第18話「勝つさ」

 5月8日土曜日、時刻は午前08:30。


 青山が忘れたバトンを届けに、俺は幸平記念グラウンドに来た。自宅から電車とバスで1時間ほどの場所である。


 久しぶりに訪れたグラウンドは以前より広く感じる。

 赤茶色の地面に白いラインでコースが区切られた陸上トラック、そのさらに外周に芝生が生えている。


 このグラウンドを部活などの集団で利用する時は、芝生のトラックから離れた場所にシートを敷いて陣取りする。


 蓮見丘高校の陸上部は250Mほどにいた。

 LINEで川本に電話する。


『もしもし〜』

「おっす。グラウンド着いたから青山呼んで。」

『おっけー。どこいる?』

「入り口の近く。」


 昨日のうちに川本に事情を説明していた。青山にもLINEしたが既読がつかなかったから、練習場所や時間を聞いたのだ。

 川本は「ほらやっぱりなんかあるじゃん!青山と!」と面白がった。癪に触ったけれど、あいつしか陸上部内で頼れる友達がいなかったから仕方がない。それに大事なことについては口が堅いやつだ。


 すぐに青山が来た。


「……」


 とても不機嫌だ。目すら合わせない。


「ほらよ」


 バッグを差し出す。


「……」


 だんまりなまま、奪い取るようにバッグを取ってきた。


 ——かっちーん。


「おい、流石にそれはないだろ」

「……は?」


「バトンとスパイクが入ってたから、休日に気まずくて面倒でも届けに来てやったんだぞ」

「中身見たの!?」


「見ちゃダメか?」

「ダメに決まってるでしょ!」


「だったら置き忘れるな!……つーかおい、開ける前にLINEしたぞ。いつまで経っても返信どころか既読もつかないから仕方ないだろ。」

「はぁ?そんなの来てないし……あっ。」


「おまえ、まさか、ブロックしてたの!?」

「だったらなに?お節介な部外者なんてブロックするでしょ。」


「ハァー?まじふざけんなよな!開き直ってんじゃね——」


 俺は口を閉じた。物陰から会いたくない奴が出てきたからだ。


「青山、女子が待ってるぞ——相波……お前何してんの?」


 青山を探しにきて俺を見つけた竹富先輩の声が露骨に低くなった。


「何もしてないですよ。忘れ物を渡しにきただけです。」


「そんなの学校で渡せばいいだろうが。辞めたくせに、青山にしつこく付き纏うな、青山が迷惑するだろ!」


「練習に必要なものなんだからしょうがなかったんですよ、競技場用のスパイクとか。」


「チッ。適当なこと言ってんじゃねぇよ。陸上部から逃げたくせに、背の高いお友達がいるからって調子に乗んな!」


「あーもう、はいはい帰りますお疲れさまでしたー」


「待っ……」


 二人に背を向けて歩き出す。フリをして振り返る。


「なーんて、今までなら素直に引き下がってたんですけどね。先輩、俺と勝負しましょう。」


「はぁ?なんで俺が。こっちは帰宅部と違って大会前の大事な時期なんだぞ」


「3年だからお情けで貰ったチャンスでしょ。調子に乗らないでください。」


「テメェッ!!——スゥー、はぁ……相波、部に迷惑かけるな雰囲気が乱れる」


「部外者なので知りませんよ。そういうのは部長か仙田先生を連れてきてくださ——ぐえっ」


 竹富先輩が急に動いた。俺の胸ぐらを掴む。思わず呻き声が出た。


「ほんと調子乗ってるな。お前。」


 低く震えた声だ。竹富先輩はすうっと拳を振りかぶった。


「涼、落ち着け」


 俺が拳の衝撃に備えた時、陸上部の部長——常盤さんが現れた。後ろから青山が着いてくる。部長を呼びに行ってくれたのか。


 竹富先輩は舌打ちして手を離す。


「久しぶりだな、相波」

「お疲れさまです、常盤先輩」


「青山から事情は聞いた、荷物を届けてくれてありがとう。リレーの練習なら男子のバトンを貸せばできるが、スパイクはどうしようもないからな」

「競技場用で助かりました。持ってくるだけだったので」


