(8)

 ざんざんぶりの雨の日だった。道子のマンション脇にあるゴミ捨て場の軒先でひざを抱えるようにして座っている女性がいた。まだ若い。二十代前半だろう。梅雨の時期である。雨が降れば羽織がどうしたって欲しくなる。そんな中で女性は薄手の白のワンピース一枚きりだった。ワンピースとそろいのバレーシューズは泥まみれで、靴の中も水浸しになっていることが容易に想像できるほどだった。

 顔を覆う長い黒髪から絶え間なく雨露がしたたりおちていた。ずぶ濡れの躰を己の両腕で抱きしめてガタガタと震えている。そんな女性を放っておけなくて声を掛けたのがきっかけだった。


 どうしたんだと問う道子に、女性は「追い出された。行くところがない」とかすれ声で答えた。血の気のうせた唇が言い終えてからもブルブルと震えている。たすけてと訴える上目遣いの目は弱りきった小動物のように愛くるしいものだった。


 雨の中にこれ以上置いておけば低体温で死ぬ可能性がある。それだけは避けねばならない。仮にも自分は医者であり、中でも女性の病を治療する専門家なのだ。そんな立場の人間がどうして捨て置けるだろう――それは一種、義務感から来るものだったと思う。


 立つのもやっとな女性に肩を貸してやり、自分のマンションまで連れ帰る。ひとまず玄関で待たせて急いでバスタオルを持って戻る。その場で服を脱がせて道子は言葉を失った。躰のあちこちに痣があった。どこかで転んでできたものではなく、明らかに暴力を受けたあとだとわかる。その痕を隠すようにタオルで包みこむと、風呂場へ向かった。


 タオルを取りに来たときに沸かしておいた風呂の中へ介助しながらゆっくりと入れる。冷え切った体を温めるためにかけ湯をしてやると、白かった肌に赤みが戻った。それでも芯がしっかり温まるまで風呂に浸からせてから着替えさせた。道子の服のサイズでピッタリだった。着替え終わった女性を誘導してリビングに連れていき、ソファーに座らせると、道子はダイニングキッチンへ取って返し、ホットミルクを作って飲ませた。紫色になっていた唇はすっかり色を取り戻し、淡い薄紅色に変わっていた。

 女性の長い黒髪を丁寧にドライヤーで乾かしてやる。絹糸のように美しい髪を手櫛で梳きながら、道子は名を尋ねた。


 女性は「萌」とおずおずとした口調で答える。甘えるような目で道子を見上げ、もう一度「たすけて」と口にした。


「だめええええ」


 叫び声を聞いて、道子は勢いよく上半身を起こした。はあ、はあと肩で息をつく。そこで叫んだのが自分であったことに気づいて愕然とした。まさか自分の叫び声で起きるとは思わなかった。額についた粘っこい汗を拭きながら、自嘲気味に笑む。四年前、萌と最初に出会ったときのことを夢に見ただけだというのに全身汗まみれになっている。あの時の選択が間違いだったのは否めない。それでも他に選択肢があっただろうかと、何度自問したかわからない。未だに答えは出ない。後悔ばかりが募るだけだった。


 道子はゆっくりと周りを見回した。オフホワイトの壁紙で囲まれた六畳ほどの部屋に備えられた簡易ベッドの上にいる。壁掛け用のテレビと冷蔵庫、リクライニングチェアはどれも道子が選んだものだ。どうやらクリニックの仮眠室らしい。どうしてここにいるかという理由は、やってきたみどりによってもたらされた。


「金沢先生が昨夜遅くに運んできたんですよ。先生が倒れたって」

「そう。ちょうどみどりさんが宿直だったのね。助かったわ」

「疲れがたまっておいでだったんでしょう。このところ、先生は寝不足のようでしたし。なにより、金沢先生の奥様のことでは気をもんでいらっしゃったでしょうから」


 さすがにみどりだなと道子は微苦笑した。表には出さないようにしていたつもりだったが、ベテラン看護師の目はそう容易には欺けないらしい。だからこそ、患者の微々たる変化にも応対できるのであろうが――


