そしてはじまりへ――
彼女と会うのはおよそ一年ぶりだった。その期間を短いというべきなのか、長いと言うべきなのか、
どうしてその間に一度でも連絡を取らなかったのか。会わなかったのか。会ってさえいれば、こんな未来にはなっていなかったのではないか――何度、そう自分を責めたかわからない。
妊婦惨殺事件――それはあるひとりの産婦人科医の手によって引き起こされた。犯人である医師の名前は田口道子。成滝がよく知っている人物だった。彼女は成滝と同郷で、中学の同級生だ。それも成滝の秘密を知りながら傍にいてくれた女友達。成滝にとって、彼女は本当にかけがえのない特別な女の子だった。
その道子が患者の腹を割き、赤ん坊を無理やり摘出した。母体であり、道子の患者の金沢萌はおびただしい血の海の中でこと切れていたという。その腹からは無残に噛みちぎられたへその緒が垂れ下がり、腹の皮膚はまるで花びらのように大きくめくれるようにして開いていたらしい。道子は――出血多量でショック状態に陥った患者の応急処置をすることも、閉腹手術をすることもなかった。死んでいく母親を汚物を見る顔で見下ろしていた。呼びかけにも反応しない。血に染まった萌の子供を抱いて、ほおずりしながらしあわせそうに笑んでいた。さながら自分の子を取りあげた母の顔のようだった――というのが、通報者である看護師、桑原みどりの証言であった。
道子と萌には確執があり、それが今回の殺人の動機になったと警察は考えている様子だ。しかし、本当にそれだけなのか――成滝には、にわかに信じられなかった。
一年前の道子との再会は、産婦人科医としての彼女の特集を組むことになったためだ。成滝はそのインタビュアーであり、特集記事の担当ライターであった。一時間以上に及ぶインタビューの中で、彼女の仕事に対する情熱や誇り、命に対する真摯な考え、女性たちの苦悩を減らしたいと心を砕く姿を目の当たりにしている成滝にはどうしたって、彼女が単純な怨恨理由で殺しを行うとは考えられなかった。
だからこそ――成滝は道子に会うことにしたのである。どうしても彼女の口から理由を聞きたかった。そのために拘留中の彼女に面会しに来たのだった。
留置所の面会室で待つこと五分。警察官に付き添われて道子が静かに入ってきた。警察署から貸し出されたグレーの上下スウェットに身を包んだ道子の足取りはよたよたと非常におぼつかない。どさりと力なく成滝の目の前の椅子に腰を下ろした道子は虚ろな目をぼんやりと天井へ向けて、成滝のほうを見ようともしなかった。
やつれた顔だ。成滝が最後に会ったときの溌溂とした面影など微塵もない。たった一年でこんなに老けてしまうものかと思えるほど肌はカサカサに乾燥し、張りつやは失われている。口元に縦に伸びるほうれい線。黒く落ちくぼんだ目元。げっそりとそげたほほ肉。カラカラに干からびた薄皮がかろうじて唇にはりついている。四十前の女ざかりとはおよそかけ離れた道子の姿に、成滝の胸は激しく締めつけられた。道子は生きながら死んでいる。成滝にはそう見えたのだ。
「みっちゃん」
成滝は昔と同じように親しみを込めて彼女の名前を呼んだ。すると道子の濁った目が成滝のほうへ向けられた。表情は変わらないが、次の言葉を待っているようにも見える。
「今日はどうしてもきみに直接聞きたいことがあって会いに来たんだ。俺のことは覚えているかな? 中学時代の同級生の成滝だけど」
成滝は一層身を寄せるように背を屈ませて、厚いアクリル板のつい立て越しに道子を見た。道子は顎を引いて真正面から成滝を見つめ返した。生気を失っていた目がわずかに力を取り戻す。その目が成滝を観察するように動いた。これなら道子の本心を引き出せるかもしれないと踏んで、成滝はカウンターにボイスレコーダーを置いた。録音ボタンを押したあと、ゆっくりと低い声で質問した。
「きみはどうして金沢萌を殺したんだ?」
その質問を聞いた途端、道子の目から興味の色がすうっと消えた。警察で何十回も繰り返された質問なのだろう。彼女は退屈そうにまた天井へ顔を向けると「害虫駆除」と答えた。
「害虫?」
「そう。害虫を一匹、この世から排除したの。それに、わたしは奪われた自分自身を取り戻しただけ」
「奪われた自分自身? 赤ん坊のことかい?」
道子の言葉を反復してから確認のため問いかけた。
萌は道子にそっくりだったと聞いている。髪型も、化粧の仕方も、持っているバッグも身に着けているアクセサリーに至るまで、道子とそろいのものだったらしい。それに加えて道子は金沢洋平という恋人を萌に奪われている。道子にしてみれば、萌に自分を奪われたと考えるのは不思議なことではないのかもしれない。
道子は答えなかった。うわの空で一点を見つめ続けている。
