(7)
曽布川美咲という人物の話を聞いたあとで萌とのこれまでのことを照らし合わせてみると、あらためて瀬川美月のときと同一であると言わざるをえなかった。ただ一点違うのは、命を取られるまでに至っていないところだろう。萌、当時は美咲だったとして、彼女が瀬川美月を殺したという話は少々突飛な発想と言えなくもない。だが、麦田くるみの心情や美咲が描いた絵の心理学や色彩学の分析を基に考えれば、完全に否定することもできない。むしろ確率は高い気がする。萌にはそんなうしろ暗いものが見えるのだ。そして瀬川美月から、いつ『萌』になったのだろう。
ぶるっと武者震いする。
――もしも……もしも自分が萌と対立する道を選んでいたとしたら?
瀬川美月は戦うつもりだった。絶対に負けないと。そう思っていた矢先の交通事故。
道子はバカバカしくて戦意を喪失し、萌から離れた。負けを認めたと言い換えてもいい。だから殺されなかったのか。それともこれからなのか――
「悪い。遅くなった」
そう声を掛けられて道子は顔をあげた。カジュアルな黒のジャケットを羽織った短髪の男が手をあげてやってきた。たった半年会わないだけで、ずいぶん白髪が増えている。だが、それ以外は特に変わりはなさそうだった。彫の深い顔立ちは四十歳近い今もなお、女性たちを惹きつけてやまない色気に満ちている。
「待ったか?」
「ええ、少しね。でも考え事をしていたからちょうどよかったわ」
約束の時間より十五分ほど過ぎていた。それだって今始まったことではない。つき合っているときから、洋平が時間をきっちり守ることなど、あった試しはない。時間を守ったのは一度。道子と別れ話をしたときだけだ。
「迷わなかったか?」
「文明の利器を使えば迷いようがないわよ」
「それはそうだな」
洋平が指定した店は街の中心にあった。繁華街よりも少し横道に入ったこじんまりとした小さな飲み屋だ。個室もあって、密会にはもってこいだった。
「いい店ね。萌も連れてきてあげればいいじゃない?」
「おいおい、ここは俺の隠れ家なんだぜ?」
洋平は困ったように眉を八の字に曲げて笑った。道子は苦笑した。どうやら夫婦仲はうまくいっているとは言い難いらしい。
「注文は?」
「適当にしておいたわ。萌と結婚しても、食の嗜好が特別変わったわけじゃないでしょ?」
「そりゃあ、まあ。今もおまえと一緒にいるみたいな感覚だからなあ、あいつの場合は」
その言葉に道子は息を飲みこんだ。洋平が眉間にしわを寄せて、覗きこむように道子を見た。
「どうした? 顔色が悪いぞ。そんなにクリニックのほう忙しいのか?」
「大丈夫よ。ちょっとここのところ寝不足なだけ……だから」
「おいおい、本当に大丈夫かよ? だから産婦人科医なんか選ばずに、俺と同じ整形外科を選べばよかったのに。開業医なんて楽だぜ? じいさん、ばあさん連中の話をちょっと聞いてやって、リハビリしてやりゃあいいんだからさ」
やれやれと肩をすくめながら洋平は冗談とも本気ともつかないことを言って笑った。同じ道を選んでいたら別れなかったのだろうか――そんな思いがよぎったが、すぐに打ち消した。別れたことに未練はない。あるのは文句だけだ。しかし、それだって今さらだ。
道子が言葉を飲み込んだちょうどそのタイミングで料理と飲み物が運ばれてくる。やってきた飲み物で洋平が口を潤したところで道子は話を切り出した。
「帝王切開のこと、なんだけど……」
洋平はグラスを置くと、ナフキンで軽く口を拭きながら、残った手で「待ってくれ」と話を遮った。
「その前におまえに話しておきたいことがある。実は俺、萌と離婚するつもりなんだ」
「え?」
予想もしていなかったことに、道子は手にしていた箸を落としてしまった。洋平は涼しい顔のまま続けた。
「萌も納得済みだ。アイツにとっても都合のいい話なんだよ。俺よりももっと若くて有能なのと、うまくやってんだからさ。まあ、それがわかってからは俺もあんまり家には帰ってなくて」
