(2)

 ピンク色の診察台に横たわる妊婦のお腹にエコー検査のプローブを当てながら、田口道子たぐちみちこはふうっと息を漏らした。画面に顔を固定したまま、相手を見ないで言った。


「やっぱり変わってないわねえ。萌。あなた、ちゃんと逆子体操やっているの?」

「毎日やってるよぉ。だってやらなかったら道子ちゃんに怒られるもの」

「それ、わたしは関係ないでしょ? あなたの赤ちゃんなんだよ?」

「でも道子ちゃんはあたしの主治医でしょ?」

「そりゃあ、そうだけど」


 答えながら道子はプローブを置いた。看護師の桑沢みどりが持ってきたホットタオルを受け取ると、金沢萌かなざわもえのお腹に塗られたジェルを丁寧にふき取った。胸元近くまでまくり上げていた服を元に戻してから、診察台の背中側を起こすボタンを押す。診察台はフラットの状態から徐々に垂直に近づいていく。みどりが「気をつけてくださいね」と声を掛けながら、萌の躰に手を添えるのを確認すると、やはり萌の顔は見ないで告げた。


「今日の診察はこれで終わり。また一週間後に来てちょうだい。とにかく体操は続けること。そうじゃないと帝王切開になるわよ」

「帝王切開かあ。そのほうが痛くなくてよさそう」

「あのねえ、萌……」

「ねえねえ、それよりさ。もうお昼でしょ? 道子ちゃん、一緒にランチどう? お話はそのときゆっくり聞くってことで。ね? いいでしょ?」


 萌が甘えた口調で道子の話をさえぎる。自分の都合が悪くなると別の話へすり替えるのが彼女の常とう手段だと道子はよくよく理解している。半ばあきらめのため息をこぼしながら「わかったわ」と告げると、萌は満足そうな笑みを浮かべてみせた。


「じゃあ、いつもの店で。道子ちゃんのおごりでいいでしょ?」

「自分から誘っておいて?」

「だってあたし、道子ちゃんみたいに稼いでないもの」


 萌は当然というように答える。それくらいのお金は夫の洋平からもらっているでしょうに――と言いかけて道子は黙った。その名前を安易に口にしたくなかったからだ。ぐっと奥歯をかみしめて、言葉を喉の奥へと押しやった。 

 萌はと言えば「うんしょ」とお腹を抱えるように背もたれから背中を剥がすと、脱いだ靴を探すようにきょろきょろと首を振った。すかさず道子は足元に靴を揃えてやる。


「さすが道子ちゃん」


 と、萌は屈託ない笑顔を向けてからスニーカーにつま先を入れた。

 そんな萌を道子は横目に見る。臨月に入った萌のお腹は横広がりに大きく膨らんでいる。エコー検査でも女の子であることは確認済みであるが、萌は生まれてくるまで楽しみにしていたいと言って、性別を聞こうとはしなかった。もしかしたら、彼女にとってはどっちでも構わないのではないかと思えてならない。ただ、彼女のどっちでもいいというのは『どうでもいい』ということのような気がして、うすら寒い気持ちになる。それに加えて出産予定日が迫ってくる中での逆子の状態。どうにかして頭が下になるように戻さねば自然分娩は厳しい。


 主治医である道子は萌にその点も含めて指導していたのであるが、まじめにやっていないのか、やる気がないのか。はたまた赤子のほうが元に戻るのを拒否しているのか、一週間前に診察したときと同様の位置で発育を続けている。のんびりと構えるのは悪くないが、無事に生まれるかどうかの責任は主治医である道子の責任問題にもなる。もしも無事に生まれなかったら――洋平はなんと言うだろう。そう思うと、どうしたって萌にはがんばってもらわねばならなかった。


 スニーカーを履き終えた萌が脇に立つ。両手でお腹を支えて「じゃあ、お店で待ってるからね」と道子に告げると、萌は診察室の扉に向かってよちよちと歩き出した。

 ふと脳裏に、夢に出てきたメスの蚊が蘇った。生々しい夢だ。ここ一週間ばかり繰り返して見ているせいで、起きたあとはくったりと疲れはてている。それこそ、夢ではなくて現実ではなかったかと思えるくらいである。


 ――それにしても。


 体中の養分を吸いつくしたメスの蚊。子供を成すために膨れた腹。動きが鈍くなった巨大な蚊の姿は今の萌そっくりだ。

 耳元でブウンと羽音が聞こえた気がして、道子は思わずこめかみのあたりをはたいた。


「先生?」


 その声に道子はハッと我に返る。開院する前。まだ道子が総合病院に勤めていたころから一緒に働いているみどりが心配そうに道子を見つめていた。道子のプライベートまでをよく知っている彼女の眉間に深いしわが刻まれている。そんな彼女を安心させるように『大丈夫』と小さく手を振り返した。


 ――そうよ。別になんともないわよ、こんなことくらい。


 心の中で言い聞かせて、道子は頭に浮かんだ映像を振り払った。そう思うのに、躰の反応は正直だ。まともに萌の顔を見られやしないのだから。そんな彼女はすでに診察室を出て行っているというのに。


「みどりさん、出かけても大丈夫かしら?」

「すぐに生まれそうな方は入院されていらっしゃいませんから。それになにかあったときには呼び出しますので大丈夫ですよ。それよりも、ここのところ先生、顔色が優れませんよ? 早めに切り上げて、少し休まれてはいかがですか?」


 萌とのことを詳しく知っているみどりが気遣っているのがよくわかる。道子は「ありがとう。そうするわ」とみどりに礼を述べると、萌の電子カルテに診察結果を書き加えた。

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