成滝は焦った。面会時間は限られている。これではあっという間に十五分の面会が終わってしまう。成滝は口調を強くしてさらに問いかけた。
「俺はね、きみが人を殺した理由はそれだけじゃないと思ってるんだよ。なあ、みっちゃん! 本当はなにか隠してるんじゃないか?」
透明な仕切りによって隔たれているのがひどくもどかしかった。そうでなかったら、成滝は道子をしっかりと抱きしめていたことだろう。もうそれすら叶わないのが口惜しく、物悲しさを煽る。
道子はふうっと小さく息を吐いたあと、もう一度成滝のほうへ向き直った。それから彼女は淡々と、それこそできの悪い生徒を諭すような口調で話し始めた。
「この世には害虫がたくさんいる。蚊という生き物もそのひとつ。人類史上において、なんの役にも立っていない。昔、ハリウッド映画で、琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の遺伝子を採取して、恐竜を作った話があったけど、あれはやっぱり人間が作りだした単なる夢物語に過ぎないわね。現実は感染症を広めるだけの有害な生命体でしかない。いや、生命体としても、あれにはなんの価値もない。他の生命体に寄生して増えるだけね。自らはなんの生産性もないんだから。それどころか罪のない命を大量に殺すだけなのよ。そんな害虫を駆除しただけなのに、なぜわたしは取り戻した自分を手放せばならないの? ゴキブリだって気持ち悪いと意味もなく殺される。躊躇もされない。同情だってされない。それと同じことをわたしはしただけなのに、こんなところに閉じ込められている」
「どうしてきみは金沢萌を害虫だと思うんだ? きみの人生を台無しにしたからかい?」
道子は驚いたように目を見開いて成滝を見た。なにがおかしかったのだろう。彼女は片方の口の端を釣りあげた。卑屈な笑みを張りつけて道子は続けた。
「きみはメスの蚊が一生のうちに何回産卵するか、知っているかしら?」
「いや、知らない」
「三回から五回だそうよ」
「え?」
「あれは何度目だったのかしらね」
道子は目を細めて、成滝よりもずっと奥のほう。閉ざされた壁の向こう側の世界を見透かすように見つめてつぶやいた。
成滝はそれ以上、質問を続けられなかった。ただ道子を見る。今の道子には何が見えているのだろう。その虚ろな目の奥にある空洞はひどく深く、暗くて、どんなに明るい光であっても飲み込んでしまうような気がした。
「時間です」
そう言って、立ち合っていた警察官が道子を誘導した。腕を取られて面会室の扉まで進んでいた道子の足が不意に止まる。彼女はゆっくりと成滝のほうへ顔を向けると、にっこりと笑った。
「会いに来てくれてうれしかったわ。ありがとう、りっちゃん」
成滝は息をするのを忘れて道子に見入った。とっさに成滝は頭を振った。「また会いに来るよ」と告げると、彼女の目にちらりと悲しい黒い影が差す。
けれど、それは一瞬で見えなくなった。道子はそのまま黙って静かに部屋を出て行った。
道子との面会を終えて、帰路につく成滝には疑問がつきまとった。なぜ道子は蚊の産卵回数の話をしたのか。あの意味深な一言は何を意味しているのか。そしてなにより、どうして道子は悲しそうな顔をしたのか。
だが、それから三日後。成滝はひとつの大きな答えを突きつけられることになった。田口道子が拘留中、布団のシーツで首つり自殺をしたのだ。道子が最後に見せた悲しい表情は、もう二度と会えない成滝に向けた無言の『さよなら』だったのだ。そして道子の自殺により、事件の真相はわからないまま幕を閉じることになった。
――それじゃだめだ。
道子はきっと成滝に真実にたどり着いてほしいとヒントを託したのではなかろうか。なぜなら、道子は自分の職業を知っている。事件にはもっと深くて暗い闇がある。それにたどり着いてほしいと、彼女は思ったのではなかろうか。
「俺はやるよ、みっちゃん」
成滝は遠い
ブウンと耳元で羽音が聞こえた。思わず首を振る。すると目の前を一匹の蚊が挑発するかのように飛んでいた。
成滝は勢いつけて蚊を両手で挟み込んだ。パチンっと乾いた破裂音が響き渡ってすぐに、手のひらにじんじんとする熱と痛みを感じた。しばらく両手を合わせたままじっと耐える。熱と痛みが遠いてから、そっと手を開いてみる。一目散に逃げるように手のひらのすき間から飛び出した蚊は、ふらふらと成滝の傍を離れて去っていく。
――ああ、仕損じた。
チッと舌打ちしつつ、空を見る。湿った生ぬるい風に青くさい草木の香りが混じっていた。雨の予感がする。
成滝は空に向けて右手を伸ばした。
太陽が沈んで薄暗くなった空に、蚊の姿は完全に溶け込んで、もうどこにも見つけることはできなくなってしまった。
(エピソード1へつづく)
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