第3話「できることをやって何が悪い」
一夜明けて4月30日金曜日。明日から夢の5連休だ。
パンと目玉焼き、カット野菜で簡単に朝食を済ませて、カッターシャツに袖を通す。
窓から差し込んだ白い太陽光線が、部屋を漂う粒子をキラキラと照らす。今日も暑くなりそうだ。なぜかうんざりとワクワクが同居していた。
リュックサックに教科書を入れた後、隙間に水筒を差し込む。さらにアップシューズを入れ——
「……いらねんだったわ、そういえば。」
昨日までの、明らかに許容量オーバーではち切れそうなほどパンパンに太っていたリュックが、今日は随分とスリムになってくったりとリラックスしている。今までごめんなとポンと撫でて背負い、
「あ、体育あった」
結局リュックはパンパンになった。
***
自転車を走らせながら、昨日のことを思い出す。
退部を申し出た俺に、仙田先生は当然その理由を聞いた。
——なんで辞めるんだ?
——えーっと、その……勉強に、ついて行けなくて……
俺は精一杯の申し訳なさそうな顔で、10%ほどの真実を語った。
仙田先生は「なんでこの時期に」とか「もう少し頑張ってみないか」とか引き止めてくれたが、「勉強が疎かになって陸上に真剣に打ち込めない自分がいても部に迷惑をかけてしまうので」と言うと、「もし戻って来たくなったら、いつでも戻って来ていいからな。」と退部を認めてくれた。
——相波、200M出せなくて悪かった。どうしても竹富を出してやりたくて
——ははっ、急にどうしたんすか?全然関係ないですよ。
「はぁー、にしても暇だわ。いいね。」
記憶をかすめた会話を押し出すように呟く。
部活を辞めてから、色々とぽっかり空いてしまった。時間もそうだし、人間関係もそうだ。
リュックにアップシューズを入れようとしてやめたことを思い出す。
まだ部活を辞めた影響は出ていないが、放課後になればいよいよ現実から目を逸らせなくなる。
——空いた穴を埋めないと。
惰性で続けていた陸上を辞めたことは、確かに挑戦だったが、これが俺にとって吉と出るか凶と出るかはこれからだ。なんだかんだ、愛着や情熱はあったみたいで、簡単に代わりが見つかるとは思えなかった。とりあえず勉強しよう。学生の本分は勉強だからね!
蓮見丘高校前の坂を他の蓮高生に混ざりながら、自転車から降りて押して歩く。
陸上部員に会わないかビクビクしながら、教室に向かった。
***
ガララと教室前方のドアがスライドして、よれた白衣をまとった中年の男性、2年8組担任の藤谷大吉が気怠げに姿を見せた。その後に続いて入室した清潔感のある白シャツを着た若い女性は、2年8組副担任の杉丸小福である。
「はぁ……学級委員」
「暗っ」「だるそう」
クラスがヒソヒソ笑う。
学級委員の俺は「きりーつ、れい」と号令をかけた。
「ちゃくせーき」
「おい、学級委員。なんで俺がこんなにだるそうかわかるか?」
「うっわ」「生徒にだる絡みしてる」
クラスがヒソヒソ笑う。
「奥さんと喧嘩しました?」
「おいガキ、俺が結婚してないの知ってるだろう。ハラスメントが教師だけに適用されると思うなよ?」
それは本気で申し訳ないことをしたかもしれない。何かと厳しいこのご時世、言動には気をつけよう。
「俺が言いたいのはな?休日と休日の間に平日を挟むなってことだ。どうせなら今日も休みにしちまえばいいんだ。くそ、有給とりゃよかった」
「ズル休みはダメですよ!」
小福ちゃん(先生だが歳が近いことと熱血気味の性格から、大体の生徒が親しみを込めてそう呼んでいる)に突っ込まれて、フジやん(こちらも、親しみ?を込めてそう呼ばれている)はばつが悪そうにガリガリと頭をかく。
「いや……まあいい。さて、明日から4連休なわけだ。そこで今日のうちに蓮香祭実行委員を決めようと思う。」
あまりにも突然の切り出しに、クラスがざわつく。
「フジやん。それ帰りの会じゃダメなんですかー?」
だらっとした調子で質問したのは須藤陽斗——バスケ部でクラスの中心人物の一人だ。
それに対して大吉先生は、予め用意していたかのように返した。
「こういうのはいきなり言ってもなかなか決まらないからな、経験的に。俺は早く休みたいんだ。文化祭の係決めで居残りなんてしたくない。」
さらに、「それに別に今すぐ決めるわけじゃない。今日いちんちで心の準備しておくように。はい、学級委員。」と付け加えた。
「フジやん、出席出席。」
「忘れてた。相波真也」
「はい。」
想像以上に、俺が陸上部をやめたことなんて世界にとってはどうでもいいらしい。ぬるっと今日が始まった。
***
「——今日はここまで、明日は……休みか。次は教科書78ページから再開だ。不安なやつは適当に予習しておけー。学級委員。」
「起立、礼。」
「「「ありがとうございましたー」」」
2時間目の物理が終わった。なんか最近、物理に限らず数学や化学など理系科目全般で無理やり分かったふりをしているというか、自分をごまかしている気がするんだよなぁ。
ぼけっと考えていると皆立ち上がったり移動したりと教室が慌ただしくなってきた。そういえば時間割が変わって、3、4限連続体育になったんだっけ。
男子は教室に残る。女子は着替えなど荷物を準備し、いくつか集団に分かれてながらわいわいと2年8組を後にする。
それからまもなくして2年6組の男子が教室に入ってきた。
——げっ、
相波真也は、昨日まで同じ陸上部の同じ短距離部門だった
男子のみの教室は息苦しさを感じるほど暑苦しい。男性ホルモンむんむんのむさ苦しい男達が、制服を恥じらいと一緒に脱ぎ捨てるものだから、瞬く間に教室は茶色い肌色に汚染されていく。ほんと、女の子と何が違うんだろう。アールジービー?オパシティー?
