第2話「は?本気か?」

 4月29日木曜日、飛び石になっているがゴールデンウィーク初日。

 最高気温は25℃で日差しは強烈だ。


 印象的な日曜日から早くも4日。

 バットを振る——そう決心した俺は今、


「はぁっ…ヒュッ、ハァ゛ッ、ゲホッ」


 へばって陸上競技場の地べたに寝転んでいた。300mを5本走りきったところである。


 ―― 相波ぁ、終わったんならさっさとこっちこい!補強すんぞー。


「ふざ、けんな。はぁ、はぁ。こっちは——わぷっ!」


「こっちはお前らと違ってその前に200も5本走ってんだ」と毒づこうとしたら顔面に液体が飛んできた。


「何すんだよタケシ!」


 投擲部門——砲丸投げや槍投げとかにメインで出場する奴らの集まりだ——に所属する川本武司(かわもとたけし)が、青色のスクイズボトルを手に持っていた。


「干からびてたから、水やりだよ。」


「カエルやナメクジじゃねえんだなこれが!水かけてもピチピチDKのお肌は弾いちゃう……てか痛った!これポ◯リだろ!しかもクエン酸粉末タイプの!」


「あ。マネさん間違えてんじゃん。」


「うわくそ、目が痛えしベタベタするし!」


「まじごめんて。でも元気になったろ?」


 そう、俺はいつの間にか上半身を起こしていた……


「だからといってポ◯リを顔射した罪は消えねえけどな!ったく。」


 なんかもうどうでもよくなってきたので、トラック——陸上競技場の赤い地面の走る部分だ——の外のさらに端っこで一列に並んで腹筋している蓮見丘高校陸上部短距離部門の集団の方に歩き出す。


「なあ、本気なのか?」


「おう。バット、振っていこうと思ってな。」


 颯爽と歩き出す俺の背中に、川本は声を投げかける。


「避妊はしろよ」


「何いってるのかよくわかんねえし俺のことどう思ってるのか話し合いたいけどとりあえず俺の槍投げ童貞をお前の肛門に捧げようか」


「バット振る」は下ネタじゃねえし。

 せめて「陸上部やめて野球部に入るつもりなのか?」とかにしてくれ。


 ***


「総体予選まで2週間ちょっと。走り込めるのは今週と来週いっぱいまでだ。本番前の一週間は調整に入るからな。」


 蓮見高校陸上部の顧問を務める仙田剛(せんだごう)は、赤橙色の夕日に照らされた部員たちの汗のにじむ顔を見回す。


「とはいえ走り込みすぎて怪我したらいけない。風呂入ったらストレッチを欠かさないことと……えー、あとはちゃんと飯食って早く寝るように。」


 疲れをにじませながらも、部員たちの顔は引き締まっている。


 いい雰囲気だと、仙田は思った。

 毎年本番前2週間の部員たちの間に流れる空気は、結果に直結していると思う。

 本番1週間前になれば、どんなバカタレでも緊張して静かになるが、それより更に一週間以上前は、部が腑抜けていれば「もう頑張っても結果変わらないし」みたいな……そう、諦めが漂う。


 今年の3年は期待できる。

 特に短距離の四継——4×100Mリレー。

 男子はリレメン——リレーメンバーのタイムが近く、この一年間切磋琢磨し続けてきた。

 女子は突出して速い2年エースの青山に、他の3年メンバーが腐ることなくむしろ引っ張られるように伸びてきた。

 県大会は多分行ける。もしかしたらその先も。


 仙田は話し終わると、男女各部門の長に引き継いだ。

 気は早いが、夏が終わって3年が出ていけば今度は2年生だ。

 彼ら彼女らの話を聞きながら、今度は下級生を見る。


 この代は少しかわいそうだった。1つ上の代が盤石だと、下の代はなかなかチャンスに恵まれない。


 陸上は個人競技だが、たいてい大会や記録会の1種目に出場できる人数には制限がある。

 投擲や棒高跳などのフィールド競技や八種競技(100Mや1500M、砲丸投、走幅跳などのスコアの合計を競う)などは部内で人数が少ないので大会に出やすいが、100Mや200Mは専門にしている部員が多いので競争は熾烈を極める。

 学校によって選考の方法はいろいろだが、自己ベストが良い順に部内で選ぶ場合、そもそも大会に出られず自己ベストがないなんてことがたまにあるくらいだ。


 流石にそれだとかわいそうなので、蓮見高校陸上部はよっぽどの差がなければ自己ベストも参考にしつつ、部内選考も行う。出場登録前に本気で競うのだ。

 しかしこの場合、部内選考の当日のコンディション次第で不本意な結果に終わることもあるし、試合本番でベストスコアを叩き出すタイプには不利になるので、結局一長一短なのだ。


 そんな中でも、2年の川本など数人出場するし、他にもかなり惜しいところで部内選考に落ちたものの来年が楽しみな選手はいる。


 決して劣ってはいないのだ。3年が出来すぎただけで、彼らが抜けたあとに各部門の長を任せたい人材はいる。


 2年の相波は、入部してからこれまでいまいち練習に身が入っていなかったが、今日はトラックに転がるほど限界まで走り込んでいた。

 何か心変わりのきっかけがあったのだろうか。顧問といえど全部把握することなんてできないのでわからないが、とても良い変化なのには間違いない。


 これなら短距離を任せられるか?

 いやしかし、今日だけかもしれない。


 部門長を決めるのは蓮見高校の総体が終わったあと。3年が頑張るほど、後輩に引き継ぐのも後ろ倒しになる。

 今年はゆっくりできそうなので、存分に悩めるだろう。決断を急く必要はない。あくまで可能性の一つとして……


「解散!」


「「「お疲れさまでした!!!」」」


 ***


 部員たちが帰ったあと、仙田も陸上競技場から出たのだが、入口で立ち止まった。

 シューズなどが入ったリュックを背負い、暑さに構わず上下を蓮見高校のジャージに身を包んだ生徒――件の相波真也がいた。


「おお相波。どうした?忘れ物か?」


「仙田先生。俺、陸上部辞めます。」


 時が凍る。

 俺は今、何て言われた?こいつは今、何と言った?

「この時期に?」とか「今日あんなに追い込んでいたのに?」とか色々と頭に浮かんだが、うまく言葉に整理できない。


「は?本気か?」


 結局それしか出てこなかった。

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