「家に帰ってないって……毎日ホテル暮らしとかなの?」
「いや、実は俺にも新しい女がいる。そいつのところに入り浸ってる感じかな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそんなことになっちゃってるのよ。いつ離婚するつもりなの。もうすぐあなたたちの子供が生まれてくるのよ」
道子は語尾を強くして責めるように尋ねた。すると洋平はパンっと両手を打って道子を指さすと、にやりと笑った。
「そこでおまえの協力が必要になるわけだ。なあ、誰か里親になってくれる人を紹介してくれないか?」
「なんですって?」
「だからあ『さ・と・お・や』だよ。萌も俺も子供は引き取れないっていう話なんだから、他に親を見つけてやるしかないだろう?」
「子供を……引き取れない?」
「おまえだって知ってるだろう? 俺が子供苦手だってこと。ああ、そんな顔するなよ。おまえには悪かったと思ってんだから。それに俺だって後ろめたいところがあったから、今度はちゃんとしなきゃって考えたんだよ。実際に後に引けない大きさになってから知った話だったのもある。だけどさ、愛情がない親に育てられるほうが不幸じゃないか? 子どもが欲しくて仕方ない親に大事に育ててもらったほうが絶対にしあわせになれると思うんだよ」
金属バットでガツンと後頭部を殴られたような衝撃が道子を襲った。常識を逸している。それなのに目の前の男は悪びれる様子もなく笑顔で言ってのけた。
「なんならさ。おまえが里親になってくれたら一番安心なんだけどな。おまえ、子供を作れない躰だし、いなくなった俺たちの子の代わりだと思えばさ。いい話じゃないか? なあ、おまえが引き取って育ててくれよ。おまえなら金もあるし、俺の養育費なんかなくたって大丈夫だろうしさ。な?」
つま先が氷水に浸っているかのように急速に冷たくなっていく。その冷気が脊髄を通って脳へと立ち上り、肌がぽつぽつと泡立った。耳に膜が張って、洋平の声が遠くに滲む。冷や汗が額にびっしりと浮かんでくる。
――いなくなったんじゃない。無理やり引きはがされたんだ!
道子は産みたかったのだ、誰よりも。反対したのは洋平だ。ふたりともまだ研修医だった。子供ならこの先チャンスはある。だから今は子どもをおろしてくれと土下座して頼んだのはこの男だ。一人前になったら、そのときに籍をきちんと入れて、あらためて子供を作ろう――道子はその言葉に従った。三十代半ば。やっとめぐってきたチャンスだったのに、肉腫のために子宮ごとふたりめの子供を失うことになってしまった。
――いったい、これまでの自分はなんだったんだ。
怒りを通り越して虚しさが押し寄せる。無駄だとわかっていても、自然に下腹部に手が伸びた。真っ黒な空洞がこの中にある。命を宿すことができる器官が取り除かれた後に残った空洞の奥から『オンギャア』と泣く赤ん坊の声が聞こえてくる。
「おい、道子? どうした? 顔が真っ白だぞ」
洋平がすぐそばまで寄ってきて肩を掴んだ。大きく揺さぶられる。視界がぐらぐら揺れて、洋平がふたり、三人と増えて重なる。赤ん坊の声は泣き止まない。空っぽの腹が風船のようにみるみる膨れ上がり、苦悶に満ちた赤ん坊の顔が表面に浮かび上がる。ドンっと腹を蹴られたような強い痛みが襲った。ぼとぼとと多量の血と一緒に何かが床に落ちた。しぼんだ腹を恨めしい目で見あげる赤子と目が合う。
道子は両手で顔を覆った。歯がカチカチとなる。膝ががくがくと震えた。流れ出た血液で汚れた内股がぬるぬると生温い。血肉の腐った
「ごめん、なさい。ごめ……さい」
「道子! おいっ、道子!」
遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえた。けれどそれっきり。道子の視界は闇に閉ざされた。
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