(3)

 みどりにあとを頼んで、道子は近所の喫茶店へ向かった。三十年以上やっている老舗の喫茶店は窓も大きくとっていて、開放的である。昭和の建物としてみれば、ずいぶんとしゃれていて、建った当時はおそらく最先端であったろう。現在は外観の白壁に浮きや膨らみができてデコボコになっていたり、ところどころ剥がれ落ちたりと、ずいぶん老朽化している。


 けれど道子にはそれが逆に心地よかった。近所にはチェーン店のコーヒーショップやファミレスなどもたしかにある。建物は新しくても、ざわざわと騒がしくて落ち着かない。それに、ここのナポリタンが大のお気に入りなのだ。熱々の鉄板に薄焼き卵が敷かれている。具はシンプルに玉ねぎ、ピーマン、ニンジンとハム。ちょっと甘めのケチャップがたっぷりに使われている。どんなに忙しいときでも週に二度は必ず食べに行くようにしている。そんな生活も、もう一年になるのか。


 窓から入る灯りと暗めの照明。落ち着いた色調のテーブルや椅子が並んでいる。四人掛けのテーブル席が四つに、カウンター席が六つ。静かな店内に流れるクラシックの調べを聴きながら、食後のカフェラテを飲むのも至福の時間だ。道子にとってはかけがえのないひと時をくれる、とっておきの場所だったのに――


 ともすれば口をついて出てきそうになるため息を押し込んで、道子は格子状にガラスがはめ込まれた片開きの扉を静かに開けた。ドアチャイムがカランとかわいらしい音を立てる。次いで『いらっしゃい』という艶のある低い男性の声がした。口ひげを蓄えた五十代後半の店主は、道子を見ると柔和な笑みを浮かべた。道子も笑みを浮かべ、会釈してから店を見回した。テーブルもカウンターもすべて埋まっている。そのほとんどが常連だ。道子も見覚えのある顔がちらほらあった。ただ一番手前のテーブル席は新規の客らしかった。古ぼけた喫茶店とは不釣り合いな二十代半ばといった若い女性グループがおしゃべりと食事を楽しんでいる。

 そのうちのひとりが道子に目を向けた。色白で面長。長い黒髪を後ろでひとつに結んでいる。少女のように線の細い女性はカタンッと手にしていたフォークを取り落とす。切れ長の目をさらに細めてじっと道子を見つめる眉間に濃いしわが浮かぶ。「ちょっと大丈夫」とグループのひとりが声をかけると、はっと我に返ったように友人に「ごめん」と笑い返した。


 ――どこかで会ったかしら?


 いったい誰なのか思い浮かばないまま横を通過し、さらに奥へ向かった。窓際の一番奥の四人掛け。いつもの道子の席だ。今はそこに萌が座っている。道子が入ってくるとこっちだと言うように高く手をあげた。彼女の前にはすでに飲み物のグラスが置いてあった。血液のような真っ赤な液体に、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「先に飲み物だけ頼んじゃった。喉乾いちゃってさ」


 やってきた道子がまだ座り終わる前に萌はそう言って、ストローに口をつけた。白い半透明のストローの中を赤い液体が上っていく。中身がトマトジュースだとわかっていても、ひどく生々しく感じた。


「あたし、焼肉定食にしたよ。道子ちゃんはナポリタンだよね?」

「昨日来てナポリタンは食べてるから、今日はチキン南蛮にしようかな」


 答えると萌は「え?」と漏らして目をぱちくりとさせた。それから「ごめん」と両手を合わせる。


「実はもう頼んじゃってるの。まさか昨日も来てるなんて思わなくって」

「ああ……そう。別にいいよ」

「気を利かせたつもりだったのになあ。それなら、お店の人たちも言ってくれたらいいのに」

「あなたが食べると思ったんじゃない? ほら、お腹大きいから、たくさん食べるんじゃないかって。きっと向こうも気を遣ってくれたのよ」

「そうかなあ? まあ、いいけど」

「とりあえず、ありがとう。注文せずに済んで助かったわ」


 溶けて角が丸くなった氷を転がすようにしながら、道子は水をひと口飲んだ。萌はよかったと胸をなでおろし、白い歯を見せて笑う。


 あらためて萌を見る。二十代前半のつるりとした肌は磁器のように白い。二重の大きな目に、少し低くて小さな鼻。照り艶のいい唇。こうして正面から向き合ってみると、彼女のいろんなところが気になってしまう。自分よりもずっと若い彼女をうらやましく思う反面、またかと思うのだ。一週間前よりも髪が短くなっている。隠れてはいるが、ちらりと見える耳の周りが青くなるほど短く刈り上げられている。先週の検診のときはまだ刈り上げられていなかった。頭頂部の髪をパーマにしていないだけで、髪型はそっくりになっている。いや、髪型だけの話ではない。彼女の持っているハンドバッグも、ピアスも、元は道子のものなのだ。


