第4話「超必死じゃん……」
キィン、と甲高い金属音が鳴る。
鋭いあたりだ。流星のような綺麗な軌道の打球がスーッと風切り音を立てながら左中間に飛んでいき——糸を引くようにセンターのグローブに吸い込まれていった。
グローブからパンと乾いた音が鳴る。
「ナイスキャッチー!」
「え!?もうスリーアウトかよ。早くね?」
「てか0点じゃん!すげえw」
2回裏を終えて未だに無失点。これまでの授業で毎回得点されていたことを思い浮かべて8組男子は沸き立った。
「いいんちょー、すげえいいとこにいたよな」
「まあね!ラッキーだったわ」
「てか五十嵐のあれ、ホームランだと思ったわ。小野たち、めっちゃ後ろで守ってなかった?ビビりすぎでしょ」
「うるせぇ!結果オーライだからいいじゃんか」
「冗談だよわかってるってw」
8組はこれまでの授業と違う守備陣系を敷いていた。
一つはポジション。普段ファーストを守っている相波がセンターを守り、普段センターを守っている
「センター変わってくれない?」と小暮に頼むと、普段センターオーバーを走って取りに行くのに疲れていた小暮は「えっ、いいの!?助かるー!」と気前よく変わってくれた。
そしてもう一つの違う点は守備位置だ。
五十嵐を筆頭に、野球経験者が打席に立つと味方から「やりすぎだろ」と思わず声が出るくらい外野が後ろに下がっていた。
普段なら外野の頭上を悠々超えてランニングホームランになる打球が、ワンバウンドで止められる。その代わり後ろに下がりすぎたせいでツーベースにはなったが。
「よし!この調子で打つぞー!」
「「おー!!!」」
しかしそう上手くいくわけもなく
「はぁ。もう守備か。」
「よく考えたら、俺らのバッティングは上達してないし。」
「つーか体育でそんな全力出すなよなー」
「マジそれ」
3回表の8組の攻撃も0点に終わった。
続く3回裏、6組の攻撃は1アウトランナー1塁3塁のチャンスでファーストゴロの間に1点を先制する。
「っしゃあ先制!」
「ナイスラン!」
「いえーい」
6組のベンチが盛り上がる。
なおも2アウトながらランナー2塁、チャンスが続く。ここで迎えるのは第1打席で鋭いライト前ヒットを放った1番バッターだ。キンッと小気味いい打球音とともに、低い弾道の鋭い打球がセンターに飛ぶ。
「オーライ……っと」
これは惜しくもセンターライナーで3アウト。
「うわ惜しぃー!」
「あれ普通なら絶対ヒットだろ!」
「なんか今日点入んないね」
「ハン。一点ありゃ十分だっての。」戸惑うチームメイトに向け強気に五十嵐は吐き捨てる。
「それな!あいつらまだ1点も取ったことないんだぜ?」
「そっか!そうだよね」
「五十嵐が味方でよかったー」
「それなあっち絶対つまんねぇだろw」
味方の声を適当に聞き流しながら、五十嵐は守備を終えて戻ってくる8組を見る。具体的にはその中の2人だ。同じ野球部の大黒と——たまたま守っているところに打球が飛んでいくラッキーボーイなセンターを。
先程の言葉は決して強がりではなく、本心から1点あれば勝てると確信している。実際今日までの投球がそれを示しているのだ。
しかし、いつもなら3回で「やべぇ今日もコールドじゃね?(煽り)」「コールドって何点だっけ(煽り)」「5回からだったような気がする(真面目)」みたいな軽口を叩いているはずなのに、今日はたった1点止まりなのだ。気持ちよくはない。
