(10)

 目の前に巨大な蚊がいた。身長百六十センチメートルあるわたしと同じくらいの大きさである。蚊は弾けんばかりに膨れ上がった腹をわたしに見せつけるようにして転がっていた。どうやら腹の重みで自由に動けないらしい。なんとも憐れな恰好で横たわる蚊をわたしは静かに見下ろしていた。


 蚊はひたすらにわたしを見つめ返しながら、小首を傾げた。笑みをひとつ投げると、蚊は安心したのか、六本の足をだらりとさせた。任せたとばかりの様子である。どうやら早く楽になりたいらしい。ずいぶんと勝手気ままだ。自ら望んで血肉を吸っておいて、今度はそれらが重たいから早く出してくれとせがむのだから。


 手術用の精密ナイフを握った右手を見る。尖った刃先が鋭く光っている。二度、握りこんでグリップの具合を確認すると、躊躇なく刃先を蚊の腹に当てた。軽く触れただけで、プツッと音がして皮膚が裂ける。裂けたところからぷっくりと血が盛り上がるように出てきた。刃先を縦に滑らせる。


 先生、いつもと切る方向が違います――という声が聞こえたが、手は止めない。赤く長い筋が腹の真ん中に浮かび上がる。筋に沿って皮膚が裂けて、暗いすき間ができる。


 わたしはナイフを捨てた。カランカランと甲高い音を立ててナイフが床に転がった。先生、どうされたんですか。ちょっとどういうことなの。これっていつもと違うの――ガヤガヤと雑音が響く中、わたしは黒い口のようなすき間に魅入られる。そっと覗き込むと、暗闇の中に赤い皮膜が見えた。さらにその奥のほうで白いものがうごめいているのが見えた。それはぎょろりとこちらを見て、クツクツと楽しそうにのどを鳴らした。やっと見つけたね。そうだ。ここだよとわたしを呼んでいる。


 わたしはすき間に両手を差し入れた。ねっとりと血がまとわりつくが、構わずに厚い脂肪のついた皮膚を掴んだ。ヌルヌルと滑る。指先で皮膚をつぶすように握って、力を込めて左右に引き裂く。


 ぎゃああ。なにやってんのよ。これが手術なの。ねえ、なんとか言いなさいよ。先生。先生、やめてください。ああ、なんでこんなことを――誰かがわたしの腕にしがみついてくる。それを振り払って、わたしはさらに腹を押し広げた。

 薔薇が開花するように皮膚が裂ける。赤い薄い膜を引っ張る。ゴムのように弾力のある膜が千切れて中がよく見えるようになった。真っ赤な液体の中で体を九の字に曲げて横たわる赤ん坊がいた。異様に頭が大きいのは、頭だけが大人だからだ。濡れた頭髪をかき分けて顔を見る。大きな目をこちらに向けて、嬉しそうに笑っているのはわたし自身だった。赤ん坊の肉体を持ったわたしがもみじほどの大きさの手を差し出して、早く出してと訴えた。


 わたしは両腕を突っ込み、底から掬いだすようにして躰を持ち上げた。腹の外に出そうとして、ぐっと引っ張られる感覚が襲う。よく見れば、茹ですぎたソーセージのようにブヨブヨと柔らかい肉製のチューブが首に巻きついている。へその緒だ。らせん状に絡まった二本の青白いチューブに首を括られて、赤子のわたしの顔が苦悶で歪んでいる。本来なら赤ん坊をはぐくむ命綱が今は、母体が必死に離すまいとしている鎖のように思えた。


 わたしは迷わずに絡んだへその緒に噛みついた。そのまま肉を食いちぎる。ブッチンと表面の皮膚を前歯で裂きながら、肉を断つ。口の中に入った弾性に富んだ欠片をペッと吐き出す。真っ赤な血をまき散らし、肉のチューブがしゅるしゅると腹の中へ納まった。もうこれで邪魔はできまい。

 わたしはこみ上げてくる笑いを喉の奥で堪えると、手の中の命に向き合った。


 先生。先生ええ。早く閉腹を。このままじゃ、患者さんが。先生ええええ――涙声で足にまとわりつく誰かの手を蹴るように引きはがした。手の中の赤ん坊の口にカテーテルを突っ込む。ゴボゴボゥッと赤ん坊の口から大量の赤い液体が吐き出された。ああ、ありがとう。これでやっと自由に息が吸えるとわたしがケタケタと声をあげて笑う。


 腹の中のものを失くした蚊を見れば、真っ赤な血の海の中でヒクヒクと後ろ脚だけが不規則に痙攣している。死にかけだ。だが、それも仕方ないのだ。人の生き血を食い漁った報いはどこかで受けなければならない。たとえそれが生き残るための唯一の道であろうとも――


 わたしは腕の中にあるずっしりとした、たしかな重みを嚙みしめるようにしっかりと抱きしめた。


「お帰り、わたし」


 温かく柔らかい肌にほほを寄せると、鉄さびくさい生き物の匂いを存分に吸い込んだ。


(エピソード0 完)

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