(9)

 麦田くるみが死んだ。同姓同名の別人ではないのか――それを確認するために道子は火事の現場へ一目散に駆けだしていた。


 くるみが住んでいたというマンションは、彼女が言った通り、一緒に飲んだバーからほど近い場所にあった。二階の中部屋だけ黒くすすけた跡がある。


 彼女が死んだのは道子と会った翌日の夜であり、道子が洋平と会った日でもある。いったい、彼女に何があったのか。当人が亡くなった今はもう知る由もない。放火犯の可能性がある不審な男を見たという目撃者もいるらしく、警察が全力で追っているそうだ。


 道子は首をひねった。どうにも腑に落ちないのだ。

 くるみは萌に会ったのではないだろうか。いや、萌がくるみに会いに行ったのかもしれない。ふたりは同郷だ。連絡先くらい簡単に知ることもできるだろう。それに萌には新しい恋人もいる。その男と共謀して、くるみを殺した――そう考えるのが一番しっくりくるのだ。自分の欲望のために手段を択ばない女だと知っているからだ。


 洋平のことだってそうだった。道子が仕事で帰らないときを狙って、相談があると洋平を何度も呼び出した。ふたりで会うことに消極的な様子を見せれば『ふたりの将来にかかわる話だ』と言って承諾させる。そうして自分たちの同居生活の詳細を話して聞かせる。萌がどれほど道子に尽くしているのか。どれほど好意と尊敬と恩を感じているのか――そういう話をたっぷりした上で、道子にひどい暴力を受けていると訴えるのだ。だが、それだって道子が悪いわけではなく、疲れている道子を追い詰める自分が悪いと萌は泣く。このままではいつか大事になってしまうから、その前になんとかしてほしい――それでも納得できない洋平の前で裸になり、暴行の痕を見せる。そうやって、萌は道子から洋平を引き離していった。


 道子は事実無根だと訴えた。実際、暴力をふるったことは一度もないのだ。だが証明することはできない。その点、萌は怜悧狡猾だった。道子の病院にまで噂を広めたのだ。子供を産めなくなった中年女が若くてきれいな女に嫉妬して暴力をふるっている――そんな噂が総合病院のそこかしこでささやかれるようになって、道子は居場所を失った。信じてくれない洋平を許せなかったし、萌が恐ろしくなった。これ以上はもう耐えられないと手荷物ひとつ以外、すべてを手放した。総合病院も辞めた。マンションだって萌にくれてやった。これで手を切れるなら安いと思ったからだ。それから、クリニックを立ち上げた。唯一、道子を信じてついてきてくれたみどりと共に必死で働いた。やがてクリニックも軌道に乗った。誰も道子を『子供を産めないかわいそうな中年女』などと笑う人間はいない。


 けれど二年後。萌は再び道子の前に現れた。道子が望んでも、望んでも、手に入れられなかった命をお腹に宿し、洋平という伴侶までをも伴っていた。

 道子が洋平の子供をおろしていることも、二度と子供を産めない躰だということもすべて承知の上で、萌は『完璧な自分』を見せつけるために現れたのだ。道子にとって、それは今の『不完全な自分』を抹消されたことと同一だった。


 ブウンと羽音が聞こえた。右へ左へ、ちょこまかと飛んで煩わしい。蚊が――道子の右頬に止まった。羽音がやんでから、おもむろに道子は自分の右頬を思いきり叩いた。じんじんとした痛みが襲う。次いで頬が熱を帯びる。頬を叩いた自分の左手をゆっくりと見た。つぶれた蚊が手のひらに張りついている。まだ生きているのか、蚊の足の先端がかすかに震えている。蚊の腹はぷっくりと膨れている。道子は再び手のひらで蚊を圧しつぶした。プツッという小さな音がして、手のひらを開いてみる。つぶれた腹から飛び出した真っ赤な血が右手にもついている。


 ふと足元を見る。生気を吸われ、枯れ枝のように干からびた『不完全な自分』が転がっている。黒々とした眼窩から転がり落ちた目玉は、新たな獲物を探して飛んで行った蚊を追うように空の向こうをじっと見つめている。


 唐突に道子は悟った。ああ、そうだ。『完璧な自分』はあのメスの腹の中にいる。道子の手で取り上げられるのを、あの膨らんだ腹の中でじっと待ち続けているのだ。そうとわかれば、もう一分一秒の猶予もない。あのメスに勘づかれたら、瀬川美月や麦田くるみ、もしかしたらもっと他にもいるかもしれない数多の女たちのように、抹殺されてしまう可能性がある。


 ――そうはさせない、絶対に。


 道子はくるりときびすを返した。強く拳を握りしめ、来た道を急いで戻る。黒い影だけが道子を追うように足元から長く伸びていた。

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