ボールがたまたま守っているところに飛んでいく?外野の守備位置がたまたまいつもより後ろ?――そんなうまい話があるか。
アイツは、センターを守っているサウスポーは――経験者だ。
「気に入らねぇ。」
五十嵐は無意識のうちに獰猛な笑みを浮かべていた。
***
ベンチに戻ると大黒が出迎えてくれた。
「相波、おまえすげえじゃん!ほんとに経験者なんだな」
「疑ってたの?」
「ははは……ちょびっとだけ、な?」
そうこう話しているうちに、先頭バッターがボテボテのセカンドゴロで1アウトになる。
「そういえば、五十嵐……くんは、なんであんなに必死なの?」
俺の問に、大黒は顔をしかめて「あー」とか「うーん」とか「まあ」とか呻くだけで要領を得ず、ついには沈黙する。
地雷を踏んだだろうか?少し考えてから、無理に答えなくていいと伝えようとしたとき、大黒が口を開いた。
「さっき、俺は野球部って言ったじゃん?」
「実は2年生でレギュラーなの俺だけなんだ」
「すげえ」
蓮見丘高校の野球部は、県立校にしてはかなり強く、甲子園に出場したこともあるほどだ。近年は甲子園にこそ手が届かなくとも、毎年安定して初戦は突破している。去年は4回戦敗退だったとか。
部員数も多く、1学年がだいたい20名ちょっと、3学年合わせれば総勢70名の大所帯だったはずだ。校舎内でもよく坊主頭を見かける。
そのなかで3年生を差し置いて、レギュラーを獲得するとは……
「ほけぇー」としていたら「えっと、それでな?」と大黒は話を進める。
「俺も五十嵐もレフトなんだけど、ギリギリのところで俺がレギュラーに選ばれたんだ。背番号が渡された日、レギュラーおめでとうとか仲間が言ってくれた。そのとき五十嵐がトイレ行ってて、五十嵐も惜しかったなって話になって、俺、『まあ来年もあるし』って言っちまったんだ。ちょうどその時、五十嵐が戻ってきてさ……」
なぜか、他人事のはずなのに俺は五十嵐の気持ちがよく分かる気がする。とはいえ体育の授業にそのストレスをぶつけるようでは同情はできないけど。
「じゃあ、八つ当たりってこと?」
「そう……かもしれない。ごめんな、迷惑かけて」
「あ、いやいや。」
だいたい話は掴めた。大黒の話を聞いただけだと、体育の授業でストレス発散するなよ中学生か!って思ってしまいそうだ。まあ、体育の授業のたびに当のライバルが目の前にいるわけだ。意識しないほうが難しい。
「早く次のバッター来いよ!」
根治が苛立つ。
「次誰だっけ?」
「俺打ったよ」
「俺も」
「相波じゃない?」
「俺だ」
呼び名が委員長から相波に昇格したことに浸ってしまった。
「それじゃ、行ってくる」
「おう。」
そそくさとバットを取り、右打席に入った。
改めて見るとマウンドの五十嵐は迫力がある。身長は俺より高い。180ちょうどくらいだろうか。ソフトボールは野球よりピッチャーとバッターの距離が近いのでなおさら大きく感じる。
「あ。」
大黒から聞いた話について考え事をしていたせいでいつもどおり右打席に入ってしまった。五十嵐はもう投球モーションに入っている。後ろに引かれた長い腕が、勢いをつけてしなる!
パン!