「髪、切ったのね」


 そう伝えると、萌はうれしそうに目を細めた。「うん」と首を大きく縦に振った。


「先週の検診のとき、すごくカッコイイなって思ったんだ。あたしでも似合うかなあって。カラーとパーマはさすがにできなかったけど、洋平さんもね、すっごく似合ってるって喜んでくれたんだあ」

「そう」


 うすく唇を横に引いた。彼女の口から洋平という名を聞くたびに、胸をやすりで砥がれるようなざらりとした感触に襲われる。よく知っている男。知りすぎている男。かつての恋人である。別れた今も患者の夫ということで繋がっている。きっちり割り切ったつもりでいても、やはり別れ方の問題なのか。洋平とのやりとりをのろけて話してみせる萌に対しても、ざらついた感情が首をもたげる。


 別れた男の顔を浮かべながら、いったい彼はどう考えているのだろうと思った。別れてから二年になるが、その間、どんな思いで萌といっしょにいるのだろう。まして子供ができたから結婚するなど、自分との違いを思い知らされるたびにずくんと下腹部が重くなった。躰が自然に強張る。そこはもう空っぽで、なにもないというのに――


 気分が深く沈みそうになったところへ頼んでいたものが運ばれてくる。萌の前にはサラダと焼肉、楕円形に整えられたライスが一皿に盛られたものが、道子の前には山なりになったナポリタンが乗る鉄板がそれぞれ置かれた。出来立ての食事から白い湯気が上がり、鉄板はジュウジュウと音を立てている。食欲をそそる匂いが鼻孔を通って脳へと達する。

 萌は待ちきれないとばかりにフォークを手にして食べ始めた。肉の脂にまみれた唇がてらてらと輝くのを横目に、道子も同じくフォークを手に取って、パスタの山を崩す。


「ねえ、さっきの話だけどさ」と萌がプチトマトを口に入れながら切り出した。


「さっき?」

「そう、帝王切開のこと」

「ああ。このままだとお腹を切らないといけなくなるわよ。仮に位置が直っても、へその緒が首に巻きついていたら緊急切開になっちゃうわけだけど」

「それなら余計、あたしは帝王切開がいいなあ。だって、陣痛回避できるわけでしょ? いつ来るとも知れない痛みを待ち続けるとか、世界の終わりみたいな痛みに長時間耐え続けないといけないとか、あたし、想像しただけで嫌なのよね」

「それはそうかもしれないけど、帝王切開だって大変よ? 子宮を傷つけることになるんだからね。元に戻ろうとするときに、自然分娩よりも痛くなるのよ」

「えっ、なにそれ? 生んだあとは痛くなくなるんじゃないの?」

「陣痛は治まる。だけど、出産後だっていろんな痛みがあるの。会陰を切開すれば、そこを縫わなくちゃならない。縫うときだってチクチクするし、トイレに行って排せつすると染みて痛い。それに後陣痛っていうのがあるの。大きくなった子宮が元に戻るときに痛みを伴うのよ。人によっては陣痛より後陣痛のほうが痛いって言うわ。だから帝王切開が痛くなくていいなんてことはないの。ただ決まった日に産めるから、スケジュール調整はしやすいかもね。とりあえず、洋平に相談してから決めたら?」

「じゃあ、それ。道子ちゃんにお願いする」

「え?」

「洋平さんに帝王切開のこと、道子ちゃんが説明してよ。あたしから説明するよりも確実に伝わるじゃない?」

「それはちょっと……」

「あたし、道子ちゃんみたいに頭よくないからさ。洋平さんにうまく伝えられる自信ないの。ね? お願い」


 萌が手を合わせて上目遣いに道子を見た。


 ――ああ、この目だ。


 二重瞼の大きな目は潤んでいるようにも見える。何度、この目でねだられただろう。彼女と最初に会ったときもそうだった。弱者を装った目。腹の底ではまったく違うことを考えていると今はもうわかっているのに、どうしても断り切れない。それにたしかに洋平には自分から話したほうがいいだろう。事実を捻じ曲げて伝えられてはたまらない。それこそ帝王切開にしろと脅されたと言われでもしたらたまったものではない。

 道子は深く嘆息すると「わかった」と告げた。


「さすが道子ちゃん。あっ、今ね。赤ちゃんがお腹蹴ったよ。道子ちゃんのこと、さすがだって、この子も言ってるんだね」


 萌は出っ張ったお腹をさすりながら満面の笑みを浮かべた。

 道子は黙ってナポリタンを口にほおばる。あんなに好きな甘いケチャップの味がしない。仕方なくテーブルに置かれたタバスコに手を伸ばした。これでもかというくらい振りかけるとぐちゃぐちゃにかき混ぜた。


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