく。
いやに、なった。
たとえばわたしがもっと上手く会話できる人間だったら。
たとえばわたしがもっと多くのコミュニティを持っていたら。
たとえばわたしがもっと。もっと……。
この胸のわだかまりを明かせる人は誰もいなかった。
言葉にもできない、整理もつかない、不良債権のような澱みだけが毎日存在を主張してきて、わたしはひどく苦しかった。
息ができない。
呼吸はできてる。
まっすぐ歩けない。
わたしはいつも通り登校している。
……友だちが笑いながら話す内容の、何が楽しいのかわからない。
わたしも同じように笑えてる。
いままでたくさん一緒に笑い合えてきたその時間が、あの日を境に、まったく知らない外国語で交わされてるようだった。
でも『わたし』は笑えてた。笑顔を浮かべて話題に入っていけてた。普段となんら変わらないわたしがそこにいた。
じゃあ、いまここで澱みに足をとられて膝をついているわたしはいったい何なのだろう? 身体中が重いの。立って、歩くのもしんどい。誰かと目を合わせるのも、誰かの話にレスポンスをするのも。
しんどい、疲れた? わたしは自問する。
疲れたなあ、って、自身を把握することすら、そう、面倒、で。気が乗らない。
『わたし』は元気に毎日を過ごせているのに。
わたし、わたしは。
「今度さー、みんなでどっか行こうよ」
どこか希薄な現実感のなか、そんなセリフが聞こえた。
「いいじゃーん。いつメン?」
「もちこのメンツでさ。あ、□□今日休み?」
「じゃあ□□にはあとで連絡しとくね」
「■■は?」
誰かがこの場にいない子の名前を出す。その子は、少し前まではこのグループで一緒に遊んでいた子だった。近ごろはあまり一緒に過ごすことがなくて、というか彼女は彼女で別の友だちグループと仲良くしてるようなので、誰も無理に誘わなくなった結果、すっかり疎遠になってしまった子だった。
疎遠、なんて。同じクラスにいるのにおかしな表現。でも本当に、少しずつ少しずつ距離が離れていっていまはもう全然親しくないただのクラスメイトみたいだ。
わたしは教室の反対側にいる彼女をそっとうかがった。窓際で笑う彼女がその視線に気づくことはなかった。楽しそうな笑い声が聞こえる。わたしたちのことなんか忘れてしまったような……と感じるのは被害妄想すぎるだろうか。
また話したいと思ってはいたけれど、もしかして迷惑かもという不安がよぎってわたしはやっぱり何も行動に起こせないまま、こうしてどんどんと『他人』になっていく。それでも、友だちだ、という気持ちはわたしのなかで確実に存在するのだけど、でもやはり、空いた距離に二の足どころか一歩めの足も踏み出せなかった。
「あー■■はね」
仲良くしていた事実にかわりはないし、また、遊べたら、
「ウチらのグループ抜けたからもう知らない」
……喉元をひゅっと潰されたようで一瞬ほんとうに息が詰まった。知らない、って、そんな。突き放したような言い方。
「あー、そうね」
続くのは同意の声だけで異を唱える友だちは誰もいなかった。みんな? みんなそうなの? 仲良しグループから離れたら、それだけでこんなないがしろにされちゃうの?
わたしの捉え方が間違っていたのだろうか。ぼんやりしていたから。話の前後をよく理解していなかった?
わからない。わからない。
何よりわからないのは、それらを笑いながら言える、あの子たちの心で。
すっ、と。わたしのなかの何かが冷めていくのがわかった。
澱みは一向に消えない。
質量のない、手でつかむこともできない、暗い靄のようなそれが晴れる気配はちっともなかった。
毎日わたしをとりまいて、視界をせばめたり、足元をすくったりする。
いや、もしかしたらとても重いのかもしれなかった。重苦しくて、じっとりしてて、どろどろしているのかも。
だけどもわたしは、もう重い、とか苦しい、とかを感じて発露することすらままならなくて。
どこか他人事じみたこころもちで『わたし』を眺めていた。
友だちは好きだ。
一緒に笑い合うのは楽しいし時間があっという間に感じる。わたしは、ちゃんと、あの子たちと過ごす日々が好きだった。とても。
でも、なんでだろう。どうしてだろう。
何かが、何かが、日に日にずれていく。
わたしはもうそのずれを直せない。修正できない。いままでどうしていたのか、それすらわからない。
たとえばわたしがもっと上手く会話できる人間だったら。
たとえばわたしがもっと多くのコミュニティを持っていたら。
――たとえば、わたしが、あの子たちのうちの誰かとトラブルを起こしたら。
あの子たちはわたしに何て言うのだろう。
何と言われなくても、わたしは気まずくなって距離を置いてしまうかもしれない。
そしたら、彼女みたいに、フェードアウトしてくように『友だち』から『他人』になって、やっぱり、彼女みたいに、『あんな子知らない』って笑われてしまうのだろうか。わたしの知らないところで、わたしは笑われるのだろうか。
それとも、わたしの味方になってくれて――あなたは悪くない、と誰かを悪し様に言わせてしまうのだろうか。
ああ、いやだなあ。
もはやコップの底にこびりついた洗い残しくらいまですり減った情緒が、それでも懸命に嫌悪感をあらわす。
ああ、いやだ。
いやだ。
何もかも。
何もかもが億劫になってわたしは目を閉じた。
目覚めなければ死ねる気がした。
もし、ここでわたしが本当に息を止めてしまったら。
わたしの代わりにひとつの死体が生まれて、そしてそれはきっと、
『死因不明』
と。
言われるんだろう。
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