(5)

 クリニックに戻ると、二階にある仮眠室の簡易ベッドに道子は横になった。梅雨の合間の晴天は夏の盛りのように暑く、シャツの下までじっとりと汗をかいている。枕元にあるエアコンのスイッチを入れてから、道子はバックの中のスマホを取り出した。LINEの通知がある。萌だった。きっと念押しに違いない。文面の確認をするのはやめて、既読だけつける。


 肺の中の空気がからっぽになるほど深く息を吐く。くるみと別れてから、ずっとこの調子だ。彼女の声が耳から離れない。


『あなたをそっくりそのまま盗むようなこと、するはずないもの』


 その言葉を聞いた途端、道子の躰は石膏で固められたかのように動かなくなった。くるみのように『盗む』という言葉を使う人は誰一人としていなかったからだ。大抵の人は萌と道子がまるで姉妹のようにそっくりだと、仲がいいのだろうという。

 予想もしていなかっただけに、道子は冷静ではいられなかった。どうして、そんなことを言うのかを聞きたくてたまらなくなった。


 萌は道子のすべてを真似ていた。化粧の仕方や服装。持っている小物もすべて道子の使っているものと同じだ。それだけでなく、しぐさや話し方まで似せてくる。最初は好意から来るものだと思っていた道子も、頭のてっぺんからつま先にかけてまるきり同じになると、いささか恐怖を感じた。萌と離れたのに、子どもをダシに萌のほうから近づいてきた。拒みたかったが、萌はずる賢かった。結局、道子の退路は断たれ、奇妙で危うい関係が続いている。

 そういったこともきっと、麦田くるみは承知しているに違いなかった。どこかで話ができないかと切り出すと「友人を待たせているから」とくるみは心苦しそうに答えた。そのかわり、彼女はスマホの番号を教えてくれと言った。ちゃんと時間をとって話がしたいから必ず連絡するからと、彼女は友人たちの待つ喫茶店へ戻っていったのだ。


 本当にかかってくるのか。いつまで待つのか。こちらもちゃんと相手の連絡先を聞いておけばよかったと思っていると、まるで思いが伝わったかのようにスマホが鳴った。ディスプレイを見た途端に道子の顔は曇った。洋平だった。


 洋平と最後に会ったのは萌の初診のときである。一緒についてきて、無事に生まれるまで道子に診てもらいたい。道子の腕を見込んで恥を忍んでお願いに来たと頭を下げたのだ。それからはLINEで萌の状況を説明するくらいで、個人的な連絡はしていない。


「はい」

『俺だけど。帝王切開のこと萌に聞いた。おまえに帝王切開勧められたって」


 洋平の不機嫌そうな声がスマホを通じて飛んでくる。ああ、やっぱりなと思った。萌と別れたのはほんの十五分ほど前のこと。直後に洋平に連絡したのだろう。いつもながら都合のいいように言い換えられている。そうじゃないと文句を言いたくなるのをぐっと押さえ込みながら、平静を装って話を続ける。


「萌にはちゃんと説明したんだけど、うまく伝わっていないのね」

『また、そうやって言うんだな』


 洋平の険のある言い方に、ちりっと胸の奥がやけつくように痛んだ。


「これ以上、誤解されたくないから会って話したいんだけど。時間取れそう?」

『ああ、俺も会って相談したいが今日は無理だ、先約がある。そうだな。明日の八時以降ならなんとかする。それでも構わないか?』

「ええ、明日なら。でもそれ以上、先延ばしは無理よ」

『わかってるさ。明日の八時に。店は俺のほうで勝手に決めていいか? できれば店の名前は萌には伏せてもらいたいんだが』

「あら? わたしと会うのは萌も承知の上だと思うけど?」

『とにかく。会ったときにいろいろ話すから。急患で遅くなるときは前もって連絡してくれ』

「ええ、了解」


 通話を終えると、スマホを枕元に置いた。いろいろとはいったいなんだろう。萌に自分と会っていることを知られたくないのだろうか。いや、店のほうを知られたくないのか。どちらにしても洋平が萌に対してなにかしらの不審を抱えていることは想像できる。

 だが、それ以上考えるのはやめた。躰が異常に重だるい。萌に会うと必ずそうだ。生気を吸いつくされたような倦怠感にいつも悩まされる。今日もやはり例外ではない。


 ――それなら会わなきゃいいのに。


 そう思うけれど、お腹の中の赤ちゃんを思うとどうしても突き放せない。たぶん、萌もそれをよく知っている。


 道子は壁際に顔が向くようにごろんと寝返りを打った。

 仮眠室の隣は入院している赤ん坊たちが眠る新生児室だ。防音機能を備えた部屋からは赤ちゃんたちのぐずる声も、看護師たちのあやす声も聞こえてこない。ただ廊下を行きかう看護師や新米ママたちの足音や声は扉の向こうでしている。そのせわしない音を聞きながら、自分もあちら側の人間になりたかったとすでに望むべくもない現実をかみしめて、道子は静かに目を閉じた。

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