俺もリュックから取り出した体操服に着替えながら周囲の会話に耳を傾ける。
「あー今日もだりいな。」
「どうせ打てねーし。つまんねー。」
「バド選択の俺、大勝利ぃ。」
「俺もバドミントンにすればよかったー。」
「はぁ。しょーもな。」
2年生に昇級してまもなく実施された体力テストの後、6月にプールが始まるまで、体育はソフトボールとバドミントンの選択制だ。
そして8組の男子たちのうち、テンションが低そうなのがソフトボール選択者たちだ。
対照的に2年6組のソフトボール選択者はというと……
「しゃあ、今日も完封すっか!」
「えー、もっと打たせろよー。守備退屈なんだからな!」
「俺じゃなくて8組に言えって!あいつらが打てねぇのが悪いのw」
「ひっで!」
「「「ぎゃははは!!!」」」
とても盛り上がっていた。
つまらなそうな8組と、大声で楽しそうに騒ぐ6組。対照的なテンションで、ソフトボール選択者たちは運動場に向かった。
校庭に出た俺たちは、「男子、行け」という教官の命令によってベース、グローブ、ボール、そしてバットなどを倉庫から運び出し、直後に「全員、走れ」という指令が下り校庭を一周ランニング。その後準備運動をしてようやくボールと友達になることができた。
「あっちー!」
「もう汗ぐっしょりなんだけど。」
「うわきったねー」
「ふざけんな」
「冗談冗談」
綺麗なグローブの争奪戦に人が殺到する中、一拍おいて人が少なくなってから俺はグローブを取りに行く。
「残り物には福がある」から……というわけではない。もちろん、俺も綺麗で臭くなくて湿ってないグローブがいいけど。
しかし俺は左利きで、残念なことに左用のグローブは4個しかない。
どうやらソフトボール選択者の中で左利きは、女子に3人、8組男子に2人、6組男子に1人。女子に左利きグローブを譲ると男子3人で一つの左利きグローブをシェアすることになる。仮に6組の攻撃中にグローブを使わせてもらっても、8組の左利き男子2人のうち1人は左利きのグローブを使えないのだ。もっとマイノリティーにも優しくしてほしい。
まあ「俺も左利きがいい!」って言えば、貸してもらえるんだろうけどね――とか考えつつ黒と茶色の年季の入ったグローブたちを物色する。
右投げでも、遠投は難しいがキャッチボールはできないこともないので、俺は普段、送球をキャッチすることがメインのファーストを守備してい——えっ、あるじゃん左利き。なんで?
急に出現した左用グローブ。
グラウンドの校舎側――女子がプレイしている方を見てその訳がわかった。左利きの女の子の中に一人、見学がいたらしい。
――これ、使っていいんかな。倫理的に。
結局利き手でプレイしたい欲に負けて(決して女の子の使ったグローブに惹かれた訳ではない)、ありがたく使わせてもらうことにした。
「よっしゃローリングスげっとー。しゅんたー、キャッチボールしよーぜー!」
綺麗なグローブを獲得できて根治が大声で喜んでいる。根治が「しゅんた」と呼んだのは、というのは6組の野球部、
根治に釣られて件の五十嵐の方を見ると、五十嵐は誰かと話している……ん?なんだかイライラしてねぇ?