「ストライク。」
審判兼キャッチャーがコールする。
ウィンドミルでないなら右でも打てると思ったが普通に無理だ。俺は両打――スイッチヒッターではない。
五十嵐は間髪入れずに投球モーションに入る。このままでは為す術なく三球三振だ。フルスイングしては当たらない。かといって当てに行くスイングではボールの勢いに負けて前に飛ばない――となれば残された手段は。
五十嵐の手からボールが離れた。
バットの芯と呼ばれる、先端近くの部分に右手を添えて、バットを水平近くに固定しボールを迎える。
「バントだ!」と6組の誰かが叫んだ。
ポコンというコミカルな音を100M走のピストル音に置き換えて、全力で1歩目を踏み込んだ。
1塁方向にボールが転がったのを確認し、風を体で引き裂くように加速していく。
「速ぇ!」
ダンッと1塁ベースのオレンジ色を踏み込み駆け抜ける。一瞬遅れて、ファーストが送球をキャッチした。結果はセーフ。
乱れた息を整えながら周りを見回す。
フィールドに流れていたのはどよめきと、そして小馬鹿にしたような雰囲気だ。
「まじかよ」
「体育の授業で普通バントするぅ?」
「あいばくーん!なんでそんなに速いのに陸上部辞めたんですかー?」
「え、あいつ陸上部なの?」
「てか辞めたの?まじで?」
「陸上部本気出しすぎでしょw」
「超必死じゃん……」
「ていうか、あいつ経験者じゃね?」
根治が、変な燃料を投下したせいで、明後日の方向のからかいまで飛んできた。
恥ずかしくて顔に熱が集まる。しかも経験者であることもバレたかもしれない。
敵も味方も微妙な空気が漂う中、「ナイスバント!」と大きい声で誰かが褒めてくれた。大黒だ。
ポジティブな言葉は周りのテンションと比べると浮いていたが、大柄な野球部の言葉には、嘲笑や冷笑を止める力があった。
勇気がいるだろうに、ありがとう。感謝の気持ちを込めて、ベンチに居る大黒に拳を突き出す。
この回も後続が打ち取られ、0点に終わった。
***
「ストライク。バッターアウト。」
「元陸上部、球も速いんだけど」
「てか投げ方プロじゃんw」
「まじおもんねーわ」
3回までセンターだった相波ってヤツが4回の表からピッチャーに変わった。
センターとしての守備の上手さ、守備範囲の広さ、他の外野への指示出し、セーフティーバント、そして今のスリングショット。
なんでやつは今までの授業で本気を出さなかったんだ?わからねえし知ったことじゃねえが、できるのにやらねえそのふざけた態度は気に入らねえ。絶対ホームラン打ってやる。いや、ピッチャー返しもいいな。他の奴らはスリングショットでも抑えられるだろうが、俺には通用しねえ。
「かかってきやがれ」
左手に持ったバットを相波に向けて突き出す。
「ストライク入らないでも怒らないでね?」
どうやら勝負するのが怖いらしい。
「だったらでしゃばってくんじゃねえよ、雑魚が。」
「ごめんごめん」
ふざけた奴だ。一球目は強振してビビらせる。ファウルでもいいからかっ飛ばしてやる。
そんなことを考えつつバットを構えてピッチャーをピンと見据える。
「いくぞ」と相波の声が聞こえた気がした。
奴の投球モーションが変わる。
右足を一足分後ろに動かし、体を前屈みにしつつ、左腕を後ろに引く。
溜め込んだ力は勢いに転じる。高速で回転する腕から、想像もしてなかった豪速球が放たれた!
パンッ!!!乾いた大きな音が響く。
「うーん……ボール。いいコース来てるぜ、どんまい。」
居ない審判の代わりに判定を下したキャッチャーの大黒がボールをマウンドの相波に投げ返す。
「あんな奴、お前のチームにいたか?」
話したくなかったが、気になったので仕方無しに聞いてみた。
「ああ、前までファースト守ってた。」
「へー。で、なんで急にやる気出したんだよ」
「さぁ?なんでも左利きなのにグローブが右用しかなかったらしい」
「はあ?何だよそれ」
「いろんなヤツがいる。そういうことじゃないか――2球目来るぞ」
「チッ」
2球目、アウトコースいっぱいストライク。1ストライク1ボール。
3球目、アウトコース高め外れてボール。1ストライク2ボール。
ソフトボールのベース―マウンド間距離は約14m、対して野球は約18m。
たとえ110km/hのボールでも、体感速度はおよそ1.3倍――140km/hに感じられる。
そして上からではなく下から登ってくるような軌道、さらにアマチュアなのでブレブレなコースが捉えにくさを増している。
タイミングが取りずれぇ。でもな、目はもう慣れている。こちとらピッチングマシーンでも実践でも、これくらいの球速も荒れ球も腐るほど打ってきてんだよ!
狙うのはアウトコースだ。デッドボール当てるのが怖いのか、あのピッチャー、典型的なインコースを狙って使えないピッチャーだ。
そして投じられた4球目は――アウトコース!