「そうか。なあ相波、陸上部に戻ってこないか?」

「急ですね。正当に評価してもらえないのでお断りします。少なくとも今の3年が抜けるまではないですね。」


「部内選考会のことか?お前は実際に負けたんだ。甘ったれるな。」

「自己ベストで勝っていても?」


「自己ベストで決めるなら、そもそも大会を開かないだろう。」

「はぁーーー。……取り消します。俺は竹富先輩に選考会で負けて正当に出場権を失いました。」


「全然納得いっていないじゃないか。」


 常盤先輩がクックと笑う。


「涼、勝負してやれ。」

「はぁ?なんでだよ!」


「万が一相波が勝ってもお前が出場することは変わらない。申し込みも済んでいるしな。相波、それでいいか?」

「はい、部長。ありがとうございます。」


「チッ。ありがたく思えよ。容赦しねえから」


 ***


 私は今、相波とトラックの外側の芝生を一周ジョギングしている。相波に「一人じゃ寂しいから……」と誘われてウォームアップを一緒にすることになった。情けない奴。


「何しにきたわけ?」

「忘れ物を届けに——」


「それは聞いた。それだけのために来て先輩に喧嘩売るわけないでしょ、バカじゃないの?」

「まあ色々だよ。あのまま部活を辞めるのも癪だったからな」


「だから——はぁ、もういい」


 ジョギングが終わったらストレッチ。そして、流し。流しは、全力の7〜8割の力でフォームの確認をしつつ走ることだ。筋肉にも適度に刺激が入るので、怪我の防止にも役に立つ。


「よぉーい、ハイ」


 相波が手を叩き、二人で同時に前傾姿勢でスタートする。

 徐々に体を起こしていき、視界がまっすぐを向いた時、私と相波は並走していた。

 相波の体は前に倒れ、足は後ろに流れている。顔は険しく、肩にも力が入っている。その走りは、見ていて焦りや苦しさを感じるものだった。


 ——大したことない速さだ。これじゃ竹富先輩に負ける。


 2本目、今度は私が手を叩いた。


 今度は、相波がスタートで出遅れた。反応速度が遅くなっているのだろうか。


 ——そもそも、相波は竹富先輩に自己ベストで勝っていると言っても選考会で負けた。そしてその後部活を辞めた。それから練習してなかった奴が、最後の大会に向けて練習を続けていた人に、勝てるわけがないんだ……ダメ、集中しよう。私には関係ない。


 意識を切り替えて走りに集中し、前傾姿勢から徐々に体を起こしていく——その時。


「えっ——」


 スゥッと、相波は私を追い越して行った。力感のない、滑らかなメカニクス。でも、一歩で着実に前進していく。

 私はその走りに既視感を覚えた。以前マネージャーが撮影してくれた、調子がいい時の自分の走りだ。


 相波の加速はあまりに自然で、私は抜かれて焦ることすら忘れていた……まあ、流しだから焦る必要ないんだけど。


 直線を駆け抜け、相波がゴールする。少し遅れて私がゴールした。

 腰に手を当てて息を整える相波に私は声をかける。


「あんた何したの?」

「何って、なんのこと?」


「とぼけないで。辞める前より速くなってるでしょ。練習してないくせに、どういうこと?」

「あー……気になる?」


 イラっとしたが無言で頷く。


「当たり前のことをやっただけさ。種明かしは竹富先輩との勝負の後で。今ドヤ顔して語っておいて、負けたら恥ずかしいからな」


「勝てるの?」


 相波は一瞬沈黙してから、明るい表情で言った。


「勝つさ。」


 昔からそうだ。相波の言葉には中身がある。その相波が勝つと言うのなら勝算があるんだろう。

 でも、相波が自分勝手さとかはっきりと競争心を示したことは、今までなかった。そこは昔と違う。


 ——どんなレースをするんだろう?


 興味が湧いた。胸の奥が熱い。中学生の時に感じて以来の、懐かしい感覚だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る