(6)ー②
尋ねると、くるみはうんと大きく首を縦に振った。それから隣の席に置いていたバッグからA4サイズの紙を取り出して道子の前に置いた。アイボリーよりももう少し黄色がかったような古ぼけた紙には長い髪の少女の絵が描かれている。誰かに似ている気がする。
「これ……」
さらに道子はハッとなった。似たような絵を萌からもらったことがある。絵の内容こそ違えど、紙といい、人物の面立ちといい、そっくりである。
「これ、美咲がみっちゃんをモデルに描いたものです。みっちゃんが亡くなる一週間前、私に『調べてほしい』って預けてきたんです」
「調べてほしい?」
「はい。実は私の父はちょっと心理学とか学問に詳しい人で……その父にこの絵を鑑定してもらえないかって」
絵を見れば、描いた人間の心理状態がわかるという話は聞いたことがある。
「この絵でなにがわかったの?」
道子が問うと、くるみは『なにか違和感がありませんか?』と逆に質問を返してきた。
「違和感というか……気持ち悪いって思えるのよ。なんかこう……絵の中の少女がどこを見ているのかわからないっていうか、虚ろっていうか……」
「それはなんでだと思います?」
「わからないわ」
理由はないのだ。とにかく気持ちが悪い。絵のことはわからないが下手ではないと思う。瀬川美月が美人であったことも手に取るようにわかる。それでも少女時代特有の儚さみたいなものではなくて、もっと病的な脆さみたいなものが絵には塗りこまれているように感じるのだ。原色が使われていなくてハッキリしておらず、全体的にうすぼんやりとした描き方のせいかもしれない。
そう伝えてみると、くるみは『たしかに色の影響もある』とうなずいた。
「父に言わせると、そもそも黄色ってよくない色らしいんです。ほら、信号も黄色はとまれですし、遮断機も黄色と黒です。警察の立ち入り禁止テープも。なので、黄色の紙を好んで使う人の性格傾向は誰かの注目を人一倍集めたい人なんだって言うんです。それからもっと重要なことなんですが」
そう言うと、くるみは少女の顔を指さした。
「この人物の顔、歪んでいるでしょ?」
あらためて道子は少女の顔を食い入るように見た。たしかに指摘されるように顔の輪郭がゆがんでいる。いや、それだけではない。左右の目の高さも大きさも微妙に違っている。
「本当だわ。だからなの?」
「ええ。絵そのものが歪んでいますから、それをこちらは必死に修正して見ようとするんです。そのうえ、線が全部ブレているんです。おそらく下書きはシャーペンだと思いますが、すごく細いのでよく見ないとわからないですよね。だから普通は理由がわからないけれど気持ちが悪いなって思うんです。これを受け入れられるのは、そういう細かいところが気にならない人だって父は言ってました」
「そうなのね。わたしも一度、誕生日プレゼントとしてもらったことがあるの。わたしの顔を描いたって。なんでこんな古臭い紙をわざわざ使うんだろうとか、見てると船酔いしているみたいな気分になるんだろうとか不思議に思ったんだけど、やっと理解できたわ。それで? あなたの根拠はなに?」
「父はこの絵から、この絵を描いた人物は脳のどこかを欠損しているんじゃないかと結論付けました。もっとわかりやすく言うと発達障害とかパーソナル障害とか。ああ、でも勘違いしないでくださいね。差別とか偏見とかじゃないんです。あくまで専門医の治療や支援が必要な人じゃないかっていう意味なんで。だから父はこの絵を描いた子には早めに専門医の受診を勧めたほうがいいって。周りに協力してもらうべきだって。なにをするか、常識で物事を考えてはいけない相手だと、私は美月に教えたんです。
事故は……その翌日のことでした。中学を卒業するまで、美咲はみっちゃんのままでした。そのあとのことは私にはわかりません。彼女だけ親元を離れて遠くへ行ってしまったから。同窓会も出席したこともありません。成人式だって帰ってこなかった。あとで話を聞いたんですが、美咲は親や姉から虐待を受けていると周りのみんなに話していたそうです。実際に受けていたかどうかは定かじゃないです。美咲の両親はふたり揃って学校の先生だったし、お姉さんも進学校へ通う秀才で、悪い噂なんて聞いたことがなかったからです。でも、美咲は言葉巧みだったそうです。それだから、みんな同情的というか、庇護欲を駆り立てられたというか。とにかく、自分のつらい話をするときには『あなただけが頼りなんだ』と必死に言うそうです。そういうのって、頼られるほうはちょっと得意になるじゃないですか? 特に優しい子は鵜呑みにして突っぱねられない。そういう相手を美咲はきちんと選んでいるんです。みっちゃんはまさにその恰好の獲物でした。でもまさか、こんなところで美咲に会うなんて思ってもみませんでしたけど」
「美咲さんにはご両親もお姉さんもいるのね?」
「ええ」
「萌は……身内は誰もいない。孤独だって言ってた」
「そう言っておいたほうが都合いいですよね。過去を知られずに済みますから」
「たしかにそうね。今も連絡は取れるのかしら?」
「取ろうと思えば……できないこともないですが、きっといい顔はしませんよ。美咲の家族は美咲のことを死んだと言ってますから。そりゃあ、そうですよね。娘が別人に成り代わってしまったんですから」
くるみは目を伏せた。まつげが濡れて光っている。よほど亡くなった親友のことが好きだったのだろう。彼女は唇を真一文字に引き結び、うつむいたままグラスを力強く握りしめている。
「実はね、わたしもあなたのお父さんと同じように思ってたのよ」
「え?」
くるみがパッと顔をあげ、まぶたをしばたたかせた。道子は口元を緩めると「はじめはね、統合失調症も疑ったのよ」と答えた。
「演技性や自己愛性の人格障害じゃないかとも思ったの。あの子の異常な行動の意味を、医師免許を持つ人間として放っておけなかったというのが正しいかもしれない。なによりわたし自身、どうしてこんなふうになってしまったのかをちゃんと理由づけたかった。だけど結論は出なかった。なにかしらの障害はあるのかもしれないって、うやむやに納得せざるを得なかった。専門医に診せるどころか、相談もできなかった。でも、あなたの話を聞いて、やっぱり間違ってなかったんだなって確信が持てたわ」
道子は手の中でグラスを転がした。思い出すだけで、下腹が大きな石を詰めこまれたみたいに重たく痛む。お腹に命が宿っていたときの、あの重みが再び道子の中に戻ってきて『どうして生んでくれなかった』のかと責め立てているようにも感じられた。
「美咲は危険です。なにをするかわかりません。あなたで何人目の犠牲者かもわかりません。だから、できればこれ以上関わらないほうがいいです」
必死の形相でくるみが説く。道子は短く息をひとつ吐くと、ぺちゃんこに凹んでいる下腹部をなでながら笑みを作った。
「もう遅いわ。だって、大事なものは奪われてしまっているんだもの」
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