「狙い通りなんだよ!」
踏み込んで右方向にかっ飛ばした。
打球は空気をぶち抜いてかっ飛んだ。相波が抜けて守備位置が甘くなっていたライトを悠かに超える――
「ファウル、でいいよな?」
「チッ」
惜しくもライト線を切れていった。ワンテンポ、タイミングがズレちまった。
いいよー、うてー、とベンチがはやし立てる。
遠くにてんてんと転がっていったボールを取りに行ってくれたライトにごめんねーと相波が謝る。
「さ、仕切り直しだ」と大黒は座ってミットを構えた。
そのとき、ピッチャーの相波がタイムをかけて、大黒を手招きした。
小さな声で二人が話し合う。すぐに話し合いは終わり、大黒は戻ってきた。
「相談は終わりか?」
「ああ。待たせたな。」
「あいつは何だって?」
「お前のスイングやべえだろってさ。へへ、面白いよな。お、なんか言いたいことっぽいぞ」
「あん?」
ピッチャーを見ると、手を上げてひらひらさせていた。
「あのさ、五十嵐くん、右打ちだよね?」
「ああん?両打ちだっつってんだろ」
「でも右打ちだよね。」
「……チッ。わぁーったよ打席変わりゃいいんだろうが」
俺は相波の要求に対して何故か、指示された苛立ちとか打てないかもしれない恐怖とかではなく、残念さとかつまらなさとかがっかりとかが胸に浮かんだ。
なんだかんだ、普通の体育なんかで絶対味わえない、それどころか公式試合レベルの勝負をいつの間にか楽しんでいたらしい――普通の体育、公式試合レベル……
「あ、違う違う。右でいいからさ、フォアボールアリにしてよ!」
「ハンッ、敬遠有りなら同じことだろうがよ」
期待させんじゃねえ。
俺は右打席に戻った。
「さ、カウントツー&ツーな。」と大黒。
俺がバットを構えると、相波も投球モーションに入った。ここ4球と同じウィンドミルだ。ダイナミックに一回転させた腕から放たれたボールは真ん中よりのインコース!くそ、踏み込んじまった!
バットを振ることすらできずにボールはミットに収まった。
「ボール」
判定を聞いた相波が「まじかー!」と天を仰いでいた。
思わず大黒を見ると、「ちょい低くてな」と返された。
俺は安堵した。しかし同時に、インコースとアウトコースを投げ分けられることと、俺が4球目のアウトコースを踏み込んで打ったのを見た相波が隠していたインコースに投げ込んだことに驚愕した。
「フルカウントな。フォアボールはノーカンじゃなくて1塁行きで。」
命拾いした。
俺にこの勝負をフォアボールで終わらせる気はねえ。
そうなるとボール球でもわざとバットに当ててファウルにするしかねえが、それだと相当相手に有利な勝負だ。もし完璧に外れたら?くそが、ここまできたら打つしかねえ!
大黒が座る。
俺がバットを構える。
相波は――首を横に2回振った。
ほんとに気に入らねえ。体育の授業でピッチャーとキャッチャーがサイン出すなんて普通ありえねえだろ!
インコースか?アウトコースか?それとも最悪フォアボールでいいから厳しいところか?
相波が投球モーションに入る。
ゆったりとしたテイクバック、そして風車のような腕の一回転。
「はっ?」
しなった腕から放たれたボールはミットを突き刺すばかりの剛速球ではなく――スローボールだった。
「くっ、そが!」
豪速球に備えて力強く踏み込んだ足。体勢は崩れて前に流れる。
――2回転できるか、ストライクか、バットを止めるか、カットするか、先っぽ当たるか
スローボールがミットに収まるまでの短くて長い瞬間にたくさんの対策が走馬灯のように思考を駆け巡り――
「ストライク、バッターアウト!」
グラウンドが歓声で埋め尽くされる。
相波に向けられた歓声がうるせぇしうっとうしい。
不意に吹いた風が背中に流れる汗を冷やす感覚を妙に鋭く感じながら俺は呆然と立っていた。
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