「今、何時です?」

「五時になるところです。このまま出勤されますか? それとも一度、帰宅されます?」

「このまま出勤します」

「では、厨房のほうに先生の分も用意するように伝えておきますね。シャワー室が使えるようにしておきますから、どうぞ」


 そう言って仮眠室を出て行こうとするみどりに「本当にいつもすみません」と声を掛けると、みどりは「先生あってのクリニックですよ」と人好きのする笑顔を添えて出て行った。


 道子は一度ぐるりと肩を回してから、ベッドから降りた。躰が鉛のように重い。できるなら、このままもう一度眠ってしまいたい気にさえなる。けれど、目を閉じればまた、意に沿わぬ夢を見ることになるかもしれない。それならば起きていたほうがいくらかマシだ。動きの悪い体を無理やり動かした。


 泊まりになるときのために下着や着替えは仮眠室の収納スペースに置いてある。それを手に取るとシャワールームへ向かう。新生児室の前を通ると、五人の赤ん坊が並んで眠っていた。少しだけ足をとめる。どの子もよく知っている。十月十日間、道子も一緒になってはぐくんだ命だからだ。たくさん母乳を飲んでいるのだろう。どの子も血色がよく、ふくふくとしている。この世の中で赤ん坊よりも尊いものがあるだろうか――と道子は思う。


 産めなかった我が子を思い、道子は産婦人科になる選択をした。一人でも多くの子を、この手でとりあげようと思ってのことだ。でも、現実は取りあげるよりも命を摘むほうが多い。それでも自分が医者であり続けるかぎり、できるだけそんな悲しい運命を背負わせないようにと、中絶の場合は患者と慎重に話し合いをするようにもしている。なぜ、こんなにも尊い存在をおもちゃのように扱うことができるのか。道子には理解できないことだった。


 シャワー室に入って鍵をかける。着衣を脱いで、ラタン製のかごの中へ放り込む。ふと鏡に映りこんだ裸の自分が目に入った。瞬間、ひぃっと乾いた悲鳴が漏れた。息を飲む。白髪交じりの潤いを失った髪。黒く落ちくぼんだ目。口元に浮かぶ長いほうれい線。開いた毛穴。カサカサに乾燥して、薄皮がひび割れた唇。目の前に老婆がいる。


 ふるふると定まらない両手でやつれたほほをなぞる。その指先から乾燥してはがれやすくなった皮膚がポロポロと粉雪のように落ちていくのだ。


「うそ……よ。うそ……よ。こんなの……」


 ――夢に決まってる!


 きっと夢だ。夢に違いない。道子はぎゅうっと強くまぶたを閉じた。胸に手を置いて、深く息を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。それを数回繰り返してからまぶたを開いた。 


 ほおっと思わず息が漏れた。たしかにやつれており、目の下にはくまができているが老婆の姿の自分は消えていた。。


 道子は急いでシャワーを浴びた。熱い湯を頭から被ったことで、体のべたつきはなくなり、気持ちも少し持ち上がった。タオルで髪を乱暴に拭きながら、もう一度仮眠室へ戻る。朝食は入院中の患者たちと同じ食堂でとることになる。それまでに医師の道子に戻らねばなるまい。


 部屋に戻るとテレビの電源を入れた。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、蓋を開ける。それをぐびりとあおる。よく冷えた水が食道を伝って胃に落ちていく。それと同時にまとわりついていた熱気が散っていく気がした。もうひと口飲もうとして手がとまる。


「二十四日午後十一時前、A市△△町にある五階建ての集合住宅の一室が全焼する火事があり、焼け跡から一人の遺体が見つかりました。警察によりますと死亡したのはこの部屋に住む麦田くるみさん、二五歳で――」


 見開いた目が神妙な面持ちで火事のニュースを伝えている男性アナウンサーを凝視する。


 火災の原因は放火――そう聞いて、ペットボトルが手から滑り落ちる。どぼどぼと水がこぼれる。足と床のすき間に入り込むようにこぼれた水が広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る