五十嵐は根治に呼ばれて会話を打ち切ったようだ。
なんか大変そうだなあと思いながら、グローブの次はボールを物色する。縫い目がしっかりしてて白いきれいなヤツ、ないかな。
さて、いつもグローブ選択で遅くなると、キャッチボール相手にも困ることになる訳で、左利きグローブがあってラッキーでも、キャッチボール相手は見つからないのだが――
「なぁ、学級委員の相波……だっけ?」
「うん?あっ、うん。そう、相波」
ぼーっと辺りを見回していると唐突に右から声をかけられテンパる。
右を向くと相手の口が見え――身長たっけえ!
目線をもうちょいを上げてようやく目があう。
そこにいたのは……ていうか正直分かってたけど、
「どうしたの?」
「ああ、キャッチボールしね?」
「いいの!?」
「お、おう。」
やばいなんか今変なスイッチ入った一旦落ち着け。
「じゃあ、行こうか」
「おう!よろしく!」
大黒と俺は、キャッチボールする二人組が並ぶ列の一番端に向かって歩いた。
つまり、というほどのことではないが、さっき野球部の五十嵐と話していたのは、同じく野球部の大黒だったのだ。
「ソフトボール、楽しくないだろ?」
苦い顔をしながら大黒は唐突に切り出す。
「いや?俺は好きだけど。ソフトボール」
「あぁ、違う違う。今の体育のこと。」
「あー……」
大黒が言いたいことはすぐに分かった。
恐らく、2年8組のソフトボールを選択した男子全員が感じていることだ。
単刀直入に言えば、野球部五十嵐によるワンマンプレイ、といったところだろうか。
打っては毎打席ホームラン。
たまにサイクルヒット—— 一塁打、二塁打、三塁打、ホームランを全て打つことだ——狙いでわざとバントしたり、悠々ランニングホームランの外野越えの辺りでとろとろと走塁したり。
投げてはなんと全試合完封。
ヒット(内野安打とかエラーよりのヒットとか)がポロポロ出るが得点にはつながらない。そもそもほとんど三振とかピッチャーゴロとかだ。
打撃面は大きな問題じゃない。
走塁でふざけるのは不愉快だが気にしなければいいからな。
「野球部と経験者は逆打ち」という制限を上杉教官がつけたにも関わらず、「俺両打だからどっちで打とっかなー?」って自慢もしくは茶番を繰り広げた上でおそらくより得意な右打席に入るのは黒よりのグレーだと思うが。
だが投球面はどうだろう。
五十嵐はおそらくソフトボール経験者だ。野球部や野球・ソフト経験者には、体側で腕を反時計回りに一回転するウィンドミルという投球法(※風車:windmilに由来)で豪速球を投げ込み、初心者にはスリングショットというボウリングのような投球法(※ちょっとテクい下投げ。ゴムぱちんこに由来)で速球を投げる。
一応、初心者にはウィンドミルで投げていないので手加減している、という言い訳付きだ。だがスリングショットの方も初心者がジャストミートできる速さじゃない。
結果、俺たち8組は今日までの5回くらいの授業でそんな感じで完封されている。
まあ、不幸なことに6組には、8組の誰も打てないような五十嵐の速球をきちんとキャッチできるキャッチャー(野球経験者)がいたのが運の尽きって感じだ。
まあ退屈だろう。間違いない。
三振の山、ヒットが出ない、三者凡退が当たり前……攻撃は一瞬で終わり、守備は強い日差しのもと長時間。
そんなソフトボールが楽しいわけがない。「雨でバドミントンに合流したい」という愚痴が出るくらいには退屈だ。
「もしかして、さっき五十嵐と話してたのって……」
ああ、と大黒は力なくうなづいた。
おそらく「初心者でも打てるように手加減してくれないか?」といったことを頼んだのだろう。
「でもだめだった。できることをやって何が悪い、バッティング練習もっとやれよってさ」
「……」
体育の授業は、一体誰のものだろう?
一部の経験者のものだろうか。
初心者に合わせた「みんな」のものだろうか。
俺は正解がわからない。
反射的に「みんな」のものと言いたくなるが、おそらくその「みんな」には、五十嵐たち野球部は含まれていない。
「ま、しかたないよな。やろうぜ、キャッチボール。」
「おう。いっくぞー」
俺は左で3号球を投げる。
「あれ?相波って経験者?てか右利きじゃなかったっけ?」
「実は俺、左利き」
「マジかよ。だったら普段から送球取れよなー。ヘボファースト。」
「わりぃわりぃ。」
よくポロポロ送球落としてるもんね、おれ。ごめんなさい。
俺は正解がわからない。
何を言ってもそれは俺の意見または感想でしかなく、五十嵐たちを納得させて円満に解決する理屈や正論は用意できなさそうだ。
「なあ、大黒ってキャッチャーできる?」
「誰に向かって言ってんだ。俺は野球部だぞ」
だったら、正論で正義面して上から殴るのはやめよう。「目には目を歯には歯を」だ。同じ土俵で目くそ鼻くそ笑い合おうじゃないか。
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